大喬の室を辞すると、孫堅のことが気になりだした。
 わざと放置して気にさせる手管がないではないが、どうもしっくり来ない。
 会いに行ってみようか。
 先程『会いに行こうとは思わない』と結論が出たにも関わらず、手のひら返したように考えを変える自分には自己嫌悪に陥る。
 けれど、どうしても胸に引っ掛かっるものがある。の中の孫堅のイメージと今回のやり口が、どうしても重ならないのだ。
 会ってどうなると言うこともないだろうが、会わずに悶々とするよりはまだマシな気がした。打てる手を打って悩むのと打てる手を打たないで悩むのとでは、同じ悩むでも質が変わってくるだろう。
 余計に要らぬ心労を抱え込むハメにもなり兼ねないが、の足は孫堅の室に向かっていた。
 本来なら、約束のない訪問は失礼に当たる。
 まず書状を出すのが筋なのだが、もそれと分かっていながらつい破ってしまう。
 同じ呉の人間相手でも他の武官文官達にはきちんと書状を出して訪問しようと思えるのに、いわゆる『顔付き武将』に関しては妙に気が緩んでしまうようだ。
 改めねばと思いつつ、今回まではと歩みを止められずに居た。
 廊下の角を曲がると、そこに立っていたらしい人影に思い切りぶつかってしまう。
 目から火花が散る感覚に加え、鼻の辺りからみしゃっと嫌な音がする。
 気が急いて急ぎ足になっていたらしく、ぶつかった衝撃もかなりのものだ。
 つんとする鼻を押さえ、涙の滲む目を堪えて見遣れば、そこに居たのは周泰だった。
 どおりで痛い筈だ。
 周泰の鎧は皮製とは言え、何重にも重ねることで攻撃の衝撃に耐える作りになっている。胸当てや腰に巻かれた皮は特に重ねて硬度を増しており、の鼻如き容易く押し潰せるだろう。
 ただ立っていただけだったからこの程度で済んだのだと思うが、では何故こんなところで立っていたのかと疑問に思う。
 廊下は佇む場所ではない。歩き移動する為の場所だ。
 コンビニ前でたむろするお子様達には注意できなくても、周泰には気安く文句が言える。
「……何してんですか、こんなところで」
 言うつもりで口を開いたが、無言で見下ろしてくる周泰の威圧に負けた。文句の代わりに疑問を投げ掛ける。
「……時間はあるか……」
 答えになっていない。
 たぶん、を探していた若しくは見つけて足を止めたのだと思うが、まずそれを言わなくては話になるまい。
 寡黙さを買われるのは武人としてであって、親しい友人としては諸手で歓待とは行き難い。
 友人という言葉で誤魔化そうとしているな、と、は冷静に自分を分析していた。
 一度ならず肌を許した男だ。
 最初こそ、死を賜るやも知れぬ相手と理屈付けて許したが、死を回避して尚求めてくる手を、跳ね除けずに受け入れたのは他ならぬ自分だ。
 周泰もまた、ここ最近の元には現れなかった。
 孫権の言葉を借り受けて言うなら、『あんな連中とは違う』と顔を見せなかったのかもしれない。
 痺れを切らして会いに来たのだとして、そうして肌を許す相手を増やしていって、それでなあなあに過ごしていけるのだろうか。
 いつかは堪った鬱憤が憎悪となり、諍いを生むのではないだろうか。
 はそのことを恐れている。
 是が非でも一人を選べと言うのなら、くじでも作って定めてもいいかもしれない。受け入れてくれるかどうかは分からないが、何らかの結果には繋がる筈だ。
 しかし、敢えて生み出す結果に不幸が連ならないとは限らなかった。あれだけ大騒ぎして、結局諦めた者は一人も居ないのだ。
 皆、うかうかとを抱き、もまた抱かれてしまっている。
 どうしたもんかなぁ、と何十回とも知れず繰り返した疑問を考え込む。
 悩んで答えが出るものならば、とっくに出ていておかしくない疑問だった。
 それでも悩まずには居られないのが、にはまた悩ましかった。
 周泰はを見下ろしている。
 黙っていてくれるからも無限の思考に耽られるのだが、このままでは埒が明きそうにない。
 と、周泰が突然足を踏み出し、次の瞬間は宙に浮いていた。
「は?」
 反転する世界に、は頭が真っ白になった。
 てくてくと歩き出した周泰に担ぎ上げられている。
「ちょ、待、何してんですか」
「……気にするな……」
 気にする。
 周囲に人目がないか見回そうにも、肩に担ぎ上げられた状態ではなかなか思うように顔を上げられない。
 かと言って、騒げば声を聞きつけて集まってくる者も居ようし、結局に出来るのは、おとなしく周泰に担ぎ上げられていることぐらいだった。
――誰かに見咎められたら、周泰が喋りだす前にとにかく言い訳しよう。気分を悪くしたとか何とか、でもこれはその手の女の運び方じゃないから、足を挫いたとかのが現実味があるだろうか。
 うんうん唸っている内に、周泰は何処かの室の中に入り込んだ。
 下ろされて辺りを見回せば、見覚えがある室だった。周泰の執務室だ。
 そういえば、前の時もこうして荷物扱いされて連れてこられた。自分を何だと思っているのだろうと当の本人を見上げる。
 見上げられた周泰は、何だと言わんばかりにを見返し、当然のように肩を引き寄せる。
 向かう方向には、仮眠室がある筈だった。
 時刻だけで言っても、昼近いとは言え朝の話だ。
 ちょっと待ってと制止する声は、喉につかえて出てこない。
 足を踏ん張って立ち止まろうと頑張るが、周泰の圧倒的な腕力に負けてずるずると引き摺られるのみだった。
 それでも、が抵抗しているのが分かったか、周泰もを見下ろし足を止める。
「何、するつもりですか」
 周泰の目がやや見開かれたように感じた。
 軽く首を傾げる仕草に、『今更』というニュアンスを感じる。
「じ、時間考えて下さい」
「……時間なら、ある……」
 そういう意味じゃないだろうと口をへの字にして指し示す。
 周泰は、の言いたいところをどうにも理解できないでいるらしい。困惑しているような戸惑いさえ感じられた。
「……あ」
 の脳裏に、不意に閃くものがある。
「まさか、前の時は朝からしただろうとか言いたい……訳じゃないですよね?」
「……」
 言いたいらしい。
 周泰と最初に肌を重ねたのは朝方、しかも露天と言う、にしてみればあほんだらと空に向かって喚き散らしたいようなシチュエーションだった。
 あれは、だがあくまで切羽詰った状況下に限っての話であって、日常に戻った今、取り立てて踏襲したいものではない。
 しかし周泰の方も頑として譲るつもりはないらしく、その場から動きはしないものの握ったの手に力を篭めて寄越した。
「……五日後、出立が決まった……」
 不意に開かれた口から、思いもかけぬ言葉が飛び出した。
 討伐かと思ったら、そうではなくて赴任を命じられたものらしい。
 事が起こって軍を向かわせることは当然だが、事が起こらないように軍を向かわせることも、当然ある。いつも首都(?)に居る訳ではないのだ。
 は勝手に『周泰は孫権の護衛』と思い込んでいたが、実際は孫権指揮下に置かれることが多いというだけで、周泰自身は歴として独立した軍団長の一人なのだ。赴任を命じられたとしても、何もおかしいことではない。
 むしろ、これだけの武官文官が集まっているこの状況の方がおかしいと言えた。
「……あ、そ、そうです……か……」
 とは言え、『出立する』と言う周泰に、何を如何言ったらいいのだろう。
 それなら仕方ないですねとお相手を勤める気にはなれずにいた。
 室の中に居てさえ、未だ明るいのが知れる頃合だ。周泰が良くても、が困る。
「……共に……行くか……」
「はい?」
 またも思い掛けない言葉に、声を引っ繰り返して問い返してしまう。
 周泰の目が柔らかく和み、面白がっていると分かった。
 不思議と腹は立たない。
 あの周泰が冗談を言うのが、珍しかったからかもしれない。呆気に取られるのが先で、更に言えばその表情に何とも言い難い好意を感じるからだと思った。
 遅れ馳せながら首を横に振ると、周泰の目が微妙な光を湛える。分かっていたという確信と、それでも別の反応を期待していたという諦観がないまぜになっているようだった。
 周泰の腕が、半ば強引にを抱き寄せ包み込んでしまう。
 逆らいこそしないものの、応える訳にもいかない。
 自分の置かれた立場を顧みれば周泰の要求は至極当然のもので、だからこそは応えたいとは思えずに居た。
 法則だ、とは胸の内で念じていた。
 誰を相手にし、誰を相手にせず、そして理由もきちんと示す。
「い、嫌な訳じゃ、ないんです、よ?」
 周泰は、嫌ではない。包み込まれた肌が拒否をしていない。
「だけど、その、まだ明るいし……人に、そういうことしてるって知られるのは、嫌、です……」
