腰は少しだるかったが、体は温かだった。
 冷え性の気があるには、この時期の朝の寒さが非常に堪える。
 太史慈の体温が湯たんぽ代わりになってくれたお陰か、今朝は冷え切った足に難儀することもなく起きられた。
 孫策が居れば、孫策がしてくれていただろう。
 いつになったら帰ってくるのか、訊いても大丈夫だろうか。
 凌統の件では、話しても良かったと呂蒙は言っていた。
 けれど、そう言った呂蒙の顔は少し怖くて、寂しそうに見えた。
 単純な話だ。呂蒙もまた、を好いてくれている。好いている相手が、他の人間のことばかり気にしていたら面白くないに違いない。
 特に呂蒙は真面目な口だから、そんな他愛のない焼餅をみっともないことと恥じて黙してしまうのは仕方ないことだ。
 ただ溜め込んでストレスにするよりは、今回のように意地悪してくれた方がいい。
 肝心のが真に受け過ぎて却ってストレスを掛けてしまったようだが、それと分かっているなら話は別だ。
 ふと、受け入れようとしている自分に気が付いた。
 呂蒙のみの話なのか、それとも他の奴らも粗方ひっくるめて受け入れようという話なのかは未だに分かってない。
 この悪趣味極まりないおかしな事態を、自分が本当に受け入れられるのかも自信がないが、がどれだけ喚こうが誰一人として譲らないとあれば、もうが折れるしかないような気がしていた。
 第一、正夫人たる大喬をして、孫策の妾になってやってくれと懇願してくる始末なのである。の常識とこの世界の常識が掛け離れているのだと理解し、納得する方が早いのかもしれない。
 何せ、一人対一国なのだ。多数決が王道たる民主主義国家に生まれ付いたに、抗う気力を持てというのが土台無理なのだ。
 それに。
 繰り返しになりつつも改めてぶっちゃける話にはなるが、は抱かれることが嫌いではない。
 武将達のあの厚い胸板に抱かれると、それだけで意識が飛びそうな程心地良くなる。
 セックスの上手い下手の区別はできないが、組み敷いてくる男の肌がを惑わせ魅了しているのは分かる。
 触れられるだけで気持ち良くなるのに、どうやって抗えばいいと言うのだ。
 それも、ただ気持ちいいだけではない。非常に、異様に気持ちいいのだ。
 日向でまどろむのもスポーツで汗を掻くのも、皆気持ちのいいことには変わりないだろう。
 だが、セックスは違う。
 あれは隠々滅々としてどろどろとした後ろめたい行為だ。子供には見せられないし下半身繋げて粘液塗れになるしで、ぬるぬるのぐちゃぐちゃの非常に恥ずかしい行為だ。
 気持ちいい事実には変わりない。
 変わりはないが、では『私、スポーツが好きなんです! 気持ちいいですよね!』と『私、セックスが好きなんです! 気持ちいいですよね!』では、カタカナ4文字の差に過ぎないにも関わらず、捉え方がまったく違ってくる。
 後者の台詞を聞いて、まともに受け止めてくれる人間が居たとしたら頭がおかしいとしか言いようがない。自慢できないし褒められない宣言だろう。
 だからこそ、もこれだけ拘泥し続けるのかもしれない。
 セックスが清い行為と推奨されるのは、夫婦の神聖な営みとして認められた時だけだ。それも、人目をはばかって密かに行うからこそ神聖と認められる。子作りとして、子孫繁栄の為の行為と見なされるからだ。
 の場合はどうにも当てはまらない。相手が一人でない時点でアウトだ。
 しかし、ただ一人を定めるという判定が、には既に付けられなくなってしまっている。
 一度は趙雲を、と定めようとしたこともある。あの時は、横から孫策が飛び込んできて台無しにしてしまった。
 結局は、そういうことなのだ。
 が如何にけじめを付けようと努力しても、他のところから邪魔が入る。ならば、確かに孫堅の『共有案』は一つの解として非常に有効と言えるだろう。
 が決められず、男達も自分以外の誰かのものになるとは決めさせたくない。だから、国のトップたる君主の権限を持って共有を宣言する。
 趙雲や馬超、姜維達はともかく、呉の人間ならば皆大小の不服があっても飲み込んで従うだろう。
 も、下手な奪い合いで傷付くこともない。
 ないかな……?
 今一つ不安はあるが、なぁなぁの状態に君主の太鼓判という巨大な保証が加わったのは初めてのケースだ。初めてなればこそ考え込みもする。
 言うなれば、劉備が蜀の面子に向かって『はみんなのものとして、仲良く使いなさい』と宣言したようなものだろう。
「使いなさいて」
 我ながら嫌な想像をしてしまい、ずんと落ち込んだ。
 俯いた視線の先に、清書しかけの竹簡が放置されているのが見えた。
 とぼとぼ歩きながら卓に腰掛ける。
 頭から見直してみたが、特におかしなところは見つからなかった。終わりまでは後少しだったし、朝食前に仕舞いまでやってしまうことにした。
 『穴』の具合が良いから持て囃されているなら悲しいが、更に厳しい現実問題として、それはいつかは緩んでしまうものだという難点がある。
 良く締まる『名器』が緩んで使い物にならなくなったら、果たして何人の男がの傍に残ってくれるだろうか。下手すると一人も残らない可能性だって、ある。
――男たちが皆、飽きて、去って行ってしまったとしたら。
――私が殿のところに伺いますから、安心なさって下さい。
 姜維の言葉が不意に蘇った。
 ごめんなさいと目を閉じて謝る。
 でも、伯約だってゆるゆるのがばがばは嫌に決まってるよ!
 しょうもない現実主義は、の中に根強く蔓延っている。
 体目当てでちやほやされているのならば、せめてその間にそれ以外の取柄を育てようと思った。
 凌統でなくとも呆れそうな決意は、しかし以外の誰も知るところではなかった。

 書き上がった竹簡を手に、大喬の元へと急ぐ。
 別に後の予定が詰まっている訳ではなかったが、恥ずかしいものを持っているという意識があるのでどうにも落ち着かなかったのだ。エロ本の入った紙袋を抱えている男子高校生の気持ちというのは、きっとこんななのだろう。
 幸いにも大喬は室に居て、を招き入れるとすぐに人払いをしてくれた。
「続きですね!」
 が竹簡を抱え込んでいるのを見て当たりを付けたものか、大喬は興奮を隠さず笑みを浮かべて頬を赤く染めた。
 喜んでもらえるのは嬉しいのだが、中身がHowToセックスと来ては小っ恥ずかしさが先に立つ。
「じゃあ、私が出てから読んで下さいね」
「え」
 当然この後とおしゃべりをするつもりで居た大喬は、来て間もないというのにもう席を立とうとするに慌てだす。
「わ、私、すぐ読みますけど」
 今すぐ読みたいのは読みたいのだろう、竹簡を縛っておいた紐は既に外されてしまっている。
 大喬は、自分が竹簡を読んでいる間、放って置かれるのをが嫌がっているのだと思ったようだ。
 無論そんな訳ではないから、は苦いながらも笑みを浮かべた。
「そうじゃなくて……自分が書いた話を目の前で読まれるの、恥ずかしくて」
 もじもじするに、大喬はきょとんとしている。
 大喬としては、は宮廷歌人に匹敵する、現代風に言えば歴とした『芸術家』だった。そして、大喬の知る『芸術家』のあるべき姿とは、己の才をより大きく見せようと、また誇ろうとひけらかすのが常なのである。
 だから、も当然書いたものを大喬にひけらかすべきだと思った。面白いのだから、そうするべきだとさえ思っている。
 言葉よりも雄弁に『何故』を表情に表している大喬に、はコミケの話でもしてやったらいいのかと本気で悩んだ。自分が『南方の名も知られていない小さな村の出身』ということになっていると覚えていなければ、うかうかと話してしまっていたかもしれない。人口比率としてもおかしい話なので、はぐっと堪えた。
 そも、趙雲のような馬鹿太い肝の持ち主でもない限り、の世界の話など到底受け入れられないに違いない。
 あ、でも、伯符なら平気かもな。
 ふと思い出し、ついでに大喬に問うてみる。
「……伯符、演習とか言って、帰り遅いですね」
 いつ帰ってくるのだろうかと直接訊くのは憚られ、世間話の態を装って尋ねてみた。
 しかし、途端に大喬の顔がふっと暗く沈み、訊いてはならぬことだったかとを慌てさせる。
「……お義父様……あの、孫堅様と何かお話されて演習を決められたようなんです」
 傍から見ればおかしいことではない。
 孫堅は君主であり、孫策は息子であっても臣下には違いない。演習に行っておけと言われるのは、温情でこそあれ意地悪ということにはならない筈だ。
 だが、見方を変えれば二人は敵同士なのである。を巡り、その方寸を争う仲なのである。
 そちらの見方を優先させれば、長期の外出には何がしかの思惑があると言えなくもない。
「一応……でも、孫堅様とお会いしたのは一度きりですよ」
 それも、から出向いての話だ。
 怒り狂って強襲掛けた挙句、衝撃の事実を突き付けられてみっともなく鼻水たらして泣いてきたという、そんな会合だった。色気のいの字もない。
 もし孫堅が策を用いて孫策を追い出したのだとすれば、何がしかのアピールなりがあってもいい。否、なければおかしい。
 が不思議に思う程なのだから、他の者も皆、孫策の帰還の遅さを少しはいぶかしく感じているのではないか。
 であれば、策のタイムリミットはもう間近なのだ。
 だのに、孫堅が何か仕掛けてきた様子がないというのはどういうことなのだろうか。ひょっとしたら、が大喬に尋ねて完成する策だったのだろうか。
 成程、今の話を聞けばは孫堅のところに赴くかもしれない。けれど、そういう策なのではないかと容易に想像されるようでは、策とは到底言い難い。孫策が帰ってくるまで待てばいいだけの話で、今すぐどうこうという話ではないのだ。とて、何となく気になったから訊いたまでで、分からないと言われれば、ふーん、で済んだ話だった。
 それを踏まえて敢えて孫堅の元へ行こうとは思わないし、大喬も止めに入るだろう。
 あの孫堅にしては、どうも今一つ手緩いと言わざるを得ない。
 考え込んでいるに、大喬も似たようなことを考えていたのか突然話を変えてきた。
「あ、あの、大姐。お牀入りの話なんですけど」
 話題のすり替えにしても大胆な話題を選んだものだ。
 引き戻しても良かったのだが、大喬がを案じる気持ちも分かるのでうかうか乗らせていただくことにする。
「……あの、気持ちいいって仰ってましたけど……本当に、気持ちいい……んでしょうか……」
 消え入りそうな声で恥じ入りながら俯く大喬の姿は、見た目の愛らしさと相まって非常に嗜虐心を煽る。
 涎が出そうになって、はさりげなく口元を押さえた。
「個人差はありますけど。感じない人は全然感じないそうですし、感じ過ぎる人はその、異様に感じてしまいますし」
 自分がそうですとはさすがに言えず、歯切れの悪さを咳払いして誤魔化す。
「そうなんですか……」
 何事か考え込んでいる大喬に、は気まずさから逃れるように話を続ける。
「体調とか、その場の雰囲気とか、そういうので結構変わったりするみたいですよ。疲れてると駄目、とか」
 孫策に限って言えばそれはないと内心思ったが、大喬の手前口にはしなかった。知らなくていいことは、確実にある。
「でも、基本的にはこうって、分かるんですよね?」
「……いやぁ、どうですかね……相性って言うか、嫌いで堪らない相手の筈なのに感じるとか、好きで好きで仕方ないのに駄目とかってことも、あるみたいですよ」
 の返答に、大喬は悩み始めたようだ。眉間に皺が浮いているのを見て、は慌てふためいた。
「いやあの、でも、普通は、そうですね、普通に感じるもんですよ」
 何を言いたいのかよく分からなくなったが、大抵の女性は好きな男相手だったら感じるのではないかと思う。でなければ、ロマンス小説が広く迎合されるいわれがない。
 マスコミュニケーションによる洗脳だの言う話は、この際論じる必要もなかったろう。大喬の眉間に縦皺という、最も見たくないものの一つを如何に回避するかが最優先だった。
「私」
 の努力が実を結んだか、大喬は眉間の皺を消してを見詰めた。
「私、どちらなんでしょう……」
 それは。
「……う、うぅん、ちょっと、伯符でないと分かんないかなぁ」
 占いでもあるまいし、試しもせずに黙って座ればぴたりと当たるものでもない。
 本等で読む限りでは、天性のタラシなんぞの類にはぴぴっと来るものがあるらしいが、はタラシのつもりもないし実際見ても分からないことだった。
 大喬は、しかし本気で悩んでいるらしい。
 確かに女が感じない性質だったら、男の方は興を削がれるかもしれない。
 だが、相手は孫策なのだ。
 あの孫策が相手で、感じないからどうこうということはないと断言して良かった。
 人に惚れ込む男だ。大喬も知っているだろうに。
 でも、そうだなぁ。
 大喬は孫策が好きなのだ。好きな男を喜ばせたいというのは、女の子として当然の願いだろう。
 ちょっとしたことが不安になって、気になって、そういうのが少しばかり愚かでとても可愛かった。
 何の気なしに伸びたの指が、悪戯に大喬の首筋を掠める。
「きゃ」
 反射的に飛び上がって首筋を押さえた大喬に、はにやりと下世話な笑みを浮かべた。
「大丈夫、感じてます感じてます」
 ぱっと顔を赤くした大喬に、ますます女の子らしい可愛さを感じる。
 自分にはなかったな、と過去を振り返り、自嘲して頭を掻いた。

← 戻る ・ 進む→

Cut INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →