が目を覚ますと、既に周泰の姿はなかった。
だが、枕元に見慣れぬ留め金が置いてあるのを見て、昨夜確かに周泰が居たのだと証される。
恐らく、周泰の方も確かな証として留め金を置いていったのだろう。
との逢瀬に備えてわざわざ着替えてきたのだとすれば、周泰の気質から言っても最大級の礼儀を尽くしたのだろうと思えた。
折角約束していたのに、寝惚けていたとは言え忘れてしまっていたことが申し訳ない。
次に会う時には、紅の一つも差しておこうか。
似合わないかな。
ふと埒もない不安に駆られる。
化粧しても綺麗になった気がしない。
ただ塗るしか意味がなく、周泰の唇を汚してしまうだけならいっそ塗らない方がマシかもしれない。
着飾っておけばいいだろうか。
しかし、どんな服が自分に似合うかも良く分からない。
当帰が与えてくれた服はあったが、果たして本当に自分に似合うのかどうか。
教えてくれる人が、やはり欲しい。
それには、やはり当帰がもっとも適任のような気がしていた。
何と言っても凌統の肝入である。ざっくばらんでいて細やかな心遣いは、春花にも通じる居心地の良さがあった。
そう考えると、どうしても当帰の他には頼みたいとは思えなくなる。の立場も、晒されている局面も、丸ごと腹に納めてくれる人がそこらに居るとは考え難い。
誰に頼めば、当帰がの元に通えるようにしてもらえるだろうか。
当然、ある程度の地位は必要だろう。偉ければ偉い程、話も通り易いに違いない。
となれば。
浮かんだ安易な考えに、もしばし躊躇する。
の方から当帰の元に通っても良いのだ。
けれど、それは当帰が通うよりずっと面倒な手続きが必要になるに違いない。
凌統は、周瑜が外出許可をくれると言ってはいたが、仮にも蜀からの預かり物扱いのを、警護もなしでうかうか城下に下ろすとは考え難い。
甘寧に頼めば気安く連れて行ってくれるかもしれないが、甘寧始めとする錦帆賊と当帰の夫が営む宿とは決して良好な関係にない。当帰の目の前でを攫ってから後は、むしろ当帰自身が錦帆賊を厭っているように感じる。
やはり、当帰に通ってもらえれば一番話は纏まり良い。
話を聞いてもらうだけでも。
挫けはしたが、昨日とて会いに行こうかと考えたこともある。
ご機嫌伺いだと己を言い含め、周泰が残した留め金を大事に布に包んで仕舞い込むと、は早速身支度を始めた。
一度いつも通りの装束を身に纏ったものの、思い直して改めて身支度を整えて直してみた。
ご機嫌伺いにしてもおねだりにしても、相手の気を良くさせるに越したことはない。
まして相手が男ならば、小綺麗にしておいて損はなかろう。
とは言え、はすれ違う武官文官家人達の目に何がしかの好奇の色を見てしまい、落ち着けずに居た。
卸したての新しい装束に、頼んで纏めてもらった髪には太史慈からもらった簪を差している。唇には、物は試しと紅を引いてみた。
それだけのことなのに、何だか奇妙な感覚に囚われる。
あちらこちらから見られているような、自意識過剰な錯覚を覚えるのだ。
普段から化粧慣れしておかないからだ。
この世界に来る前は、おざなりに通り一遍の化粧はしていたけれど、科学の発達したあちらとこちらでは化粧品の質の事情はだいぶ異なってくる。
口紅といったら赤であり、ピンクのベージュのといった色はほとんどない。
昔の映画で見た、小指の先に紅付けて……などという真似を、今、自分が踏襲する羽目になるとは思わなかった。
小指の仕草と相まって、あの、ちょっと色っぽいシーンを再現していると考えるだけで、何だか気恥ずかしいような思いに駆られるのだった。
何度も慣れないと慣れないとと決意を重ねてきたが、いい加減本当に覚悟を決めて慣れないといけないかもしれない。とりあえず続けていけば、違和感だけはなくなるものだ。
でも、やっぱり何か落ち着かん。
うーむ、と唸りながら歩いていると、向こうの方から孫権が歩いてくるのが目に入る。
「」
眉根を寄せている。口紅が見慣れないのだろう。
何の気ない振りで、お早うございますと頭を下げた。
「……何処へ行くのだ」
いぶかしげな、厳しい目付きで睨め付けられる。
孫権の場合、嫉妬と取っていいのか浮付いていると咎められていると取っていいのか、なかなか判断に困った。
閨の内ではうっかりタメ口を聞いてしまうこともあるが、孫権との遣り取りは基本的に主従のそれに習っている。兄である孫策とは口汚く罵りあうことすらあるのに、その弟とは敬語で話をするというのもおかしな話だった。
それでも、そうせざるを得ない雰囲気が、孫権にはあった。孫策にないと言った方が、早いのかもしれない。
「孫堅様のところへ、面会のお願いに」
昨日誓いを立てたとおり、先触れの文を認めてある。
単に、持って行ってもらう家人が居ないから自分で持ってきたまでだ。
文を認めている内に気が付いて、それで着替えたのだ。自分で持って行くからには、では今会おうという話にもなりかねない。
それがなくとも、いつもと違う格好をしていたと聞き及べば、物好きの孫堅のことだから時間を空けてくれるかもしれなかった。
孫堅の名を聞かされた孫権は、見る間に顔を険しくした。
「父上に、何の御用だ」
「いえ、あの」
おねだりしに行くのだとは言い辛い。
口篭ると、孫権は辺りにちらりと目を配ってから、再びを睨め付けた。
「……お前、昨夜は周泰とだったのか」
唐突な物言いに、変なところに空気が入ってしまう。
げふげふと散々に咽た後、涙目に驚愕を浮かべて孫権を見詰める。
矢張りな、と目を細められ、はうろたえて顔を伏せた。
「先程顔を合わせたが、あの男があれ程浮かれているところなど見たことがない。どうせ、お前に類することだろうと思ったのだ」
当て推量も甚だしいが、正鵠を射ているので口答えも出来ない。
赤くなったり青くなったりしていると、孫権はむすっとしての横を通り過ぎる。
「どうせ、何やらの頼みごとなのだろう。お前の願い程度、私で事足りる。来い」
話を聞いてやる、と肩をそびやかして歩いていく孫権に、は呆気に取られてその後姿を見送ってしまった。
だいぶ離れたところでが着いてきていないことに気付いた孫権が癇癪を起こし、は飛び上がるようにして駆け出した。
「何だ、そんなことか」
の話を聞き終えて、孫権の第一声がコレだった。
拍子抜けと言う言葉が最も相応しい。
孫権は新しい竹簡を取り上げると、卓の上に広げて筆を取った。
何事か書き付けているのは、恐らく当帰の城の出入りを許可する手続きの命令だろう。
の方は、そんなあっさり聞き届けられるものとは思いもしない。
「いや、でもあの……公績、あの、凌統殿が、少し時間が掛かるって」
「凌統が何を言ったのかは知らぬが、お前とて時間が掛かり過ぎると見た故に、父上の元に参ずるつもりだったのだろう」
それを言われては返す言葉がない。
しかし、あまりに話がとんとん拍子に進み過ぎると、疑心暗鬼に駆られるのがと言う女だった。
何か手痛いしっぺ返しがあるのではないかと、つい疑ってしまう。
「でも、あの、おか……当帰殿、にも、訊いてみないと」
都合が、などとごにょごにょ言い募ると、孫権は呆れたように顔を上げた。
「お前は、その当帰とやらを呼びたいのか呼びたくないのか、どちらなのだ」
「よ、呼びたい、です」
確かに、呼びたいと言っておいていざ叶うとごちゃごちゃ言い募るようでは、頼まれた方とていい迷惑だろう。
は眉間の辺りを意味もなく掻き、恐る恐る切り出す。
「あの……それで私は、何をしたらいいんでしょう」
「何を?」
鸚鵡返しに訊き返す孫権は、眉を寄せてを見詰める。
「私が何を求めたら、お前は叶えてくれると言うのだ」
マズ。
薮蛇だった。
が青褪めるのと、孫権が立ち上がるのとはほぼ同時だった。
二人の間を挟んでいるのは大きいとは言え執務机一つ限のことで、蛇に睨まれた蛙然としたは一歩も動けず孫権に捕まった。
「言え。何を、叶えてくれる?」
何をと言われても。
孫権の望みが何か分からなければ、答えようがない。
「何を、お望み、なんでしょう」
恐々と首をすくめて問い掛けると、孫権は憮然として口篭った。
しばらくを睨め付けていた孫権は、ふんと鼻息一つ鳴らしてを解放した。
黙ったまま執務机に戻り、筆を取り上げる。
流したとは思えない重い沈黙が落ち、は立つ瀬なく俯いた。
持てる物も知識も力もない己が、孫権に望みを訊ねるなどおこがましかったろうか。
見るからに落ち込んだの姿に、孫権は筆の尻を噛んだ。
「……周泰に、何をしたらあんな顔になる」
ぼそりと投げ出された問いに、は辺りを見回した。自分相手に為された問いか、判断が着かなかったのだ。
元より、室の中にはと孫権以外には誰も居ない。
外には衛兵が見張りに立っているが、文官は人払いされて居合わせていなかった。
「何をしたら、と言いますと……」
そう言えば、何やら周泰が浮かれているとか言っていたような気もする。
頭の中に小粋なステップを踏む周泰の姿が想像されて、は一瞬肺の空気を底から吐きかけた。
「……あの、周泰殿、どんな顔してたんでしょう」
「笑っておったわ、あの男が、口の端をこう緩ませてな」
孫権は、顰め面した口元を指でぐいっと引き上げた。
本当にその通りだとしてだが、それはむしろ怒った顔ではないだろうか。
口をほぼ真一文字に伸ばしただけだ。
周泰が常の無表情のまま、口元だけをそんな風にしていたとすれば、周りの者はさぞ戦々恐々としていることだろう。
微細な差異が分かるとすれば、それは主従の関係を結び長の付き合いとなった孫権だけだろうと思われる。
ともあれ、孫権が笑っていると言うのなら恐らく本当に笑っていたのだろう。
に原因があるとすれば、思い付く事柄はあまりない。
「……昨夜は……その……一緒に、居ましたけども……」
「今に始まったことではあるまい」
むっつり、それこそ不機嫌そうに即答する孫権の言う通り、それならばを連れて呉に戻ってきた辺り、査問の追及を逃れて後にを抱いた時などは、満面破顔していなければならなくなる。
とは言っても、昨夜のはヒステリー気味で、周泰にすればむしろ災難ではあっても幸甚を拝するいわれはないように思われる。
うーん、と考え込んでいたは、ふと、あれかなと思い当たる。
字で呼んだのも昨夜が初めてでなく、では初めてしたこと言ったことと考えると、他に思い付くものがない。
「……好き……って……」
孫権が盛大に吹いた。
激しく咽ているから、がよくやるようにおかしなところに空気が入ってしまったかしたのだろう。
背中を擦られても何にもならないことは分かっていたが、他にしようがないのだとこの時初めて理解した。
孫権の背後に回り込むと、控えめに背を擦る。
多少咳き込んでいたのが治まると、孫権は涙目でを睨め上げた。
「……言ったのか!? 周泰に!?」
「え……えぇと……」
言いはしたが、それを認めた瞬間絞め殺されそうだ。
沈黙を肯定と受け取ったのか、孫権は輪を掛けて不機嫌に陥ったようだった。
手にしていた筆をぽいっと投げ出し、態度も悪く椅子の背もたれにもたれてふんぞり返る。
ゲーム中では父思い兄思いで、度重なる不幸にもめげず孫家を背負う若武者として描かれていたが、こうして見ていると意外や悪たれなのかもしれない。
為しようもなく、胸の上で組まれた孫権の手におずおずと手を重ねると、孫権は上目遣いの視線を向けてきた。
そうしていると、ますます悪たれに見える。
皺の寄った眉間に唇を寄せるが、孫権は甘んじて受け入れた。
「あ」
は、自分が口紅を付けていたことをすっかり忘れ呆けていた。
口付けを落とした孫権の眉間には、くっきりと紅が残っている。色落ちしない現代のものとは違い、ぺったりと移ってしまっている上に色が濃いので尚更目立つ。
「うわぁ、すいません」
慌てて手巾を取り出し拭おうとするも、孫権は何を思ったものか頑健に拒んで拭き取らせようとしない。
「ちょ」
幾らなんでもこんな時間からそんな跡はまずかろう。
が向きになって拭おうとすればする程、腰掛けたままの孫権は器用にその手を掻い潜る。
終いには楽しげに笑い出し、を酷く呆れさせた。
周泰と言い孫権と言い、何がそんなに嬉しいのだか知れない。
そんなに言って欲しいのなら言ってやろうかと口を開き掛け、思った以上に容易く言えないものだと改めて悟った。