水差しの水で手巾を濡らし、絞ったものを大喬に差し出す。
 軽く黙礼して受け取ると、大喬は自分の目元にぎゅっと押し付けている。
 もそれに習い、濡らした手巾を目元に当てた。
 熱い。そして、痛い。
 涙がこれ程塩辛いのは、どうしてなのだろう。こんなしょっぱいものを、舌で拭い取ってくれた人も居る。
 しょっぱくなかったのかなぁ、などとずれたことを考えた。
「大姐」
 手巾をずらすと、既に涙を拭い去った大喬がを見詰めていた。
 目の周りがほんのりと紅くなっていたが、紅を掃いたのと何ら変わらない。
 の方は、目の周りがぷっくりと腫れ上がっているのが感覚で分かる。泣いても目が腫れない大喬が羨ましかった。
「……大姐、ごめんなさい。あんなこと、言うつもりじゃなかったんです」
 罪の意識に苛まれるのか、大喬の指は固く握りこまれ、更に震えていた。
「私、大姐のことが大好きです……これは、本当です。だから、大姐に嫌な思い、させたくありませんでした……なのに、本当にごめんなさい……」
 大喬が謝ることだろうか。
 最初に傷つけるようなことを言ったのはの方だ。謝るなら、が先でなくては話がおかしい。
 本当に無垢で純粋で可愛らしい、素直な性格なのだ。
 それこそ、憎ったらしくなるくらいに。
「……大喬殿、私のこと、羨ましかったんですか?」
 の問い掛けに、大喬はぎくりと顔を強張らせた。
 否定しかけた首の振りは途中で止まり、しばらく動きを止めた後に肯定に変わった。
「……羨ましかったです……私も、私だって、大姐みたいに孫策様と一緒に笑ってみたかったです」
 大口開けて、涙を浮かべて、腹を抱えて笑う。
 羨ましがられるようなことだろうかと思う。周瑜辺りはきっと『下品だ』と言って蔑むだろう。
 けれど。
 羨ましくなるのはいつも、自分にないものを人に認めた時に限られる。妬ましくて、腹立たしくて、嫉妬でのた打ち回るのだ。
 どんなにくだらないと当人が思っても、他の人にはどうか分からない。自分には当たり前のそれが、他人にどう映るかなど知りようがないのだ。
 当たり前が故にその価値はまったく理解できないが、大喬が羨ましいと言うなら本当に羨ましかったのだろう。
「……私は、大喬殿の方が羨ましいよ。可愛いし、美人だし、私より全然若いし、武術だって男の人に負けないくらい強いし」
「わ、私、そんなじゃありません」
「大喬殿はそうでも、私はそう思わないもん。可愛いもん。ずるい」
「ず、ずるいって、私は私なりに頑張っておしゃれして、お化粧も練習したりして、だからそう見えるかもしれませんけど……それに、私、全然強くないです……今でも、戦場に行くの怖いんですから!」
「私なんか、怖いって思う前に瞬殺されるに決まってるもん。絶対行けないよ、行けるだけ、大喬殿は凄いんだよ」
「だっ……そ、そんなこと仰るなら、大姐は大姐の代わりに戦場に行って下さる男の方がたくさんいらっしゃるんでしょう? 大姐なんか、たくさんの男の人にすごくちやほやされてるじゃないですか!」
「大喬殿、ちやほやされたいの?」
「わ、私は孫策様だけです!」
 互いに羨ましい羨ましいと言い合って、終いには息切れしてきた。
 目元が緩むと、涙が滲む。
「……ごめんね、酷いこと言っちゃって」
「そんな、私の方こそ……」
 言葉が途切れた。
 顔を向き合わせて、互いに見詰める。
 大喬の目に不安が過った。
 何、と問い掛けるように首を小さく傾げると、大喬はその場にきちんと座り直した。
「孫策様とのこと、本当ですか」
 友達になる、と言ったことだろう。
 がこくりと頷くと、大喬の目が悲しげに顰められた。
「孫策様、本当にいいって仰ったんですか。本当に大姐と友達になるって、仰ったんですか」
 言う訳がないとを責めるような口調だった。
 思わず笑うと、大喬はを睨め付ける。
「……ごめん、大喬殿、本当に伯符のこと好きなんだなぁって思ったの」
 途端、顔を真っ赤にして俯く大喬を可愛らしいと思う。
 この子なら孫策の隣に居るのに相応しいと、心の底から納得できた。
「私じゃ、駄目なんだと思うんだ」
 託したいと思うのは傲慢かもしれない。孫策はの『物』ではないのだ、勝手に渡す渡さないと議論していいものではなかろう。
 だが、は敢えて言葉を綴った。
「前の時もそうだし、今度のこともそうだし……私、伯符にダメージ……傷付けて、嫌な思いばっかさせてる気がするのね。大喬殿は、支えてるって言ってくれたけど、そんなん支えなんて言っちゃいけないと思うのよ」
「でも」
 大喬が口を挟む。
「でも、孫策様は」
 をとても、とても大事に思っているのだ。
「大喬殿のことも、大事に思ってるよ」
 とても大切に、愛おしんでいる。そのことを、ははっきりと見てきた。
 大喬は赤面して俯いていたが、に同意してこっくり頷いた。
「傍に居て支えになるんなら、きっと友達くらいがちょうどいい。私と伯符は、たぶん、そういうのが一番居心地いい関係なんだと思う」
 求め過ぎるから傷付けてしまうのだ。求められ過ぎるから、傷付けられる。友人として、互いの領域を尊重しあうのが一番いい。
 の出した答えは、それだった。
「でも」
 尚も言い募ろうとする大喬に、は微笑を向けた。
「大喬殿のこと、大好きです」
 突然為された告白に、大喬は絶句してしまう。
「伯符も大好きだから、二人にはずっと仲良く居て欲しいんですよ」
 傷付けてしまうくらいなら、そこに自分の居場所はなくていい。
 分かるような気もしたが、分かりたくはなかった。
 再び泣き出した大喬を、は自分の腕の中に抱き寄せた。
「……どうしても、どうにもならないことだってあるじゃないですか。私は、伯符も、大喬殿も好き。だけど、どんなに気を付けようって思ったって、いつの間にか忘れちゃってこんな風に傷付けちゃう。私は、それが嫌なんですよ。どうしてこんなことするのかって、自分のこと嫌いになっていく。だから」
 前に、姜維にも言った言葉だ。
 自分を嫌いになりたくないのだ。なけなしの自信を失くし、捻くれた自分を好きだと言われたとて、何も嬉しくない。
 人を傷付けてまで自分の居場所に固執するような、そんないじましい人間にはなりたくなかった。ちやほやされたい訳ではない。お世辞、おべっか、社交辞令、どれも鳥肌が立つ。
 必要がないとは言わない。けれど、過剰なそれらにぬるま湯のように浸かっていたくはなかった。大切な人だと言うなら、尚更だ。
 心をぶつけ合うのは酷く痛みを伴うけれど、その痛みを越えられる相手と巡り会えるならば、それは一つの奇跡だと思う。
 本当の友達は、人生の中で出会えるか出会えないかの希少な存在だ。
 孫策となら、友達になれると思う。いや、なりたい。是非なって欲しい。
「……私ね〜、もう、ホントーに伯符のこと大好きなんですよぅ」
 孫策が友達になってくれたら、もうホントに顔がにやけて止まらないと思う。
 辛抱溜まらん、とうめくに、大喬は分かったような分からないような複雑な面持ちだ。
「私、良く分かりませんけど……孫策様は男の人で、大姐は女の人なのに……お友達になれるものなのでしょうか……」
「何、人間何事もやる気と根気です」
 良く分からないと言っている大喬に、は更に訳の分からないことを言い出す。
 これもの特質なのかと思う。
 訳が分からないながらも、つい納得してしまう。上手く煙に巻かれた感じだ。諸葛亮もそんなところがあったし(説得力と言う点では段違いなのだが)、周瑜がを苦手だと言うのも、案外この辺りの気質のせいなのかもしれない。
 しかし、どうしても見逃せない、気になることがあった。
「大姐、私は?」
「へ」
 大喬がむっつりと唇を尖らせる。私、と言って自分を指差した。
「私は、大姐のお友達ではないんですか?」
 友達と言って欲しかった。大喬とて、のことが好きなのだ。なって欲しい、辛抱溜まらんと言って欲しかった。
 が聞いたら引っくり返りそうなことを、大喬は概ね本気で考えていた。せがむように体を揺する。
「大姐、どうなんですか」
「だ、大喬殿はー……どっちかって言うと妹、かなぁ」
 友達と言う程対等には考えられない。妹と言うのもおこがましいが、考え得る限りで思い付くのはその単語だった。
「嫌です」
 ぱっきりと却下食らって、はあんぐりと口を開けた。
「だって、それでは星彩様と同じですもの」
 違うのがいい、と言って聞かない。
 大喬にしては珍しい我がままに、はどうしたもんだと内心冷や汗が吹き出す思いだ。
「えーと、えーと……お姉さんって感じでもないし、なぁ……」
「姉じゃ、嫌です」
 小喬が居るから、姉はもういいと言う。
 他の、とせがまれ、も懸命に考え込む。
 友達と言ってしまえば良さそうなものだが、そこにどうしても気が付けないらしい。
 とは言え、大喬の方も『友達に匹敵する特別な称号』を得ることしか考えられない。今更『やっぱり友達で』と言われても納得できないのが、人間の心理と言うものだろう。
「えーと、じゃあ……お嫁さん」
「大姐、女の人じゃないですか」
 不服げな大喬に、はしかし『自分の住んでいた国では、一緒に住みたいと思う大好きな人に性別関係なく嫁になってくれと言う風習がある』と説明を加えた。
 嘘ではないと思う。
 一部限定ネタにはなるが。
 それで、大喬もようやく納得してにっこり微笑んだ。
「では、私は大姐のお嫁さん、ですね!」
 嬉しそうに微笑む大喬に、は思わず『男だったらここでチュウだな』と不穏なことを考えた。
 それだけ愛らしい、可愛い笑顔だったのだ。
「……大姐、それ、他の人にも言って下さい」
「ゑ゛」
 表記し難い音でうめくに、大喬は不満を露にした。
 だが、孫策の嫁を自分の嫁だと吹聴したら、あらぬ誤解を受けないだろうか。否、受けること必至だろう。
「いや、それはちょっと……」
 逃げ腰のを見詰めていた大喬は、出し抜けに立ち上がった。
 何処に行くのかと思ったら、の装束を手に戻ってきた。嫌な予感がして、無意識に体が回避行動に移る。
 しかし、相手は移動速度でAランクを誇る大喬である。あっという間にとっ捕まった。
「ちょ、大喬殿!?」
「広間に行って、皆さんに言って下さい。私のこと、大姐のお嫁さんなのだって、ちゃんと」
 まずは孫策様に、と寝言こかれて悲鳴を上げる。
 の抵抗を物ともせず、大喬はに装束を着付けてしまった。大喬の攻撃力がCランクならば、の防御力はZランクに違いない。民以下だ。
「さ、参りましょう、大姐」
 抗うべくもなく、は大喬に引き摺られて広間に向かうこととなった。
 孫堅と孫策が今まさに睨み合う宴の間へ。

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