 この世界の性の道徳観念は、には未だ複雑怪奇で杳として知れない。
 だが、あくまでの観念で考えるなら、セックスは人に知られたら恥ずかしい行為であり知られたくない行為だった。
「……ここには、誰も来ない……」
 人払いをしてあると言うのか、周泰は未練がましかった。
 周泰らしからぬ執着は、自分が相手だからかという優越感をに与える。
 求められることに溺れてはいけない。好かれているのだと調子に乗るなど、考えるだにぞっとしなかった。
「こっ……声、大きい、から……」
 自覚はあまりないが、最中のが発する声はかなり大きいらしい。
 人が来ずとも、上がる声がいったい何処まで届くのかは、周泰にも保障の限りではないだろう。
 するのは構わない、けれど昼日中からは応じられない。ここは人通りのない林の中ではなく、呉の居城の中なのだ。
 の主張に、周泰は渋々と言った態で折れた。
「夜、だったら、別に」
 周泰が驚きを見詰める。
 不躾に見詰められ、は頬を真っ赤に染めた。
「だから、嫌じゃないって言ってるじゃないですか。ただ、時間がまずいでしょって、そう言ってるんですってば」
 開き直ってがなり立てるに、周泰は小首を傾げた。
 離した手を再度伸ばし、頬に掛かる髪を掬う。
「……私の、何処がいいんです?」
 孫権にも呂蒙にも問い掛けた言葉だった。
「昨日も一昨日も、私、他の人に抱かれてますよ。それでも、したいって思えるんですか?」
 怒っていい事実だと思う。好きだと言うなら、怒らなくてはいけない事実だろう。
 しかし周泰は無言のままだった。
 いい、と肯定している。
「それ、ホントに好きなんですか!?」
 頭が痛い。訳が分からなかった。
 本当に好きなら、一人占めしたいのが普通ではないか。
 いつも思う。
 だから、本当は皆、を好きではないのでないか。
「……攫えばいいのか……」
 は激しく頭を振った。
 周泰を責めたい訳ではなく、答えが出ない、出せない自分に焦れているだけだと分かっていた。自分を納得させられないことに対する苛立ちで、単なる八つ当たりに過ぎない。
「……すいません、私もちょっと、情緒不安定と言うか……変にキレやすくなってるみたいで、うぅ」
 段々情けなくなってきた。
「……好きだ……」
 魂消た。
 突然の周泰の告白に、は体中の血が一気に逆流するのを感じる。
「……愛している……」
「ぎゃああっ!!」
 ストップ、ストップと喚き散らして周泰を押し止める。
 周泰には意味が通じないだろうことも、今のには考える余裕すらない。
 息も覚束なくなって、ぜひぜひと荒げる。呼吸困難の苦しさから涙まで浮いた。
 不意打ちの告白は、計り知れない衝撃を伴っていた。あまりの破壊力に、は心底打ちのめされたような心持ちだ。
 周泰は周泰で、真摯な告白を濁音混じりの悲鳴で遮られたことが不服らしい。唇をわずかながら尖らせ、を睨め付けている。
「う、いや、あの、分かった、分かりましたけれども、そのっ……もう少し段階とか踏んでいただいて、それからにしていただきたいなと! こう、切実に思うワケですよ!?」
 我ながら何を言いたいのか分からない。
 どう言ったらいいのか、つまり、不意打ちはナシだと言いたかった。相手が周泰だけに、その告白ともなればの容量を遥かに超える。嬉しいよりもまず驚愕してしまって、心臓が止まるかと思った。
 手で胸元を押さえてみると、一応きちんと動いているらしい。
 不整脈に近い派手な鼓動ではあったが、それでもを安堵させた。
「……嫌だったのか……」
「……イヤだから嫌ってことじゃなくて……」
 周泰の眉間に皺が寄る。
 分かり難いにも程がある返答だとにも自覚があったから、こちらもまた眉間に皺を寄せた。
 ちら、と見上げ、背伸びしてもちょっと届かなさそうだと判断を付けた。
 何気無く周泰の手を取ると、その甲に口付けを落とす。
 嫌じゃないのだと態度で証したつもりだったが、が顔を上げた先に茹蛸のように赤くなった周泰の顔があった。
 珍しいもの続きの本日最大の珍奇は、周泰のこの顔に違いないと思う。
 は呆然としつつも、魅入られたようにその表情を凝視した。

← 戻る ・ 進む→

Cut INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →