がようやく泣き止んだ頃、目元は赤く腫れ上がっていた。
泣くとすぐこうなる。
それもあってあまり泣かないようにしなければと思うのだが、未だ制御できていない。感情が昂ぶると、バケツを引っ繰り返したように涙が溢れてくる。
年甲斐もなくみっともないと思う。
けれど、の髪を撫で続けていた孫堅は、面白いものでも見るかのように可笑しげに笑っている。
実際に面白い顔になっているのかもしれない。
が孫堅の手から逃れるように身を引くと、孫堅も敢えて追わずに手を下ろした。
「誰も来なかったのか?」
孫堅の問いは、誰か来さえすればの訪問はもっと早かっただろうと示唆していた。
「大喬殿が、泊まりに来てて。そっちの応対もしてくれてたもんで」
どおりで大喬が怒る筈だ。
を是非とも孫策の妾にと望んでいる大喬にとって、恥知らずに夜這いしてくる男達など汚物の如き存在だったに違いない。
『』には用がないというのも、実に穿った返答だ。
相手の目当てはあくまで『君主推薦の女』であって、『』ではなかったのだ。
気持ちの悪い話だと思う。
愛おしいと思って求めに来るのではなく、アレの具合がいい女だと囃し立てられやって来るのだ。
大喬は頑として相手の名を口にしないけれど、それは却って有難かった。
もしも相手が誰か分かってしまったら、はその相手を一生侮蔑し続けると思う。
「お前は、色恋沙汰には疎いのだな」
いきなり決め付けられて、の眉が吊り上がる。
確かに、今の今までとんと縁のない話ではあったが、それでもまったくなかった訳ではない。
この世界に来てからは、呆然とする程色恋塗れになっているが、だいたいこの世界の人間がタフ過ぎるのだ。
戦に政治に色恋と、疲労と消耗の激しいこれらを同時にこなしているのだから大したものだ。
は、その三つに至るまでで既にへとへとだ。武芸は才能がないと切り捨てられたし、政治に携わるところに行くまでの学は未だに足りてないし、色恋に関しては錐揉み状態で揉まれ続けて、着陸する場所の目途すら立っていない。
むっとした表情を隠さないに、孫堅はやや呆れたように、しかし笑みは絶やさずの目の奥を見詰める。
「俺が何を言っても、今のお前では聞く耳も持てぬだろう」
聞きたくもない。
ふいっと目を逸らしたは、孫堅の口元がわずかに歪んだことに気付けなかった。
「……下がれ。俺も、執務がある」
追い払うような口振りに、は動揺してしまう。
孫堅がを冷たく追い払うなど、実にこれが初めてのことだ。
胸に針が刺さったかのような痛みが走り、足がすくむ。頼りない感覚に陥った。
孫堅が苦笑いを見せる。
「その気になる前に帰れと言っている。執務を放り出したとなれば、俺が黄蓋に叱られるだろう……それとも、して欲しいのか?」
ひょいと伸びてきた腕から、慌て飛び退って逃げ出す。
犬のような唸り声を上げながら、は扉の前まで小走りに駆けた。
「お、お邪魔しました」
礼もそこそこに飛び出していくを見送り、閉ざされた扉の立てた音に孫堅の憂鬱は深まる。
「……さても厄介な娘だ」
湧き上がりかけた感情を沈め、孫堅は施政者の顔に立ち返り執務机に掛け直した。
泣き腫らした目で帰ってきたに、大喬は目を潤ませた。
「酷いことを、言われたのではありませんか」
言われて、は頭を掻いた。
酷いと言われれば酷いと思うが、涙と共に激した感情は醒めてしまった。割り切りが早いのは、利点に値すると思う。
孫堅は、が嫌なら断れば良いと言っていた。
落ち着いてよくよく考えると、状況的には以前と何ら変わらない。嫌だと言って引く男は引くし、引かない男は頑として引かないのだ。
誰でも良いと言う訳では決してない。
ないが、一人に絞れて居ない以上、にも責任があると言えば言えるだろう。
例えばの話だが、とりあえず形だけでも結婚して、世間的にこの男の所有物になったと大々的に宣伝すれば、他の男とて下手ににちょっかい掛けて寄越すこともあるまい。
けれど、それはが嫌なのだ。結婚するならこの人と決めて結婚するのでなければ嫌だ。色恋沙汰の整理の為に結婚するなど、馬鹿馬鹿しくて到底受け入れられない。
他の相手とて、が本気で結婚したがっているなら諦めもしようが、本気でないと分かれば烈火の如く怒るに違いない。土台、失礼な話なのだ。
為し様がなくてだらだらと先延ばしにしてきて、事態がひとりでに好転する筈がなかった。
――お前は、勝手ではなかったというのか?
勝手だ。
だから何だ。
男達が好き勝手するのだから、とて好き勝手するのだ。何が悪い。
何もかもが悪いとしても、それ以外に為し様がないならそうするしかないではないか。
「……大喬殿、今日は自分の室で休んで下さい」
の申し入れに、大喬は驚き拒否をした。
これまでやって来た男達はすべて大喬が追い払ってきたのだ。これからも追い払うつもりでいる。
決しての為だけではない、自分が嫌だからそうして来たのだ。
小喬は、偶々席を立っていて、孫堅の言葉を聞いていなかった。
聞かずに幸いだと思う。
女として、あんなことを人前で言われたら屈辱にしか思えない。
大喬の主張に、はしばし沈黙した。
「でも、一応それ、褒め言葉ですよね?」
「えっ」
絶句した大喬に、の表情は優れない。大喬の気持ちも分かるし、言い分もその通りだと思う。
だが、見方を変えれば、あれは褒め言葉なのだ。
女など抱き飽いた男が、自分は未熟だった、女と言うものはもっと奥が深かったのだと感心する、というのは、なかなかどうしてあることではない。
更に言うなら、それを臣下の前で言うことは一種自分の無知を堂々と露呈したことになるのだから、張昭辺りが笑っていたのもあながち分からぬことではないのだ。
「そんな、こと」
大喬は眉を寄せ、可愛らしい赤い唇を尖らせた。混乱しているのだろう、言い返そうと思って言葉を捜しているに違いない。
は苦笑を漏らし、首を傾げて大喬を見詰めた。
「うん、あの、大喬殿がおかしいって思う気持ちも分かりますよ。私の話ですし、私だってあんなこと言われて情けないつーか、恥ずかしいとか悔しいとか、まあ色々、感じます。でもねぇ」
言ったことは取り消しようがない。
腹を立てて済むことなら、幾らでも腹を立てよう。しかし、これはそうではない。
状況が悪化した訳ではないと、先程確認した。
ならば、もう流すしかないとは思った。
「だって」
未だ納得し難い大喬の手を、は恭しく押し頂いてそっと包み込んだ。
「あのね、大喬殿」
もしも一人で怒っていたなら、もきっと延々と怒り悲しみ続けていたことだろう。
けれどの横には大喬が居てくれて、以上に腹を立てて怒ってくれたのだ。
「だから、私も落ち着けたんです。大喬殿が、私の代わりに怒って、泣いて、悔しがってくれたから」
分かってもらえることは、強い力になる。
「だから、有難うございます、大喬殿。傍に居てくれたこと、ホントに感謝してます」
大喬の目が、じんわりと潤む。
の手に包まれた白い指に、きゅっと力が込められた。
「でも、私、何にもできなくて」
「傍に居てくれたじゃないですか」
何も言わず、黙ってを守り続ける。
それは、容易いことではない。腹に怒りを納めるのは、頭で考えるよりとても大変なことなのだ。
大喬の口元に、ようやく微笑が戻った。
「……でも、やっぱり私、付いてます。大姐から直接お断りになるの、大変でしょう?」
対応に立ったのが大喬と分かるや、慌てて逃げ出す輩も多い。
だが、中には図々しくは居るかと尋ねてくる者も居るのだ。優しい(押しの弱い)では、断れずにずるずるとそのまま……ということになりはしないかと、大喬は心配していた。
「私だって、さすがに顔も知らないような人とどうこうなるの嫌ですよ」
が肌を許してきたのは、ある意味が『知り過ぎている程知っている』相手だったからだ。趙雲、馬超、孫策と、他の相手に至っても皆、が愛する無双の『キャラ』達だ。
顔と名前の一致しない準武将に、その場で即座に萌えられる程には幼くない。
あまりと言えばあまりな言い草だとは、自分でも思うのだが。
「八つ当たり先は募集したいぐらいですからね、申し訳ないですけど、来たら来たで八つ当たりしちゃいそうですしねぇ」
「されて当然です、あんな人達。むしろ、するべきです」
大喬が憤然として吐き捨て、は声を立てて笑った。
二人でしばらく笑っていると、鬱々とした気分もだいぶ晴れてきた。
「大姐……あの」
「はい?」
言い難そうにもじもじとしだした大喬に、は気楽に話すように水を向ける。
大喬はそれでもしばらく口篭っていたが、しばし悩んだ挙句意を決したように居住まいを正し、に向き直った。
「あの……お牀入りのことなんですけど」
「オトコイリ」
尾と濃い利?
