うっかりと寝過ごしたは、覚醒と同時に飛び起きた。
孫権に腰が抜ける程責め立てられた後、苦情の申し立てもならぬまま眠りに落ち、熟睡することもなく今度は湯浴みと言って起こされた。
起き上がれないのを半ば無理矢理引っ立てられて、それでも腰が崩れ落ちるものだから、孫権の介助付きで湯を使ったのだ。
お陰で体は綺麗になったものの、温まった体は眠りを誘い二度寝に落ちて今に至る。
辺りに人気はなく、は一人で眠っていたようだった。
もっとも、真面目な孫権が仕事を放ってまでにかまけよう筈もないから、と言うことはもうそれなり遅い時間なのだ。
やばい、と汗が滲む。
最近は、呉の家人がの面倒をまめまめしく見てくれていたから、あまりに起きるのが遅ければ起こしに来てしまう。
が室に居ないと分かれば、誰かの室に泊まりに行ったと勘繰られないとも限らない。
牀を共にした野郎どもに言われるのは、百歩譲って我慢しよう。
だが、呉の家人の間で『あの蜀の文官様は、実は口に出すのもおぞましい、淫乱な女なのだ』などと触れ回られては落ち込むどころの話では済まない。
それが事実だから何とも救いようがないが、ここまで来て未だ外面を取り繕わずには居られない自分が居る。
見栄っ張りと言われようが、希代の悪女面などできるような面構えでもないだけに、はおちおちしても居られず廊下に飛び出した。
孫権の室を出ると、既に日は高かった。
冬の季節の話だから、もう相当の時間が経っているに違いない。
何時だろうと確認しようにも、時計がそこらにある訳がなかった。
呂蒙とは昼過ぎに約束をしている。
日の高さから言って、未だ間に合うかもしれない。
は駆け出し、まずは自分の室を目指した。
自室に走りこんだが、誰かが来た形跡はない。
鍵も掛けていないような状態だったから(の室には中から掛ける閂しかない)、外出しているとでも思われたのかもしれない。
外出と思っていて欲しい。外泊とは勘付かないで下さい。
無茶な注文を念じながら、急ぎ準備に取り掛かった。
身支度を整え、勉強の為に借り受けた竹簡や筆記用の竹簡などを手に廊下を行く。
ちょうどその時、時を告げる鐘の音が辺りに響いた。呂蒙との約束の時間を告げている。
何とかぎりぎりで間に合った。
食事は取ってなかったが、寝過ごした自分が悪いから何とも言えない。
呂蒙の室の前で、室の中に向けて声を掛ける。
執務室に居る間、呂蒙の室に警邏の兵は付いていない。不必要だと言って、休憩を与えているらしい。
呂蒙らしいが、警邏の兵は呂蒙の身を守る為に付いているのであって、用向きを伺う為に置かれている訳ではないだろう。
いくら城の中で安全とは言え、それを休ませてしまっていいものかとは時々不安に思う。
呂蒙とて、呉にとっては大切な将の一人だ。
自分の価値にあまりに無関心では、周りの兵達が心配するのではないかと思うのだ。
奢って、偉そうにするよりは余程良かったが、そもそもの話偉そうにそっくり返っている呂蒙など想像も付かない。
しばらくして、返答より早く扉が開かれる。
顔を出した呂蒙は、の顔を見て怪訝な表情を浮かべた。
あれ。
汗が浮く。
「……今日じゃ、なかったでしたっけ?」
寝惚けて勘違いしていただろうかと顔が引き攣った。
もしそうだとしたら、ただの恥晒しだ。
固まるに対し、呂蒙は小さく溜息を吐いた。
「……先程、孫権殿から使いが来て、今日の講義は孫権殿が見られるから良いとの通達があった。行き違いがあったようだな」
げ。
そう言えば、と突然記憶が蘇る。
あまりにぐだぐだなの様に、これでは今日の用事はままなるまいとか何とか、孫権が言っていたように思う。
予定を訊かれて、何とかするから眠っていろと牀に戻されたのだった、ような気がしてきた。
どうしてもはっきりとはせず、フィルタを通して見るようなおぼろげな記憶だったが、まず恐らく間違いない。
孫権が色々気を回して手配してくれたものを、が素ボケかまして台無しにしてしまったのだ。
さぁっと血の気が引く。
青褪めたの様に、呂蒙は強張っていた表情をやや崩した。
「……孫権殿が、探して居られよう。急ぎ戻られよ」
呂蒙の顔を困惑したように見詰めていただったが、ややもしてこくりと頷き駆けて行く。
その背が廊下の角を曲がって見えなくなるまで見送り、呂蒙はそっと戸を閉めた。
溜息が漏れた。
意地の悪いことを言ってしまっただろうか。
反芻するも、呂蒙には判然としなかった。
女心などと言うものは、どうにも学び難い。
武は鍛錬を積めばいい、学は学び修めればいい。容易ではなくとも、日々求め続ければやがてこの身の蓄えとなる。
女心はそうもいかない。
千差万別の微細な感情の色模様は、呂蒙の考えなど到底及ばぬ程に機微に富んでいた。
まったく女っ気がなかった訳ではないが、向こうから袖を引いてくる場合が大体で、呂蒙の方からどうこうということはまずほとんどなかった。
大体が、忙し過ぎた。
若い頃には武を極めることこそ重要と武に明け暮れ、知も磨かねば一人前とは言えぬと諭されて後は学に明け暮れた。
平凡を絵に描いたような己では、それこそ天賦の才を与えられた者達の数倍数十倍の努力をせねばならなかったのだ。
色恋にかまける暇はない。
それはその通りで、揺ぎ無い事実だった。
だが、今こうして『かまけてしまわざるを得ない』立場になってみると、自分からはどう動くべきなのか呂蒙にはまったく分からなかった。こればかりは、書物を紐解いても参照になるものが見受けられない。
動く前から諦めざるを得ず、諦めるには聞き分けない方寸の痛みに、呂蒙はただただ深い溜息を吐くより他なかった。
何にこれ程急き立てられるのだろうか。
は、極平凡な女だ。不細工ではないが、美しいという程ではない。
それ故に目立たぬ容姿で、取り立てて人目を引く訳ではなかった。
諸葛亮が自らの珠と称していると聞き及ぶが、学問を見てやっている身としてはどうにも眉唾だ。
知らないにも程がある、と思うことさえしばしばなのだが、の身の上を考えれば致し方ない話かもしれない。
中原の存在すら知らぬ女が、ある日突然村を焼かれ、住む場所を失ったのだ。
身寄りがないから仕方なく頼った将に連れられ、何も分からぬ土地で慣れる間もなく囃される。
自分の身の上に置き換えれば、これ程不安なこともなかろうと身震いがした。
憐れみから惹かれるのだろうか。
呂蒙が思うに、の身に降りかかる災難こそ哀れんできたものの、自身を哀れんだことはない。
は、何事もなければ至極穏やかに笑っている。酔えば陽気になって歌い、舞い、親しげに色々話し掛けてくる。無邪気な幼い振る舞いだ。
一見無礼とも取れるが、しかし万事細かいことにはこだわらない呉の将達は却って興に乗せられ、を引っ張り回して楽しんでいる。
恐らく、そうして引き回されても尚遠慮がちに尻込みするから、気に障らずに歓待されるのだ。
これが当然とが図に乗った暁には、如何な呉将と言えどもにそっぽを向くに違いない。
してみると、今のの立場と言うのは非常に曖昧で不安定な均衡の上に成り立っていると言っても過言ではなさそうだ。
呂蒙は、改めての身の上を案じた。
一人の女に男達が群がることは珍しいことではない。
ただ、の場合は人数や男達の立場が特殊過ぎた。
第一に呉の主家たる孫家が、親子の区別なくを欲しがっている。これは異常なことだと言えた。
大殿の物好きにも困ったものだと笑いながら零していた黄蓋が、最近は不機嫌そうにむっつりしていることからして不穏を感じる。
もしそれが、主たる孫堅がに本気になった表れだとしたらどうだろう。
親子で争い血を流すことなど愚行の極みだ。
孝の教えに背くことなど、儒を尊ぶことで治まっている豪族達へ、謀反の正当な理由を与えるだけだからだ。ここまで大きく堅牢に培ってきた国の礎を、むざむざ打ち砕こうとは誰も思うまい。
だが、ひょっとしてと考えて、呂蒙は慌てて首を振るった。
考えたくもなかった。
が傾国の美女になる訳がない。
惹かれていると自覚はしても、を抱く己の姿も抱かれるの姿も想像できなかった。
孫堅が『女を見る目が変わる』と言っていたのは聞いたのだが、呂蒙は腑に落ちないままで居る。
そんな風には見えないし見るつもりもない。
呂蒙がに惹かれるのは、だからそういう類の欲求からではなかった。
ただ、目で探している。追っている。
居ると安心する。居なければ寂しくなる。
寂しくなる。この俺が。
自嘲じみた笑みが漏れ、呂蒙は適当に並べられた竹簡の一つを適当に取った。
読むつもりはない竹簡を、手持ち無沙汰に広げてみる。
――好き音は内なる調和を導き、悪しき音は内なる調和を乱す。
孔子は、音楽は食べることと同じように人に欠くべからぬものだと言っていたそうだ。
の歌は、『好き音』と『悪しき音』のどちらになるのだろう。
心を掻き乱すという点では悪しき音になるのだろうが、そうして乱される痛みは酷く心地良かった。
――すんげぇ、歌が上手いんだ。
あれは、孫策だった。
聞いても居ない『』という女の話を、機嫌良く滔々と話し続けられた。呂蒙はこれから軍議に赴こうという時だったので、大層困ったのをよく覚えている。
あの時も、この話をふと思い出した。
どちらなのだろう、と意味もなく考えたものだ。
そう言えば、と呂蒙の思考は違う方向へずれていく。
当の孫策の帰りが遅いようだ。
戦地の想定もない練兵にしては、ずいぶん時間が掛かり過ぎる。ただ兵の動きを見るだけならば、わざわざ離れた練兵場へと赴く必要もないように思えた。
徒歩で少しばかり行ったところに練兵場など幾つもある。尚武の気質故、その方面の備えは他国より上回っていると自負しているくらいだ。
そう言えば、練兵に出立するのもやや唐突な印象があった。
備えていた計画していたという話は何も聞いていない。
周瑜が万事手筈を整えたからかもしれないが、それにしても耳に入るぐらいはしても良かったのではないか。
まぁ。
凌統にしても、命じられた討伐は颯爽と終わらせたものの、近在の血族の依頼でまま別の討伐に赴くことになった。
あれとて唐突といえば唐突だったのだから、孫策の練兵など彼の人となりから考えれば然程おかしな話でもない。
凌統から許しを請う書状が届いた時、孫堅は二つ返事で了承した。
兵糧を負担してもらえるということも大きかったろうが、何よりの元に凌統を返したくなかったのではないかと呂蒙は邪推していた。
の凌統を慕う姿は、何処か人を苛立たせる。
あまりに開けっぴろげに頼り過ぎていて、まるで本当の家族のようだ。
本当の家族でなどないと分かっているから、妙な疎外感を人に与える。
意図してやっているのではないだろうと分かってはいたが、それでも腹の辺りの何かが騒いで落ち着けないのだ。
嫉妬だろう、と見当は付いた。
の全幅の信頼が自分にないことを見せつけられて、子供のような焼餅を焼いているのだ。
自分を飾ることのない呂蒙だけに、そうした醜い感情も見出し見詰めることが出来てしまう。
良いことではない、と胃痛を抑えた。
当り散らすこともできず、心で心を責め、己の体をも痛めつけてしまう。
否、一度だけ当り散らしてみたことはある。
却って胃を痛めただけだった。
すみません、とうろたえたように惑う瞳が焼き付いている。しょんぼりと肩を落としていた姿に自己嫌悪を覚えた。
教えてやっても良かったのだ。別に詳細は言わずとも、少し掛かりそうだとか元気にしているとか、そんな程度の話なら何と言うこともない。
何故教えてやらなかったろうと悔やんでも、既に後の祭だった。
小者だ。
そして、呂蒙の思考は最初に立ち返る。
の、何に惹かれてしまうのか。
扉の外から誰かが声を掛けてくるのに気が付いた。
慌てて扉を開けると、まさかと思っていた当人が立っていた。
「……あの、孫権様にはお詫びしてきて……で、もし、呂蒙殿がお手隙なら、やっぱり呂蒙殿に教えていただきたいと……」
どうでしょうか、と不安げに呂蒙を見上げるに、呂蒙は一瞬かっと腹を立てかけた。
だが、自分がいったい何に腹を立てたのかも分からず、転瞬そんな己の不可解さに落ち込んで、困惑したままを見詰めた。