訪問者を出迎えに行った呂蒙が、驚きの声を上げるのが耳に飛び込む。
 聞こえた名前に、は思わぬ失態を犯した。
 一つにはまず、動揺して顔を顰めた。
 二つ目に、慌て隠そうとして顔を百八十度反対方向に向けた。
 そして、それら一連の動きをすべて訪問者たる周泰に見られてしまったことだった。
 周泰は呂蒙へ不意の訪問を短く詫び、踵を返して出て行った。
 しまった、と思うも、時既に遅しだ。
 と言って、呂蒙の手前で周泰を引き留める訳にも行かず、は眉根を寄せて俯いた。
 熱に浮かされたように好きだと言ってしまってから、数日が経っていた。
 気配には聡い周泰だから、が何気無く周泰を避けようとしているのもすぐに察知したようだ。
 理由も分からないに違いない。
 故に、から事情を聞こうと、空いた時間にはを探してうろついているらしい。
 一度は通じ合ったと思った女が、手のひら返したように態度を硬化させれば、周泰ならずとも何事かといぶかしく思うに違いない。
 好きだなど、軽々しく言っていいものではないとは自身を戒めていた筈だった。
 それを、箍が外れるようにぽろっと口に出してしまったことで、は罪悪感に駆られているのだ。
 説明しても伝わるものではないと思ったし、口にすれば何にも増して失礼な話だ。
 結果、は周泰を避けている。
 明日には周泰は出立する。
 解きようのない疑問を胸にして出立させるのは心苦しかったが、有用な手段が見出せない以上、とて八方塞に陥るより他ない。
「……周泰と、何かあったか」
 先日以来、随分砕けた物言いに落ち着いた呂蒙が、淡々として話し掛けてくる。
 何気無さの中にも、を気遣っているとひしひしと感じられ、は二重の意味で恥ずかしくなる。
 呂蒙からも告白された。
 その呂蒙に、周泰のことを気遣われてしまう。
 本当なら自分こそが気を付けなくてはならないのだと思うと、居た堪れなかった。
 呂蒙が苦笑を漏らす。
「黙っていたが」
 訳あり顔で切り出した呂蒙に、は背中を丸めたまま目を向ける。
「凌統から、貴女のことを頼まれている」
 凌統の名を耳にした途端、俯きがちだったがぱっと顔を上げ、姿勢を正した。
 あまりに露骨な変わり様に、呂蒙の苦笑は深まる。
「え、公績が? え、何で」
 はそれすら気に止められないようで、しきりに何でどうしてを繰り返している。
「……貴女がそんなだからだろう」
 言われ、は頬を染めた。
 成程、凌統ならずとも人を心配にさせるような危なっかしさがにはあった。
 それは、月光を浴び孤独に打ち震える麗人を案じるなどと言う高尚なものではなく、よちよち歩きの子供が、細いあぜ道を歩いていくのをはらはらしながら見守るのに近かった。
 呂蒙は苦笑を微笑に変え、改めてに向き直る。
「で、俺は貴女の信頼に足る男だろうか」
「へ」
 質問の意図が読めず、きょとんとするに呂蒙は畳み掛けた。
「貴女が周泰に何をしたのか、伺って相談を受けるに差し支えない程度には、信頼していただいているのかと訊いている」
 明瞭な言葉には、がぐちゃぐちゃと言い募って逃げ出す余地はまるでなかった。
 口をもごもごさせていただったが、やがて諦めたように閉ざす。
 ぎゅっと噛んだ唇から色が消える様から、呂蒙は早熟の果実を連想した。
「……すごく、くだらないことなんですけど」
「例えどれ程下らなくとも、貴女には問題なのだ。そうなのだろう?」
 呂蒙の、押しても引いても柔軟に対応する肝と話術に、はようやく諦めを付けた。
 切り出しを悩むも、見切りをつけたらしくおもむろに口を開く。
「好きって、言ってしまって」
 呂蒙の目端がわずかに震えた。
 しかし、呂蒙は黙しての話の続きを待つ。
「……勿論、嫌いじゃないです……好き、は好きなんだと思いますけど……でも、そういうの、軽々しく言っちゃいけないじゃないですか。でも、私、場の雰囲気と言うか、そういうのに浮かれちゃって、ぽろっと言ってしまって。後で気が付いて、とんでもないことしたって思って、そう思ったら周泰殿と顔合わせるの申し訳なくて……だから……」
 上手く纏められないが、これがの素直な思惑だった。
 自分のうっかりから、周泰に期待させるような真似をしてしまった。
 あんなことを言われれば、周泰もに何がしか期待を持って当然だ。
 周泰のせいでは何もない。
 ないが、ではが取れる行動はと言えば、これ以上周泰を期待させぬよう避けて通るぐらいしかなかったのだ。
 俯いたに、呂蒙はただ笑っている。
「惨い真似をなさる」
 微笑には似合わぬ辛辣な言葉に、は目を見開いた。
「む、惨い……でしょうか」
「俺は、そう思う。好いた女に好きだと言われれば、男は皆嬉しくなって当然だ。だが、次に会おうと試みれば、その相手は己を避けて逃げる。高まった方寸の情を、舞い上がった分だけ余計に大きく傷付けるようなものではないか」
 それはそうだ。
 だが、期待させ続けるような真似もできない。
 被害を最小に抑えるなら、早目に対応する方が良いではないか。
「その、対応の仕方が間違っているというのだ」
 自分が過ちを犯したと言うなら、自分も過ち分の責を負わねばならない。
 だが、がしていることと言えば逃げ回っているだけだ。自分可愛さに傷付かぬよう、逃げているのと大差ない。
「本当に己に非があると思うのなら、否、どちらに非があるにせよ、きちんと理由を申し述べなくては。ただ相手を責めるのみの行いは、愚人が入り口のない塔を築いてその高さを誇るようなもの。お分かりになるか」
 は、大きく頷いた。
 周泰を追おうと席を立つと、他ならぬ呂蒙に引き止められてしまう。
「……今、この時間は俺が貴女の学問を見る時間だ。いわば師を前に、請うべき教えを投げ出して私事に走ってはならん」
 そういう意味では周泰も罰を与えられるべきで、しかしさっさと逃げ出してしまったからそうもいかなかった。
「公と私を混同してはならん。貴女も国の為に働こうと欲するなら、その辺りのことを肝に銘じておかなければ」
 お叱りを飛ばしつつ、講義を再開させる。
 どうしても気が散るに、呂蒙は常より長くを拘束して、解放しようとしなかった。

 礼もそこそこにして、が廊下に飛び出した頃には早日は暮れ落ちていた。
 は周泰の自宅の位置を知らない。
 知っていたとしても、この時間の遅さ暗さでは、道案内なしには辿り着けないだろう。
 夜になれば、人気はぐんと少なくなる。灯りも貴重なこの時代に、夜にわざわざ起きていようという物好きは多くないのだ。
 結果、が周泰の家に辿り着ける可能性はゼロに等しく、また辿り着いたところで中に入れてもらえるとは限らない。
 念の為に執務室も覗いてみたが、やはり周泰は既に退室した後だった。
 出立前に謝るにしても、多少込み入った話になるから人前でするのは無理だろう。せいぜい、気をつけてと声掛けるぐらいになってしまう。
 肩を落として自室に戻ると、ふっと冷たい風が頬を打った。
 振り返る間もない、突然持ち上げられて攫われる。
 瞬時のことに悲鳴も上げられなかった。
 視界は闇に溶け、鼓膜に草木を掻き分けるザザザ、という鋭い音だけが響き渡っていた。
 灯りのない黒い海を泳いでいるような感覚に、は呼吸が上手くできなくなってしまう。
 ふわっと体が浮き上がり、どさっという音が耳と体に振動を与える。
 大地に投げ出されたのだと、他人事のように知覚した。
 闇に溶けるように佇む人影は、対峙して尚確とは知れない。
 それでも、は荒くなる息を制して目を凝らし、その人影の主を確かめようとした。
「……周泰殿?」
 手が伸びてきて、の顔を包み込む。
 眼前に周泰の顔形が浮かび上がり、ああ、やっぱり周泰だったと安堵した。
 その顔が強張り、無表情の中に殺気を孕んでいると分かってさえ、の安堵に変わりはなかった。
