は自室で竹簡に向かい、最後の訂正をしている最中だった。
 甘寧は割合さっさと退室したのだが、ついでにを連れて室を出た。
 疲れてるだろう、たまには休めよと、珍しくも呂蒙を気遣う言葉に、一瞬を引き留め掛けた呂蒙も二の句が告げなくなってしまったのだ。
 ぎりぎりの線で回避された口付けは、それこそ互いの体温を察することが出来る程近かった。
 ですら煽られたのだから、残された呂蒙のやるせなさは考えるだに惨い。
 男の感覚など女であるには分かりようがなかったが、知りうる知識から言えば、男の持つ欲求は女のそれを上回るのだそうだ。逆に、女が感じる快楽は男のそれを遥かに凌駕し、それでとんとんという仕組みになっているものらしい。
 本に書いてあったことだから信憑性など量りようもないが、それでも何となく『らしい』とは思う。
 妊娠出産に携わる労苦は相当なものらしいし、そうでもしないと男も女も子を生そうなどとは思わなくなるのだろう。
 現代における避妊の技術は格段に進歩した。
 それに倣って人が楽しむ為の設備や技術も進歩を遂げ、またそれに伴う経費の向上により、出生率の低下に繋がっているというのが一般的な見解だろう。無論、食物に含有される添加物やホルモン剤により、人間の体そのものが受胎しにくくなっているという事実もあろうし、産み育てるだけの体力を持たないという問題もある。
 結婚平均年齢の上昇などと考えていけば限がないが、要するにこの世界の人間は、子供を作る行動に対しては現代人より遥かに関心が強いということだ。
 誰でもいい、という訳では恐らくないだろう。
 だが、一人でなくてもいいという考え方が許されているのが、どうにもの納得し難い点だった。
 一夫一妻とは言われているが、実際は妾を持つことが許される一夫多妻制が自然な制度で、その点はも何とか理解できる。
 戦乱の世で、自分の血を後世に残そうとなれば、妻が一人ではとても足りないのだろう。子供の体は弱いし、ちゃんと育つか分からないのだ。育ったところで病や事故、戦乱に巻き込まれて早死にしないとも限らないから、『予備』は幾らでも居た方がいい。
 だが、の場合はそうした理由がない。
 相手が幾ら居ようと、孕む腹は一つ限で生める子供の数にも限度がある。
 楽しみの為だけに複数の相手と致すというのは、にとってはなはだ複雑な心境だった。
 体は淫乱かもしれない(もう逆らうのも面倒だった)が、心まで淫乱と言うことはない。
 どうしてこういうことになってしまったのか、思い出そうにも思い出せない状態が続いている。
 皆が皆、それで良いと言う。他に男が居ても良いというのだ。
 そんなことがあっていいものだろうか。普通、本当に好きだったら独占したくなって当たり前なのではないだろうか。
 だったら、本当に好きなのではなくて、単に。
 は溜息を吐いて筆を止めた。
 好かれていると思う時もあるし、今のように疑ってしまう時もある。一人に絞らなかった自分のせいだと思うと尚更遣り切れない。
 一番偉くて強い男を選べと春花が言っていた。
 それで行くと誰になるのだろうか。今なら、孫堅になるのか。
 すっきりしない。
 好きか嫌いかも判然としない相手だ。体を重ねたのは一夜限りだったが、そも先方はを共有したがっている。一人占めしようという意志はないのだろう。
 辛いよ、と当帰が言っていた。
 本当だな、と投げ遣りに実感した。
 いつ妊娠するか分からない。それが誰の子かも分からない。
 そんな状態がいいことだとは決して思えなかった。子供が可哀想だ。
 もし父親が居なかったら、やはり父親を恋しがるだろう。仮に父親が出来たとして、本当の父親ではないと分かったらどう思うだろう。
 馬超は、に『お前の子なら俺の子だ』と言ってくれた。
 だが、この場合の問題はではなくむしろ子供の方だろう。
 その子供は、今居る訳ではない。
 居ない子のことを悩んでどうしようと言うのか。
「うー」
 頭が痛くなってきて、は頭を掻いた。
 考えても限がないし、こればかりはどうしていいのか、悩んだところではっきりした答えは出てくれなさそうに思える。
 とりあえず、出来ることから片付けよう。
 呂蒙の室を辞して、思いがけず時間が空いたことから大喬の為の竹簡作りにかまけている。
