周泰に見詰められ、は困惑の極みにあった。
 いつもであればどうと言うこともない。寡黙な周泰がを見詰めるのは、他の男がに話し掛けるのとほぼ同意だからだ。
 けれど、それも人目がない時であれば、の話だ。
 出立を前に集った兵達が、周泰との様子を趣深く見学している。
 訓示がある訳でもなく、ただそれぞれの家族や友人知人が見送りに来る中、妻や恋人が見送りに来ている兵も勿論居る。
 だが、あの周泰が女をガン見するというのはなかなか見られぬ光景には違いなかった。
「周泰」
 足を運んで来た孫権が、躊躇いがちに声を掛けてくる。
 さっと顔を上げた周泰に、はようやく呼吸を許されたような心持ちになり、深く息を吐いた。
 そんなを、周泰が憮然として見ている。
「……言ってやるな、周泰。その女とて、それなりに気遣ってここに来ているのだろう」
 フォローなんだか何なんだか分かり辛い言葉に、周泰はこっくりと頷く。
 それなりどころか、きちんと気遣って見送りに来ているのにと、はやや不満げだ。
 膨らました頬を見て、ようやく周泰の顔も緩んだ(ように見えた)。
「……行って参ります、孫権様……」
「あぁ、達者でな、周泰」
 短く別れの挨拶を済ませると、さっさと背を向ける。
 が慌てた。見詰め合っていた(と言うか、一方的に見詰められていたのだが)だけで、何も声を掛けていない。
 突然のことに上手い文句が浮かばないのは、いつものことだった。
「い、いってらっしゃい」
 周泰はわずかに顔を上げたものの、結局振り返ることもなく馬上の人となった。
 一軍が列を成し去って行くと、見送りに来た人々もてんでばらばらに帰途に着く。
 普段の生活があるから、見送りに来た人の数はそれ程多いものでもない。すぐに散って、後にはや孫権他、数人の兵や文官が残るのみとなった。
 凌統の時もそう思ったが、ずいぶんあっさりとしている。
 こんなものかとは首を傾げた。
「どうした」
 目敏く孫権に見咎められ、は首を振る。
 理由云々は、以前凌統から聞き及んでいる。孫権に訊いたところで、同じ回答が返ってくるのは目に見えていた。
 孫権は、に首を振られてやや戸惑った。
 話の糸口を見失ってしまったのだ。
 兄のようにはいかぬと嘆息する孫権に、今度はが何事かと窺ってくる。
 言うに言えないから、仕方なく何でもないと答える孫権に、はまた首を傾げた。
 肌を重ねた男女の様とも思えない。
 まるで何事もなかったかのような空気は、良かれ悪しかれの醸す空気のせいだろう。
 一度契りを結んだ女は、もう少しあからさまになるものだ。
 この男は自分を抱いた、この男は自分が食ったのだと。
 どうも、にはそこら辺の感情がないように見受けられる。
 独占欲は、女の方がむしろ露骨にすることを好む。秘めた部分では男も女に負けず劣らず、否、男の独占欲の方が秘められるだけもっと禍々しい。
 と孫権の様を物陰から見遣っていた孫堅は、ぼんやりと物思いに耽っていた。
「来ておられたのなら、お顔を出せばよろしかったでしょうに。ご尊顔を拝せば、兵もやる気を出しましょう」
 泥に浸るような黙考を打ち破ったのは、黄蓋だった。
「ご尊顔は止せ、何やらむず痒くなる」
 笑いはするものの、その笑みは何処か疲れたような重さを感じさせる。
 孫堅らしからぬ笑みに、黄蓋は気遣わしげに眉を顰めた。
「いったい、いつまでこんなことを続けられるおつもりですか」
「……何の話だ」
 黄蓋の言葉に、孫堅はおどけるように肩をすくめた。
 しかし、そんな滑稽な仕草でさえ、常の孫堅からは想像も出来ない闇を感じさせる。
 それが何故なのか、付き合いの長い黄蓋には分かっていた。
 そして、己では何の役にも立たぬことも、孫堅自身がどうにかしなければならぬことも、重々承知の上で苦言を呈す。
 呈さずには、居られないのだ。
「誤魔化されますな、短い付き合いでもありますまいに」
「そうだな、お前とは長い付き合いだ、黄蓋」
 短い遣り取りは、短さとは裏腹にその数倍もの深い意味を秘めている。
 孫堅が何を考えているのか察しを付け、心配している、案じていると訴える黄蓋に対し、孫堅はすげなく切って捨てた。察しているならばこそ何も言うな、何も為しようがないことだと拒絶している。
