大喬が安堵して帰って行った後、はどうしようもない虚脱感に襲われていた。
周泰の室を辞した時とはまた違う疲れだった。
どっと疲れた感じは変わらないものの、その疲れの内容は明瞭に異なる。
周泰の時は頭が真っ白になったのだが、今は胸の中にうぞうぞと這い回る異物が存在する。
異物の正体が嫉妬であろうことも、には理解できていた。
大喬は愛らしい。
例え当の本人から羨ましい妬ましいと告げられようと、その厳然たる事実は覆しようがない。
華奢な体付きはをして庇護欲に駆り立て、可憐なその顔形、仕草は見る者の目を奪う。
少女少女してはいてもその心は成熟しており、纏う装束に秘められた体の線は、一見するよりずっと大人びている。
磨き上げられた肌は、孫家嫡男の為に用意されたと言われても不思議はない滑らかさで、その秘部すら美しい形影を帯びていると、今まさに見せ付けられた。
孫策は、嬉しいだろう。
あれ程美しい大喬を妻にし、未だ手を付けていないとは言え、いずれはその腕に抱く身の上だ。
比べられないだろうか。
否、比べられない筈がない。
嫌だなぁ、と、息苦しい苦さが胸に広がる。
透き通るような美しさなど、化粧品によくあるキャッチコピーとしてしか認識がない。
それがこの世に実在するのだ、とまざまざと見せ付けられ、しかも同じ男を通して比較される立場にある。
大喬とは直接対決して、言いたいことを言い合った。
すっきりはしたが、それだけと言えばそれだけの話で、根本的な解決にはなっていない。
欠点のない人間など居ない。
それは分かっている。
分かっていても諦めきれない。より美しく、より充実した、より高位の人間でありたい。
否、そう見られたい。
人の欲に限はなく、殊には、自分は見栄っ張りの傾向が強いという自覚さえある。
貶されるべき重大な欠点なのだが、はどうしても改められないままで居た。
だから訊ねてしまうのだ。
自分の、何処が好きなのだと。
好きと挙げられた事柄は、即ちその人が認めるの美点であると言えるだろう。
そうして指摘させて、虚栄心を満たそうとしているに過ぎない。
嫌な女だなぁ。
日は未だ高かったが何もする気が起こらず、は牀まで重い足を引き摺って行くと、倒れこむようにダイブした。
こんな気持ちのままで眠ったら、またぞろうろつき回らんだろうか。
実感を伴わない心配をしつつ、は眠りに落ちた。
が目覚めると、日は既に暮れていた。
何時頃なのか見当も付かない。辺りはただ、静寂を含んだ闇に沈んでいる。
夢を見た。
生まれたままの姿になった大喬と孫策が、仲睦まじく睦み合っている夢だ。
それを、は牀の端からぼーっと見ている。
悦を極めた大喬が、の方をちらっと見遣り、問い掛けてくる。
大姐、私、おかしくないですか。私、ちゃんと感じてますか。
そんなことはが答えることではないだろう。訊かれても困る。
けれど、気が付けば孫策までもがを振り返り、返答を待つようにを見詰めていた。
口元には笑みが浮いているが、嘲笑ではなく、何処か自慢げに、自分はちゃんと出来ているだろうと問いたげな面持ちだった。
仕方なくは、うん、と頷いた。
ちゃんと出来てますよ、おかしくないですよ。
の答えを聞いた大喬は、安堵したように微笑み、改めて孫策を見上げる。
孫策はやはりに笑い掛け、だろ、と言うように軽く肩をすくめ、大喬を見詰めた。
愛しげな視線が絡み合い、行為が再開される。
はそれを脇から見ている。
茫洋と、何故自分はこんなところに突っ立っているのだろうと疑問に思いながら、為す術もなく立ち尽くしていた。
そんな夢だった。
自分が横たわっていたのが自室にある牀の上だと確認し、ではうっかり眠ったままで出歩くことはなかったのだと認識する。
あんな夢を見ながら歩いたのでは、何処で何をしたり言ったりするか、知れたものではない。
良かった。
安堵すると同時に、涙が込み上げてきた。
悲しい訳ではない。
悔しい訳でもない。
何の涙か分からないまま、はさめざめと泣き濡れた。
扉を小さく叩く音がする。
無用心にも閂を掛けていなかったことに気付き、は自分に呆れ果てた。
何の前触れもなく開かれた扉に、訪問者も驚いたらしい、慌て下がるのが見て取れる。
最初、は誰だろうと考えた。
見上げる程に背の高い人物などに早々心当たりはないのだが、未だ夢から醒め切っていないものか、は不覚にも気が付けないままで居た。
ようやく気が付いたのは、訪問者が戸惑いがちに声を発してからのことだった。
「……何か、おかしいか……」
低い声、ぼそぼそとした独特の喋り方は周泰のものに違いなかった。
但し、その服装は常のものとはかなり違っている。
鎧が常の男が、武装を解き、平服らしい渋い臙脂の着物を纏っている。帯は黒だが、留める紐は夜目にも目立つ赤で、燻した金の留め金で留めていた。愛用の長刀だけはそのままだったが、それも今宵は太刀の緒に下げている。
がらりと変わった趣に、ならずとも誰何してしまいそうだ。
特に、日も暮れ視界の利かないこの時間では、尚更そうだったろう。
「……や、おかしいってこたぁないんですが、その」
どうしたと問い掛けるのはさすがに無礼だろう。
「いつもと、違ってたんで、ちょっと。……えぇと、何の御用ですか」
が誤魔化すように問い掛けると、周泰は何故かむっつりと黙り込んだ。
あれ。
何か仕出かしたかと考えたが、頭が上手く働かない。
周泰は指を伸ばし、の目元を拭う。
「……嫌だったか……」
言われ、先程まで泣いていたことをぱっと思い出す。
ついでに、周泰に誘われて『夜だったら』と返答したのも思い出した。
「いやっ! あ、嫌じゃなくて、あの、ちょっと、夢見が悪くて」
しどろもどろになりながら、周泰の手を引き中に招き入れる。
扉を閉めながら、よくよく考えればこれではまるで周泰を引っ張り込んだのと変わらないではないか、と思い当たった。
うわぁ。
顔が焼けるような思いに駆られ、今更ながらに強張った。
閂を掛けるべきか掛けぬべきかで思案に耽っていると、後ろから回ってきた手がの代わりに閂を掛けてしまう。
背中に温かな気配を感じると同時に、前に回った両の手がの襟を寛げた。
うわぁ。
声にならない声を上げ、剥き出しの乳房を柔々と揉みしだく無骨な手を見守ってしまう。
考えてみれば、周泰は端から『犯る』つもりで来ているのだから、この行動は極々自然なものだと言えるだろう。
夜ならば良いと言ったのはの方だった。
そして、夜になった。周泰が来た。
当たり前の流れだ。
しかし、の意識は現実に追い付けていない。目覚めた直後の鈍さも手伝って、周泰の手の動きを呆然と眺めているに留まった。
「……どうした……」
耳元に寄せられた唇が、の耳に疑問を吹き込む。
初めてぞくりとした感触に襲われ、はやや身動ぎした。
やっぱり、耳が弱い。
吐息が吹き掛けられるのも、指や舌で触れられるのも、声を吹き込まれるのでさえ駄目だ。
それだけ敏感な器官なのだと言えばそれまでだが、考えてみれば脳に一番近い部位なのだ。耳に与えられる刺激は、言ってしまえば心に最も近い愛撫なのかもしれない。
周泰の唇がの耳を食む。
舌が耳殻をなぞり、耳孔に滑り込むと、の体が大きく跳ねた。
――ここ、弱ぇ?
何でこんな時に思い出してしまうのだろう。
目の奥から、じわりと熱いものが込み上げる。
「……どうした……」
周泰が愛撫を止め、の顔を覗き込む。
「灯り……」
ぽつ、と呟くなり、は周泰の腕の中から抜け出した。
逃げ出した熱に、周泰はわずかに目を顰める。
それにも気付けず、は鉄瓶の湯を温める用に点された炉から種火を取り出すと、燭台へと移し変えた。
闇が払われ、燭台の灯りに照らされた周泰の姿が浮かび上がる。
孫策ではない。
はっきりして良かった、とむずがゆい安心感に包まれた。
「灯り点けてても、いいです?」
そうでもしないと、とんでもない過ちを犯してしまいそうだった。
複数の男に肌を許すのが過ちではないとしてだが、確とは知れない恐怖がを脅かしていた。
「……お前はいいのか……」
周泰の問い掛けは、愚問と言うより他なかった。
この灯りの下でなければ、相手がはっきりと周泰と分からなければ、に抱かれる勇気はない。
考えてみれば普通は逆だろう。
恥ずかしいから灯りを消して、と甘ったれた声で強請る女優の声を思い出す。
「……恥ずかしいとこ、ちゃんと見て下さい」
馬鹿馬鹿しいなと思いながら、は女優の台詞と真逆の言葉を紡いだ。
「私の恥ずかしいところ、ちゃんと見て……それでも嫌じゃなかったら」
嫌じゃなかったら。
何だと言うのだろう。
意味もなく涙が零れてきて、は自分を持て余した。
ヒステリックになっている。
何だろうな、どーしよう。
頭の中がぐちゃぐちゃで、その癖冷淡な自分が自分を観察しているような、矛盾した感覚に惑う。
髪を梳かれる心地良さに目を上げれば、いつの間にか周泰がの前まで近寄って来ていた。
「……情緒、不安定……か……?」
思い掛けない言葉に、は昼間、自身がその言葉を発していたことを思い出す。
周泰は、いつも寡黙で思考が読めず、けれどいつもを案じてくれるのだ。
「……好き?」
女々しい問い掛けに、周泰は柔らかく微笑んだ。
「……好きだ……」
口付けが落ちてきて、は微笑んでそれを受け止める。
「……愛している……」
再び落ちてきた口付けを受け止めながら、は周泰の背に手を回した。
「……好き……」
囁いた言葉に、周泰の動きが止まる。
その反応に、は頬を赤らめた。
場の空気に煽られて恥ずかしいことを言ってしまった、と我に返り、焦る。
もじもじと恥じ入るを前に、ずっと固まっていた周泰は、突如として行動を開始した。
静止は急激にその拘束を解いて、の体は攫われるように浮き上がる。
首筋から滝の如く雪崩れ落ちていく唇は、の裾を割って柔肉を貪り始めた。
労わるような優しい空気が、唐突に捕食の残酷さへと変貌する。辛うじて爪先立つは、周泰の背に手を掛けて、危ういバランスを必死に律していた。
蠢く舌が掻き鳴らす水音は、体勢からしての耳に良く通る。
いやらしいことをされている、と自覚を促し、促された自覚は更なる愛液を呼んだ。
「や、いや、周……幼平……!」
涙の入り混じる声に、周泰は息を荒げながらも無理矢理に己を制した。
冷気が室に満ちていたが、周泰の頬には汗が伝い流れ落ちる。度し難い感情が、殺しても尚周泰を突き動かそうともがいていた。
の体から力が抜け、周泰の前に膝を着く。
身を震わせていたは、周泰の肩に掛けるだけになっていた手に力を篭めると、自ら身を乗り出して周泰に口付ける。
自ら舌を差し出し、懸命に絡めようとするに、周泰は虚を突かれつつも応え、舌を絡めた。
口の端から飲み切れない唾液が零れ、糸を引く。
の手が周泰の手を胸の双丘に導き、膝立ちしていた足は腰を下ろして広げられた。
誘っている。
周泰に否やはない。
冷たい床に横たわるの体が冷えてしまわないか、それだけを気にしながら、周泰はの内に己の肉を打ち込めた。