太史慈はどうしてを抱こうと思うのか。
我ながら馬鹿な質問で、太史慈が目を丸くするのも当たり前だと思った。
事が済み、直後の余韻で腰が抜けてしまったようになっているは、未だに裸のままで牀の上に横たわっている。
太史慈はの額に口付けを落とし、身軽く起き上がると簡単に身を清めた。
帰るのかと思っていたのだが、着物だけ身に纏うとまたの横に戻ってくる。
「……お拭きしようか」
気持ちは有難かったが、半ば昏倒している状態でならまだしも意識がはっきりしている今、太史慈に全裸を晒すのはいただけなかった。
昨日、孫権にはお世話されてしまったが、あれとて湯浴みでなければご遠慮していたと思う。
お礼だけ言って、辞退する。
改めての横に滑り込んできた太史慈に、は疑問の目を向ける。
「お邪魔か」
苦笑されて、は反射的に首を振った。
邪魔か邪魔でないかで言えば、どちらかというと邪魔だ。
太史慈は滅法体格がいい。だから、というだけの話だが、何となく落ち着かないのも事実だった。
何か話をしなければならない気になって、それで冒頭の質問と相成った。
「貴女は、分からないひとだな」
肘を突いてを見詰める太史慈の顔が、近い。
眉の太い、男臭い面立ちだ。
好みは分かれるかもしれないが、は太史慈の顔はそんなに嫌いでもない。
特に今のように兜を脱いで平服に身を包んでいると、普段鎧から感じる威圧も抜け、乱れた髪には色気すら覚える。
女の扱いに慣れているように感じていたが、これでは女の方が放っておくまい。場数を踏んでいたとしても、成る程と納得させるだけの要素が太史慈にはあった。
今は客将の身分と言えど、女が居ない訳ではないのだからさぞやもてるのではないだろうか。
それなのに、何故自分なのだろうとは不思議でたまらなかった。
「理由がなければ、いけないだろうか」
「……イヤ」
なくちゃダメだろう。
も詳しくは知らないが、主と仰ぐ孫策の手前、色々あったらしいのは薄々気付いている。孫策がごちゃごちゃ訳の分からんことを言い出した時、孫権と並んで太史慈の名が出たことがあるからだ。
恐らくだが、太史慈はあの頃には既にを好いていたのだろう。
いつからこういうことをしたいと望むようになったのかは知らないが、そうであると仮定したなら結構前からの話になる。
ここまで我慢してきたものを、何で今になって破ってしまったのか。
「仮に俺が理由を述べたとして、それで貴女は満足するのだろうか」
答えられなかった。
どんな理由を述べられたら、自分が納得してそれなら仕方ないと思えるだろうか。
不意に、太史慈が笑い出した。
声を忍ばせて、一人で愉快そうに笑っている様には戸惑う。
「……申し訳ない、昔のことを思い出した」
貴女と同じ問いを、俺もしたことがある。
そう続けた太史慈に、は思わず手を伸ばして話の続きを催促した。
太史慈がまだ兵になったばかりの頃、兄貴分の兵士達に連れられ街に繰り出したことがあった。
既に武人の片鱗を見せていた太史慈に、入ったばかりの兵卒がとあまり喜ばしくない系統の目を付けられてのことかもしれない。
ともかく、太史慈は街に連れ出され、その更に奥にあった娼館へと連れ込まれた。
それと睨まれたとおり太史慈は未だ女を知らず、戦場では落ち着き払っていた太史慈も、娼館の中では妙に落ち着きを無くして兵士達の失笑を買っていた。
兵士達の笑いが消えたのは、一人の娼婦が太史慈の腕を引いた瞬間だった。
その娼館の中でも一番の上玉として、客を選ぶ権利すら与えられていたその女は、兵士達にとっても憧れの高嶺の花だった。
その女が名も知らぬ新兵の腕を引き、当たり前のように室に連れて行く。
お陰でその後、太史慈はやっかみから執拗な嫌がらせを受ける羽目になったのだが、これは余談だ。
その日の内に童貞を捨て、呼び出されては女に抱かれる日が続いた。女は用意周到に太史慈の上官にも色目を使い、太史慈との伝を取り易くしていたのだ。
その女から、女を狂わす術を幾つも教授された。
物覚えは良かったらしく、太史慈は一年としない内に抱かれる側ではなく抱く側に回っていた。
ある日、やはり疑問に思って尋ねたのだそうだ。
『何故、自分を選んだのか』
女は何の気なしに、抱きたかったから抱いたと答えた。
答えになっていないような気もしたが、太史慈は口を噤んだ。それ以上訊いても答えまい、答えられまいと踏んだのだ。
抱きたくて抱いて、今は抱かれたくて呼んでいる。
女がそうだと言うなら、もう問うまいと心に決めた。
自分一人を相手にしている訳ではないことも知っていたが、特に胸が騒ぐことはなかった。
娼婦なのだからという諦めが先にあって、どうしても己の物にしたいという熱情はその諦めの壁を越えることがなかったのだ。
「今にして思えば、あの女に惚れていた……という訳ではなかったのだな。あの女が他の男に抱かれているのを、嫌だと思うこともなかったのだから」
太史慈は自嘲気味に言い、は何とも言えず座りの悪い思いをしていた。
娼婦の仕込なら、太史慈が女を抱く術に長けていてもおかしくはない。男を喜ばせるプロなのだから、女を喜ばせる術は陰陽一体の理の如くで朝飯前の知識だったのだろう。
けれど、はその娼婦は太史慈のことが好きだったのではないかと思ってしまった。
好きだったから、太史慈を呼び寄せて関係を結んでいたのではないだろうか。
眉の根を寄せるに、太史慈はそっと指を伸ばし、宥めるように頬を撫ぜる。
「……あの女がどう考えていたか、俺にも正直定かでない。見ていろと言って俺を物陰に隠し、別の男との濡れ場を見学させるような女だったからな」
太史慈の告白にはぎょっとしてしまう。
幾らなんでもそれはどうなんだ。
「男を送った後、俺を引っ張り出してそのまま押し掛かってきたな。興奮したろうと言って」
苦い記憶と言う訳ではないらしい。苦笑ではあったが、その目は何処か愛情の見え隠れするような懐かしげな色を映していた。
にはそのひとの気持ちが理解できなくなった。
最初は、娼婦と言う仕事は仕事で、太史慈に思いを寄せているひとなのかと思った。
しかし、話を聞いていくとどうもそうではない。むしろ、太史慈をいいように扱って溜めていた鬱憤を晴らしているように感じる。
悩み始めたに、太史慈はくつくつと朗らかに笑った。
からかわれているような心持ちに陥って、の眉は更に八の字に下がる。
「……俺とて、今でもあの女との関係が正しいものではないと思っている。だが……そうだな、一人のものになるのが正しいかと言えば……それもまた、否と言わざるを得ないかもしれん」
は首を傾げる。
太史慈が何を言いたいのか、まったく分からなかった。
困惑したようにを見詰める太史慈もまた、きっと何と言っていいか迷っているのだろう。
不意に立ち上がると、隣の室から燭台を携えて戻ってきた。
「見えるだろうか」
顎を軽く上げ、その下を指差す。
言われるままに覗き込むが、良く分からない。
「もうずいぶん薄くなったからな。ここに、線のような跡がないだろうか」
よくよく見てみると、確かに太史慈の指差す箇所に薄っすらと白っぽい線がある。
長さにして4〜5cmといったところだろうか、よく目を凝らさねば分からないぐらいだった。
「あの女に、刺された跡だ」
「さ」
絶句した。
顎の下だ。こんなところを刺されて、よく死ななかった。
想像するだけで背筋に寒気が走り、は青褪めた。
「刺されたといってもそんなに深くもなし、偶々場所が良かったのだな。それ程酷い怪我と言う訳ではなかった」
宥めるように頬を滑る指は温かで、ごつごつしてはいるが心地良い。
「自分のものになってくれ、と言い出してな。自分一人のものになってくれ、と。それで、刺された」
殺して、死なせて、それでようやく自分一人のものになる。
そんな理屈を突然突き付けられて、はいどうぞと受け入れられる筈もない。
太史慈は初手こそ避け切れなかったものの、すぐに反撃して事もなく女を取り押さえた。
『世話』になった礼として騒ぎにはせず、しかしそれきり女の下には行かなくなった。
「上官にだけは、刺されたことを報告してな。俺は元より上官にとっても恥になるし、内密にしてもらうよう取り計らっていただいた」
そんな女と関係していたと暴露されては一大事と、上官の方も太史慈に言われるがまま、だんまりを決め込んだ。
太史慈の傷もそれ程酷くなく、その内綺麗に塞がって不埒な刃傷沙汰がなかったことに納まった頃、女が死んだという話が太史慈の元に届けられた。
「亡くなったんですか」
「病でな」
本人は己の病を知っていたそうだ。
移るものではなかったが、移るものではなかったから余計に道連れが欲しかったのかもしれない。
一人で死ぬのは寂しい。
気持ちは分かるが、だからと言って太史慈を道連れにしても何にもなるまい。どう言い繕ったとしても、ただの自己満足だ。
「他の男達にはそんな真似はしなかったようだが、ならばどのような思いで俺を選んだのか、それは知らん。俺自身、あの女の気持ちに悟らぬようにしていたような気もするしな」
悟らぬように。
どきりと心臓が高鳴った。
「ただ、一人きりと定めるのはまた……何とも恐ろしいことでもあるのだなと、最近になって思い始めた。もし、貴女が」
の頬を撫でていた手がぴたりと止まり、触れているだけになった太史慈の厚ぼったい手のひらから不可思議な威圧を感じて息が詰まった。
「ただ一人のものであったなら」
皮膚が毛羽立っていくような感覚に襲われる。背中にじっとりと汗が浮き始めた。
の目を見る太史慈の目は、黒々として深い。
周泰と共に室に居た夜、突然現れた太史慈はこんな目をしていなかったか。
「……すまん、怯えさせてしまったか」
すっと太史慈の手が離れ、は恐ろしい威圧から解放された。
太史慈の手が触れていたところも汗を掻いていたらしく、夜の冷気が染み込んでくる。
怖くないと言ったのに、怯えている自分を見せ付けてしまった。
矛盾した己の姿に羞恥して、は訳もなく顔を赤らめた。
太史慈は再度詫びて、またじっと考え込む。
あの女のひとのことを思い出しているのかと思ったが、そうではなかった。
「大殿の下した命の意味を、ずっと考えていた」
口説けと言い、抱けと言う。
どう考えても正当な理由などありそうもない命令だけに、太史慈はずっとその真意を考えていた。
「こういうことなのかもしれん」
「どういうことだって言うんです」
鸚鵡返しに返してくるに、太史慈はほのかに笑う。
「貴女は、本当に分からないひとだ」
むっつりとして頬を膨らませるに、太史慈は何故か優しく笑っていた。
「もし貴女が、ただ一人のものであったなら」
繰り返される言葉に、は息を飲む。
「……だが、貴女は未だ誰のものでもない」
そう考えれば、心は鎮まる。
太史慈の言葉は、太史慈のみに当てはまる理屈かもしれない。他の者が太史慈程にを求めているかは謎だ。
けれど、共有することでいらぬ争いが起きなければ、それが一番いいことなのかもしれない。
が呉に来てしまった事実は変えようがなく、よしんば蜀に戻ったとして、呉に呼び戻そうとする動きがないとも限らない。
呼び戻すと言うならまだいい。
奪い返そうということになったら。
――まさか。
慌てて否定するも、胸の鼓動は静まらない。
「殿」
唐突に呼ばれ、肩が跳ね上がる。
「すまんが……その、もう一度……許してもらえんだろうか」
太史慈が何を請うているのかは一目瞭然だ。
頬を紅潮させ、視線はの体に向いている。
話したくない話をして、吐き出したい熱が妙なところに篭もってしまったのかもしれない。
いつまでも裸で居たも悪いが、約束は約束だ。
「……口、なら」
譲歩を見せたに、太史慈は首を横に振る。
「でも」
約束したではないか。
言外に滲ますに、太史慈は頭を掻いた。
恥ずかしそうに視線を俯かせ、ようようといった様子で白状する。
「……貴女の、その……乱れた姿が、見たい……その……声を……」
尻すぼみに消えていく太史慈の言葉に、も釣られて赤面した。
自身、男のよがり声に感じてしまう口だが、太史慈もそうなのだとは思わなかった。
おずおずと指が伸びてきて、の胸乳に触れる。
嫌とも言い辛く、正座したままその手を受け入れた。
太史慈の顔が胸乳に寄せられ、温かく滑りのある感触が先端を刺激する。
緩々と背中から倒され、太史慈の指と唇がの体に触れていった。
心臓がばくばくとうるさく、常よりも更に過敏に反応する肌に、は必死に唇を噛み締めた。
結局我慢できなくなって、の方から強請って太史慈を受け入れた。
これを狙ってたんじゃないだろうか。
朝になり、爽やかな笑顔で退室する太史慈を見送って、はひっそりと溜息を零した。