いつもは気にならない静けさが、今日に限って耳障りに思ってしまう。
 音がないのだから耳に障る訳がないのだが、何故か鼓膜がむずむずするような気がして仕方がない。
 の申し出を受け、呂蒙は一瞬嫌そうな表情を浮かべた。
 見逃しようもなく露骨に変わった表情に、腹の奥が凍りついたような錯覚さえ覚えた。
 すぐに掻き消えた嫌悪の表情は、しかし愛想笑いに転じることもなく暗く沈んだものへと変わった。
 どう捉えたらいいのだろうか。
 嫌いな人間に不意を突かれて応対しなければならなくなったとしたら、嫌悪から愛想笑いに転じるのが普通だろう。
 だが、呂蒙は表情を作るタイプではない。感情を露にした未熟を恥じたのかもしれない。
 素朴と言っていい人柄は、年若の将達に頼り甲斐のある上司然として映っているようだ。あの甘寧ですら、呂蒙には気安く懐いている。
 威厳がないのだと呂蒙本人は苦笑しているが、個性の強い呉でこれだけ慕われるのは、やろうと思ってもなかなか出来ないことだろう。元来からの面倒見の良さと、決して本人を否定せず根気良く説得にあたる姿勢は呂蒙ならではだ。
 それだけに、呂蒙がを疎んじているらしいのは分かっても、どう対応したらいいのかは分からなかった。呂蒙から見放されるということ自体が想定外なのだ。
 嫌な顔をされた時、すぐさま謝って引き返せば良かった。
 初めて見た呂蒙の表情に驚いて、すくんでしまったのがいけなかった。
 呂蒙は暗い表情のまま、扉を大きく開いてを招き入れた。仕方なく招き入れたと取れなくもない。
 それでうかうか足を踏み入れたのもまずかった。
 やっぱりいいです、とが申し出るのを待っていたのかもしれない。
 遠慮がなさ過ぎだった。
 だいたい、昨夜孫権と何をしていたのかも薄々感付かれているだろう。
 ふしだらだと責められることも、この呉では何故かスルーされてしまっている。
 皆の共有の『品』と認定することで、の意志とは関係なくどんな男でもを誘っていいことにされてしまったのだ。
 呂蒙は、そのことを知っているのだろうか。
 自身がそれを知り、尚且つ孫権に体を開いたことを知ったらどう思うだろうか。
 責めるだろうか。それとも、拒絶するだろうか。
 竹簡の上を滑っていた筆がぴたりと止まる。
 思考が散り散りに散って、集中できなかった。とても勉強なんてしていられないと思った。
 しかし、申し出たのはの方なのだ。孫権に詫びだけ入れて、事情の説明もそこそこに駆け戻ってきた。
 このままにしてはいけないと思ったのは、だがのみの都合である。
 呂蒙の気持ちを考えずに押し掛けたことを、今更ながらに後悔していた。
 せめて、今日のこの時間ぐらいはちゃんとしっかりやらなくちゃと筆の動きを再開させる。
殿」
 突然呂蒙が口を開き、を呼ぶ声がを酷く驚かせた。
 手が滑り、取り落とした筆は何も書かれていない部分へ点々と墨の跡を残して転がった。
「あ」
 うろたえて筆を取り押さえようとするも、筆は無常にも床へと落ちた。
 呂蒙が屈み込んで拾い上げてくれる。
「す、すいません」
 目を合わせるのもおこがましい。
 筆を受け取ろうと差し出した手に、だが呂蒙が筆を返してくれることはなかった。
「すまん」
 いきなりの謝罪に、は思わず顔を上げた。
 何に謝られているのかも分からない。
 第一、呂蒙がに謝るいわれがない。
 絶句したまま呂蒙を見詰めているに、呂蒙は苦く笑った。
 例えようもなく苦い笑みは、呂蒙の苦悩の深さを反映しているかのようだった。
「……洗いざらい、白状してしまいたいのだが。よろしいか」
「え」
 何を言い出すのかも分からない。
 けれど、呂蒙の目があまりにらしくなく潤んでいるように見えて、には断ることが出来なかった。
「……はい」
 姿勢を正し、竹簡から呂蒙へと向きを改める。
 呂蒙もまた、に向かって椅子を向けた。
「俺は、貴方のことを好いている。女として、見ている」
 切り出す言葉としては、あまりに重く鋭い言葉だった。
 は目を見張り、わずかに口を開いた。
 何か言おうと思ってのことだったが、言葉は見つからず結局閉ざすより他ない。
 黙ったままで、けれど喜ぶ様子のないに、呂蒙は苦笑する。
 喜ぶ訳がないと思ったが、だからと言って平静で居られることもない。やはりな、と落胆した。
「……凌統の件も、本当は教えても良かった」
 が顔を上げる。
「ただ、俺が嫉妬して教えたくなかっただけだ」
 婉曲に言った方が、己の為にもの為にもいいのだろうとは思う。だが、呂蒙ははっきり言い切ることを選んだ。
 元より呂蒙は美辞麗句の類は得手ではない。そんなもので誤魔化し偽るぐらいなら、傷付き傷付けてもはっきり言う方が何倍もマシだと思えた。
 飾らない言葉は短くて済む分、あっという間に告白を終えてしまう。
 は、呂蒙の言葉を反芻しているようだった。
 しばらくの間、沈黙が続く。
「呂蒙殿は、」
 迷い迷い、が口を開いた。
 呂蒙は自分の言いたいことを言ってしまったのだから、後はが口を開くしかない。
 無理に返事を促すようなやり口で、卑怯だったな、と自嘲が漏れる。
 戸惑い口を閉ざし掛けたに、呂蒙は言葉の続きを促すように頷いた。
「……呂蒙殿は、孫堅様の命令、お聞きになったんですか」
 思い掛けない言葉だった。
 てっきり呂蒙の告白に類する言葉が返ってくると思っていただけに、孫堅の名は呂蒙を悪戯にうろたえさせた。
 肯定すると、はまた少し考え込んだ。
「……呂蒙殿も、私のこと、試して、みたい、って思ったんですか」
 試してという言葉を発した時、の声は小さく震えた。
「いや」
 呂蒙は、泣きたくなるような心持ちを必死に抑えた。
「……いや、俺は、……そうだな、思ったかもしれない、だが」
 の表情も泣き出しそうな表情に変わる。
 否定し、肯定し、呂蒙の心も乱れていた。
「俺は、ただ、貴女に居て欲しいだけだ」
 やましい感情がないとは言い切れない。
 けれど、呂蒙にはをどうこうしている自分など想像も付かない。ただこうして隣り合っていたいと思っていた。
 愚直な己のことだから、望みが叶った後に何を思うかは定かでない。
 だが、女であればいいのなら、である必要はないのだ。
 君主一族の想う女に懸想する。
 それは、呂蒙にとっては耐え難い苦痛だ。忠臣であるが故、両立する筈がなかった感情だった。
「女として、見てるんでしょう?」
 は、訳が分からないといった態で唇を曲げた。
「なのに、……抱く、のが、想像できないって」
「おかしいだろうか」
 呂蒙も困り果てていた。
 腕に抱くことは想像できる。その先は、想像できない。
 妄想を抱くことが出来ないなら恋慕ではないと言うなら、呂蒙の感情は恋慕ではないだろう。
「どのみち、俺は何も望まん。ただ、黙っているのが辛くなっただけだ。黙っていれば、俺のこの口は阿呆なことばかり言い居る。……貴女を、何の意味もなく傷付ける。それが嫌だったまでのことだ」
「望まん、て」
「文字通りだ。貴女が嫌だと仰るなら、俺は貴女の前に顔を出さぬようにする。忘れたいと仰るなら、二度と言うまい。阿呆な口も完全に閉ざしてみせる。貴女の、好きなようになさるがいい」
 迷惑を掛けた、と締めて、呂蒙は口を閉ざす。
 は、呂蒙を見詰めていた。
 唇を真一文字に引き締めて、傍からは呂蒙が説教されているように見える。
 の眉間にきゅっと皺が浮き、嫌悪の表情が生まれた。
「迷惑って、何で迷惑だと思うんですか」
「それは……」
 迷惑と言ってはいけないなら、何と言えばいい。
 己なぞに好かれて嬉しい女は早々居るまいと呂蒙は思っていた。見目はこの通りだし、女心の機微など何も分からない。詩吟奏楽の類には縁がなく、その才もない。
 女に囃される男では、まずない。
 の眉間の皺が更に深くなった。
「犯しますよ」
「お」
 あまりな言葉に、呂蒙は絶句した。
 女から言う言葉ではない。まして、から言われる言葉としてはまったく想定していなかった。
「顔が綺麗で女心に詳しくて、詩吟奏楽の才に満ち溢れてるって、そんな男じゃなきゃ女が恋しないと思ってるんですか」
 まぁ呆れたと連呼し、本当に呆れた目で呂蒙を見るのでたじろいでしまう。
「そんなの、こっちの台詞です。私の何処が見目麗しくて、男心に詳しくて、詩吟奏楽の才に溢れているのか教えて下さいよ」
「いや」
 それはあくまで男の話で、別に呂蒙がに求めていることではない。
 言えばいいようなものだが、に気圧されてしまって上手く言葉にならなかった。
「あのねぇ、呂蒙殿。そんなこと言うんなら、呂蒙殿は私の何が好きだって言うんですか」
 そこが呂蒙にもよく分からない。
 先程も考えて込んでいたぐらい、呂蒙にとっても謎だった。
「考えてみても下さい、私、呂蒙殿が知っている人と、何人か寝てるんですよ。意味、分かります? 寝てるんです」
 そんな女を好きになってもらって、それで自分なんかと言われてしまってはの立場がない。
 の言いたいことは分かるような気もしたが、何もが怒ることではなく、まして呂蒙が怒られることではない。
 呂蒙も何かおかしいぞと思い始めたが、の口は火が点いたように止まらなくなった。
「儒の思想で言えば、石投げられても文句言えない女なんですよ? 儒の思想でなくてもいいな、大抵何処でも嫌われるし、疎まれる女ですよそんなん。それを好きになってもらって、しかも体が目当てなんじゃなくて、私が何文句言えるってんですか。言える訳ないでしょう」
 一度途切れた言葉に、呂蒙は口を挟もうと試みる。間髪入れず、だいたいね、と続いてしまった。
「呂蒙殿、もてない訳がないでしょう。面倒見が良くて、親切で飾らなくて、忠臣の鑑みたいな人が。好きじゃないなんて女、無視しとけばいいんです、そんなの。私、前に言いませんでしたか。呂蒙殿が好みだって。言ったでしょう、言いましたよね。言ったもの」
 ね、とずずいと顔を寄せられて、呂蒙は仰け反った。
「そ、れは」
「言いました」
 がそう言ったのは覚えている。酷く照れ臭くて、嬉しかったものだ。
「……だが、俺が……その、貴女を、好きでも、許されるのだろう……か……」
「許すも許さないも」
 椅子に腰を戻し、は溜息を吐いた。
「何で、私ですか」
 何故だろう。
 改めて考えても、やはり答えは見出せなかった。
「私、ろくでもないですよ。さっきも言いましたけど」
「犯す、と?」
 呂蒙の言葉に、は赤面して仰け反った。
「いや、それは勢いというか綾というか。……何ていうか。それぐらい、ちゃんと呂蒙殿魅力ありますよって言いたかったっていうか」
「俺が触れても、嫌では、ないと?」
 は体を捻って机に突っ伏してしまった。
 顔は隠れているが、露出した耳は赤い。きっと、真っ赤になっているのだろうと呂蒙にも想像が付いた。
 けれど、やはりを抱いている姿は想像できない。
 その場になるまで、きっとできないだろう。
「触れても、いいだろうか」
 伏せていたの肩が小さく跳ねた。
 恐々と顔を上げたは、やはり真っ赤になっていた。
「……こういうの、普通なんですか? 私がどういう女でどういうことになってるか、呂蒙殿、分かって言ってないでしょう」
「普通がどうなのか、俺は知らん。だが、俺の方寸は疾うに定まっている」
 ではないが、儒の思想から言えば、君主を差し置いて女を求めるなどとはあってはならないことだった。
 それでも諦めきれないからここに至るのだ。
「今、呂蒙殿に触らせても、私また違う人にも触らせますよ」
 変なところだけ自信たっぷりになれる自分が嫌で、は目に涙を浮かべた。
「いいんですか。後悔しませんか」
「しない」
 明朗に言い切った呂蒙に、は自らの敗北を認めた。
 これで呉将コンプリートにまた一歩近付いた!
 頭の片隅に浮かび上がる文面に、は悶絶しつつも立ち上がる。
「……ホントに、いいんですね?」
 最終告知のように確認を取ってしまうに、呂蒙はただ頷いて見せた。
 言葉は、思い浮かばなかったのだ。
 は呂蒙の前に立つと、その肩に手を置き、静かに唇を寄せた。
「おっさん、居るかー!?」
 陽気な声が乱入し、は腹筋の持つ力をフルに使って仰け反った。
 勢い余って転倒した瞬間、甘寧がひょっこり顔を出す。
「何やってんだ、お前ぇ」
 猫の子を摘み上げるようにを起こすと、呂蒙に向けて竹簡を差し出す。
「ほらよ、おっさん。ちゃんと仕上げてきたからな。これで文句ねぇだろう?」
 文句はあった。
 だが、言えない。
 渋面を作りながらも素直に竹簡を開く呂蒙に、甘寧は手柄顔で胸を張る。
「早くしろっつってたろ? だから、大急ぎで仕上げたんだぜ」
 褒めろとせがまんばかりの甘寧に、脇で肩を落とすは感謝していいのか呪詛していいのか本気で悩んでいた。

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