「良かった」
 影が揺らめく。
「探しに行くつもりだったんですけど、講義が長引いちゃって。今日の内に会えて、良かったです」
「お前が」
 の言葉を遮るように鋭く、周泰は声を発した。
 珍しい。
 それだけ怒っているのだろうとも推測できた。
「……お前が、俺を避けていた……」
「ごめんなさい」
 素直に詫びるに、周泰はやや戸惑っているようだ。
「……何故だ……」
「好きって、言ってしまったから」
 周泰は口を閉ざし、は構わず言葉を続けた。
「気軽に言っていい言葉じゃないって思ってたのに、あの時はつるって言っちゃって。周泰殿が、期待……その……私が、周泰殿を選ぶって、期待するんじゃないかと思って。私は……申し訳ないけど、本当に未だ全然決められてないから」
「……俺は……」
「そんなこと、思ってなかったかもしれないですよね……私が勝手にテンパって、……動転して、思い込んじゃったから」
 ごめんなさい、と詫びるに、周泰はやはり無表情だった。
「……嘘か……」
 ぽつりと吐き出した言葉は、周泰には自然な問いだったろう。
「……嘘だったのか……?」
「嘘じゃないです」
 それだけは違うと、はきっぱり拒絶した。
「私は、周泰殿のこと、好きですよ。でもそれは、他の人達と大差ない『好き』であって……この世でたった一人の『好き』って訳じゃ、ないんですよ。だから」
 言い訳にしても厳しい、とは我がことながら思う。
 けれど、そうとしか言いようがなく、他の言い方をは思いつけずにいた。
 どう受け止めるかは、それこそ周泰の自由だと思う。怒って当然だし、それで殴られようが蹴られようが、仕方ないと思う。
 予見される痛みに体がすくみ震えるのは、にもしょうがなかったのだが。
 周泰は、の説明を噛み砕こうと努力しているように見えた。
 元が我がままな主張だったから、周泰が受け入れられなくとも不思議はない。
 しかし、周泰は受け入れた。
 こくりと、飲み込むように頷く周泰を、は逆に信じられなくてまじまじと見つめてしまう。
「お、怒らないんですか?」
「……何故だ……」
 何故と言われると、困る。
 普通は怒るところだろうとは思うのだが、普通や常識といった類の話は、説明するのに存外骨が折れるものだった。
 が困惑して黙り込んでいると、周泰は諦めたように小さく溜息を吐いた。
「……元より、承知の上だ……」
 承知の上でこうなった。
 今更、がどうこう言わねばならない理由は何もない。
 周泰はそう思い、も分かっているものと思い込んでいたからこそ、の態度の急変は周泰をらしくもなく追い詰めた。
 会って確かめねば話にならぬという焦りから、呂蒙の元にさえ押し掛けさせたのだ。
 そんな己を、周泰は不可解にも興味深くも感じている。
「……皆、分かっている……分かってお前を抱く……お前は、余計なことを考えるな……」
 周泰にしては饒舌に、をぴしぴしと叱り付ける。
 疲れた様に、は自分の行動が周泰を追い詰め心身共に疲労を余儀なくさせたのだと痛感した。
「……ごめんなさい……」
 考えなしだったと改めて深く反省していると、周泰の指がの髪に絡み、顔を上げさせる。
「……好きか……」
 が目を丸くすると、周泰の口元がわずかに綻んだように見えた。
 意地悪をされている。
 赤くなる顔を見られたくなくて俯くが、周泰の指が妨げて許してもらえなかった。
 一人ではない。
 他の皆も、恐らく同じくらい好きで、大事で、だから選べないのだ。
 それでも、いいのだろうか。許されるのだろうか。
 周泰と目が合う。
 覗きこまれる。
「……好き……」
 囁くような小さな声だった。
 それでも、よく言えた褒美だとでもいうように、優しい口付けが落とされた。

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