 黄蓋はしばし黙した後、何か言い募ろうと口を開いたところを再び拒絶された。
「黄蓋」
 名を呼んだだけのことではあったが、それで伝わるのだから敢えて言葉を重ねる必要もない。
 放っておけと揶揄され、黄蓋は渋々引き下がった。
 物憂げな主の様に、しかしこのまま捨て置いてもおけぬと焦っていた。

 とある文官の許を訪れ、呉で扱う茶の話で盛り上がってから自室に戻ってきた。
 送り届けてくれた兵に頭を下げると、戸惑いながらも礼を返してくる。
 室に入ろうとしたの手を、その兵がぱっと掴んだ。
 へ。
 不意を突かれたが素になって振り返ると、薄闇に表情を隠した兵から、濃い男の気配を感じた。
「ちょ」
 止める暇もなく抱きつかれ、しがみつかれる。
「ちょ、ちょっと」
 突然のことに困惑を隠せない。恐怖すら、感じる余裕がなかった。
 下手な相撲を取っているような有様で、何でこんなところでと目を白黒させるばかりだ。
 室の前まで送ってくれる兵はわずかだが、ないことではなかったから油断した。
 ただ、男の方も頭に血が上っていて、体に力が入り過ぎて変に動けないようだ。
 万力で固定するようにがっちりと床を踏み締める足は、が抗ってもびくともしない。代わりに、じりじりとしか進まなくて、それでがもがく猶予が与えられていた。
「……わ、わ」
 室の中へと押し切られそうになって、は色気のない悲鳴を上げる。
 がし、と肩に手が置かれ、間近にあった兵の顔がいきなり後ろにすっ飛んだ。
「何をして居るか、この慮外者め」
 庭に転げ落ちた兵は、二転三転どころでなく延々とごろごろ転げまわった。
 回り過ぎじゃないかとがうろたえていると、ようやく兵の体が止まる。
 ぐんにゃり伸びた兵は、一呼吸置いてびょんと飛び上がり、後も振り返らず一目散に駆け出した。
 何もかもが慌しく、は呆然として兵の後姿を見送った。
「ご無事か」
 掛かる声に、はようやくそこに居た黄蓋の存在を見出した。
 黄蓋が助けてくれたらしい。
「あ、あり、ありがと、ござ、ま」
 今頃になって体が震えてきた。
 兵士の体臭が、服にこびり付いている。
 呼吸するたび鼻に付いて、吐き気を催した。
 の様に、黄蓋は苦笑する。
「ご用心召され。室の前まで送らせるなど、それだけで図に乗る輩も多かろうでな」
 別にが頼んでいる訳ではなく、何だか当たり前のように付いて来たもので流してしまった。
 言い訳と言われれば言い訳なので、言わなかった。
 こんなことまで注意しなければならないのかと思うと、何だか妙にげんなりした。
「……お主の国ではどうか、知らんがな」
「あ、いえ、すいません」
 郷に入っては郷に従えという言葉通り、合わせなくてはならないのはの方だと自身でも分かっている。
 黄蓋にやんわりと指摘され、露骨に顔に出してしまった自分が恥ずかしくなった。
 もう一度重ねて詫び、助けてくれた礼を述べると、今の一件は内緒にしてくれるように頼む。
 何故と訊ねられ、は頬を掻いた。
「私が油断してた訳ですから……あの人が、路頭に迷うと困るんで……」
 送らせた兵が送り狼になったと知られれば、ただでは済まないのではないか。
 兵の主たる人の良さそうな文官は、しかし外見そのままに人がいい訳ではなく、海千山千の商人を相手に税を納めさせている男だった。今日のことを知れば、厳正なる処分を下しかねない律儀な性格だとは踏んでいる。
 文官の名を聞き及び、黄蓋も頷く。
 あまり高官ではないが、職務に忠実な男だった。の見立て通り、もし事が露見したなら必要以上に重い処罰を下しかねない、言ってしまえば潔癖に過ぎる人柄でもある。
 兵は若い盛りだったし、孫堅の命が頭にあっての愚行であるとしたら、一概には責められない。
 口説け、という言葉を以って、女を抱く、即ち己の物にすると直情径行に走ったのだろうと想像するに容易い。
 抱いて物になっているのなら、とっくに誰かの物になっているだろうことは、悲しいかな理解し難いようだった。
 むしろ救い難いのは、が牀技の達人だという噂を確かめるべく動いたという可能性で、もしそうならば黄蓋としても捨て置けない。模倣犯が出ないとも限らないからだ。
 とは言え、ならずとも、男女の契りに関しての作法は複雑怪奇を極め、修めようにも修め難い。
 定義があるのかと言えば、ありそうでないものと答えるより外なかった。
 儒学者達が言い居る『儀制』が正当だとは言い難い。豪族即ち儒を修めたものと看做しても問題はないが、土地土地に残る古いしきたりは未だ健在であり、田舎の方へ出向けば集団婚すら見られることもある。
 なども、この集団婚のしきたりが残された地域に居たのではないかと黄蓋は見ていた。
 実際のところを知らぬから、がうんうん悩んでいるのもちょうど集団婚から一夫一妻に移行する過渡期にあったせいだと考えて、そこまで考え込まずともと実に気楽なのだった。
 この呉で、現在の『技』に興味を引かれていないのは黄蓋一人と言っても過言ではなかったかもしれない。
 と言って、黄蓋に問題がある訳ではなかった。
 まったく逆で、若い頃には相当な浮名を流し、極めてしまったからだと言う方が正しい。
 孫堅が『女に飽いた』と言うのを聞いて、小波程にも動じなかったのは、黄蓋と張昭くらいのものだろう。
 黄蓋があの時うろたえたのは、純粋に孫堅の身を慮ってのことだった。
 確かにには気の毒だと思ったが、黄蓋には、そんなことを言い出す孫堅の方こそが危うく見えたのだ。
 長の付き合い故に、その気質も資質も透かすように見抜いている。
 改めての顔を見た。
 いぶかしげに見上げてはいるが、その顔に高慢な色は見られない。
 普通、これ程囃されれば多少いい気になって然るべしだが、は却って落ち着かずうろたえているように見受けられる。
 変わった娘だと思っていたが、無礼を働いた兵に対して憤ることもなく(案外分かっていないだけかもしれなかったが)、手出しされずに済んだせいにしても、もう落ち着きを取り戻していた。
 人の気質は移ろい易い。
 おとなしげな娘が、置かれた環境によって擦れたあばずれに変わって行くのを黄蓋は何度となく見てきた。
 それでなくとも、歴史が証す人の愚行は数えれば限がない。
 がそうでないとは言い切れない。
 そうあれと命じる権利も術も、黄蓋にはない。
 だがもしそうであってくれるなら、黄蓋は唯一無二の宝をに委ねても良いと思っていた。

 孫堅は、執務室で書簡の束に目を通していた。
 衛兵が来て、黄蓋の来訪を告げる。
「入らせろ。それから、人払いを頼む」
 呼びもせぬのに黄蓋が遣って来るということは、人に聞かせたくない話であることが多かった。
 政にしても、軍事にしても、私事にしてもそうだ。
 今回は、恐らく最後の事柄に類することだと想像が付く。構うなと伝えてはおいたが、黄蓋の気質では見逃せなかったに違いない。
 赴任と言っても、長いものではない。
 いつかは使うかもしれない拠点を、敵の攻勢に耐え得るよう多少改造を施させている。
 それを見に行きがてら、不備な点がないか練兵もどきの模擬戦闘を行ってくるだけの話だ。
 川縁にある拠点故、水賊上がりの周泰が適任と任じても何らおかしな話ではない。
 確かに、ここ最近の周泰はに近付きすぎている嫌いがあるが、任命そのものは私心を交えない正当なものだ。
――言い訳がましいな。
 当然ならば当然と、回顧することもない筈だ。
 考えてしまうのは、むしろ当然でない人事の証拠と言って良かった。
 甘寧でも、良かったのではないか。
 否、甘寧では報告に不安がある。実際にその拠点を任せるのであればともかく、拠点の使用感に関しての報告を甘寧に期待すべくもない。
 それ以上に、甘寧に拠点を任せるという発想自体が無意味だ。
 機動力に物を言わせての急襲、それこそが甘寧を最大限に活用できる策だ。拠点を与えるなど、足に枷を嵌めるようなものだ。
 ここのところ、孫堅は己の思考が纏まらないことに瑣末な苛立ちを感じている。
 理由は確と知れず、だから病に至らぬ程度に体を損ねている兆しかもしれないと考えていた。
 夢でも見続けているような倦怠感があり、それが孫堅の思考を乱しているのだ。
 医師に掛かるのは面倒だなと考えていると、ようやく黄蓋がやって来た。
 それが黄蓋でなくであることに、孫堅はしばらく気が付けないで居た。

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