 口付けの件からいよいよ服を脱がす辺りまでに至ったが、そこまででまたかなりの行数を要してしまった。
 昼間、呂蒙と口付ける寸前までいったのがモロに影響している。
 リアルな体験を直前にしてしまったから、描写する筆にも熱が入ってしまったのだ。
 呂蒙には少し申し訳ない気がしたが、お陰でスムーズに書けた気がする。
 ふと、呂蒙は何処までしたいのだろうかと思った。
 は、口付けはするつもりだった。とりあえず口付け、と思ったまでだ。
 呂蒙は何処までを望んで目を閉じたのだろう。
 昼日中からどうこうという意味でなく、呂蒙はに対して何処までを望んでいるのか、純粋に疑問に思ったのだ。
 女として見ている、けれど抱くことは想像できないと言っていた。
 けれど、が呂蒙を受け入れられると言った時、呂蒙は触れてもいいかと尋ねてきた。
 それは何処までの話なのだろうか。
 とて、呂蒙と自分がどうこうしている様は想像できない。
 しかし、もし口付けていたらどうなっていただろうか。火が着いて、場所も弁えずそのままということになっていたかもしれない。
 きっかけは、大抵いつも相手からだ。
 だが、その後相手を深みに引き摺り込んでいるのは、ひょっとしたら自分の方なのかもしれないと思い付いた。
 したいという欲求を許すことで、対価として無上の快楽を要求しているとしたら、悪いのは断りきれないの方だということになる。
 それを認めるのが嫌で、延々と言い訳しているのではないだろうか。
 自分で考えたくせに、自分の出した一つの結論にはショックを受けた。
 ではどうするべきかと考えてみるが、こちらはまったく答えが出ない。
 が拒否すればいいだけの話なのだ。拒否できてないからこの状態になっている。
 相手が強引だからだと考えかけ、いやいやいかんいかんと首を振る。
 逃げちゃ駄目だ。
 本気で拒否しろと言ったのは誰だったか。本気で拒否してないから、向こうも止まらないのだ。
 よし、と気合を入れ、早速今日から、と心に決めた。
 すっきりしたような気持ちになって、は見直しの続きに入る。
 この分だと、明日の朝一番には大喬の元に届けられる。そうしたら大喬殿に清書お願いして、その間は尚香殿のお話に移行して。
 頭の中で計算をしていると、誰かが訪ねてきた声がした。
「……呂蒙殿?」
 昼の続きに来たのかもしれない。それはもう、がっかりした顔をしていたから。
 何の気なしに開けた扉の外には、太史慈が立っていた。
 あっ、と声にならない声が漏れた。
 太史慈はわずかに青褪め、口元も微かに引き攣っている。
 誤魔化しようはあった筈なのに、言葉が出てこなかった。
 太史慈も、の呼んだ名から何がしか察するところがあったのだろうし、それを誤魔化しても何にもならないような気がした。
 いつかはこうなる。
 日程を組んでいる訳でもなし、他の男と鉢合わせにならないとは限らないのだ。
 を抱くということは、少なくともこの呉では、こういうことだ。
 気まずく重苦しい空気が流れる。
「……先約が、」
 ぽつぽつと紡がれる声は、一音一音がまるでの胸に火を押し付けるような痛みを伴った。
「先約が、おありか」
 ある、と言えば良かっただろうか。
 どうしても言えなくて、は首を振った。嘘を吐かない方がいいと思った。嘘を吐きたくないという自分の矜持を守る為だけしか意味がないのに、と分かっていても、嘘は吐けなかった。
「……でも、今日は……」
 雰囲気で察してくれればと思ったが、愚直な太史慈は敢えての言葉を待っているようだった。
「今日は、その……一人で、居たいです」
「何故」
 切り返しの言葉は疾く鋭かった。
 どう言えばいいのだろう。
 は何故か心細さを感じながら、所在無げに指を弄った。
「……昨日、も……その……して……今日、それで失敗しちゃって……それで、しばらくは……」
 えぇい、と我が事ながらに苛付いた。
 断る時ははっきり断ろうと決めたのはついさっきのことだった。
 断って良いと、他ならぬ孫堅が……と、思考が乱れた。
 孫堅は、お前が相手を気に入らぬと言うなら、断ればいいと言っていた。
 けれど、同時に誘いを断り続けるようなら、痺れを切らすとも言ったのだ。
 太史慈がそうでないと、どうして言い切れる。
 ふっつり黙りこくってしまったに、太史慈の目は暗く重い。
「貴女は」
 太史慈の声は、の真上から降ってくるようだった。
「俺が、怖いのか」
 驚きに、弾かれるようにして顔を上げた。
 怖い。
 そういう風に、見えるのだろうか。
「……怖がっているように、見えますか」
「見える」
 そうか。
 見えるのか。
 何かに何かがきっちりはまり込んだ。錯覚かもしれないが、その固定はに安定をもたらした。
「嫌われるのが、怖いです」
 太史慈の目が、いぶかしげにを見つめる。
「いいって言ってくれたけど、太史慈殿が本当に分かってるのか分からないし、それで軽蔑されたりしたら嫌ですし……ショック……あの、太史慈殿がそれで傷付いたりしたら、それも嫌です。そういうのが、怖いです」
 うん、と自分の言葉を確認するように頷くに、太史慈の目からやや険が取れた。
「しない……ように、努めようとは思う。実を言えば、如何な事態にもこの方寸は揺るがぬと自信を持っていた。だが」
 実際のところ、が自分と他の男の来訪とを間違えたというだけで、太史慈の動揺は呆気なく引き起こされた。
「……不甲斐ないと、思う。貴女の拒絶が、俺にはこれ程耐え難いとは思わなかった」
 あ。
 心臓が跳ね上がる。
 影の落ちた太史慈の顔が、妙に色っぽく感じられてしまったのだ。
 心臓の鼓動は甘やかな波となって全身に響く。
 ひぃ。
 だから、これが悪いんだとは必死に自分を制す。
 太史慈にはきちんと、誤魔化して濁しはしたが理由を説明した。後は、太史慈が納得して帰ってくれればそれで済む。
「分かった、今日のところは引き下がろう」
 はほっと安堵した。
 今日のところは、の辺りは引っ掛かったが、曲がりなりにも初めて相手を制止できたことになる。
 情けなくもあったが、ただ流されているだけよりは大きな前進だろう。
「……口付けを、許してもらえるだろうか」
 突然申し出られて、は虚を突かれた。
「え」
「口付けを」
 聞こえなかったと取ったのか、単なる意地悪か、太史慈は重ねて請うてきた。
 駄目とは言い辛い。譲歩を願って譲歩してもらったのだから、今度はこちらが譲歩する番だと思ってしまう。
 黙って上を見上げ、目を閉じる。
 頬の辺りに温かな指の感触があり、呉の武将って軒並み体温高めだよなぁなどと阿呆なことを考えていた。
 触れるだけだと思っていた口付けは、歯列を割って入り込んだ太史慈の舌によって裏切られた。息もままならぬ濃厚な口付けに、の指が拠り所を求めて太史慈の腕に縋る。
「……っ……」
 太史慈の指がの胸を弄り、は思わず口付けから逃れた。
 それを、引き戻される。
「まだだ」
 首の付け根を固定されてしまい、もう身を捻ることも許されない。
 余った方の手での胸を柔々と揉みしだく太史慈に、の体を熱を帯びる。
 視線を感じて薄目を開くと、涙でぼやけた視界の中心で太史慈が笑っていた。
 あんた、誠実なのは男に対してだけかっ!?
 胸の内で突っ込むも、太史慈の手管はひたすらにを翻弄する。
 するっと背後に回った手は、の腰の上から尻に届く寸前をくすぐるように行き来した。
 が陥落するまで、太史慈は口付けを止めようとはしないだろう。
「……戸、閉めて……」
 合図して口付けを中断させると、は上気した頬に己の甲を当てて冷やした。
 太史慈はから離れ、言われるがままに開け放たれていた扉を閉める。
「……この間みたいに、朝までだと困ります」
 言い辛くとも言っておかねばならない。昨日の今日で、明日も失敗する訳にはいかない。
「わ、私が、一回イったら、それで止めて下さい」
 顔が焼け付く。ちょっとした羞恥プレイだ。
 どんなに真面目に悩み屁理屈こねて考え込もうと、流される時は一瞬で流されてしまう。
 『いい』ことにした瞬間、体は早与えられる快楽に期待し始めていた。
 太史慈は申し訳なさそうに苦笑いして、を軽々と抱き上げる。
「承知した」
 鎧を脱ぎ捨てに覆い被さる時、耳元に小さく『すまん』と詫びた太史慈を、は隠れタラシと命名することにした。

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