男要り?
音恋里。
どこかで聞いたような変換を繰り返し、やっと『お牀入り』の文字に辿り着く。
「ああ、お牀入り」
大喬の顔が真っ赤に染まる。
そう言えば、いつだったかそんな約束を交わしていた。
「教えますって、約束してましたもんね」
敢えて何でもないことのように話すと、大喬も恥ずかしがりながらこっくりと頷いた。
じゃあ、今日は取り立てて予定もないし自室の中でのことだしと考えて、はたと気付く。
どうやって教えたらいいのだろうか。
星彩にも色々教えたことがあったが、言葉ではどうにも伝わらなくて困った覚えがある。
そんなら実際にやって見せてという訳にも行かず、はどうしたものかと考え込んだ。
「あ、の……あの、き、気持ちいいって、あの……本当、ですか……?」
の困惑に助け舟を出そうとでも思ったのか、大喬はたどたどしく口を開く。
目を丸くしたも、大喬の意図を汲んでさりげなく冷静を装う。
正直、大喬の恥ずかしがる姿は初々しくて、男だったらこのままGoサインなのに、などと不埒な妄想を掻き立てる。顔がやたらとにこやかになるのもいただけないだろうから、気が緩むと吊り上がりそうになる口の端に力を込めなくてはならなかった。
「うん、すごく気持ちいい……と思います、私は。気持ち良過ぎて、訳が分かんなくなるくらい」
「そ、それって気持ちいいんですか?」
苦しそうだという大喬の感想は、実に的を射ている。
「あのねぇ……普通、気持ちいいって言うと、楽しいとか、明るい感じじゃないですか」
「違うんですか」
違うのだ。
裸になって致す行為なのだから、当然羞恥が付きまとう。それを乗り越えた先にある快楽なのだから、天真爛漫に明るく楽しくという訳にはいかない。
「え……」
ショックを受けたのか、大喬は顔を青くして俯いてしまった。
こんなところでショックを受けられても、とて困る。まだ触りも触り、事に及ぶ前の話だ。
「でも、好きな人とすることですから、凄く嬉しいし、とにかく気持ちいいのは気持ちいいんですよ」
最初は痛むが、慣れれば痛みもなくなる。
気持ち良過ぎて失神してしまうことだってある。
しかし、が話せば話す程、大喬は小動物のように怯え体を縮こまらせた。
いかん。
頭の中で、孫策の眩しい笑顔が青空に浮かんでいた。
よろしく頼んだずぇー、たら言っているのにエコーが掛かり、『だずぇー』『ずぇー』『ぇー』と執拗な程残響が響いている。物凄く期待して頼まれたような気がした。
初夜の前に恐怖させては元も子もない。体に力が入ると余計に痛くなる。気がする(比較経験できることでもないから確証はない)。
「……よし、分かった」
ぽん、と手を打つと、大喬が何事かと顔を上げた。
「とりあえず、ちょっと時間下さい。今日のこれは、ナシ」
「な、なしって」
大喬は大いに困惑する。
だが、はただ頷くばかりで、大喬もそれ以上強く催促することはできなかった。
夜半になり、久し振りに一人の夜を過ごしていた。
城仕えの家人に頼んで酒を都合してもらうと、手酌でちびちび呑んでいる。一人になるとさすがに気を紛らわす手段がなく、たまには自棄酒も良かろうと一人で酒宴を開いていた。
誰かに呼ばれたような気がして音を潜める。
やはり、誰かがを呼んでいた。
早速現れた犠牲に、舌舐めずりする。わざわざ本当に舌を出して上唇を舐めた。
仕草からそのつもりにならないと、大喬の言う通りに流されかねないと用心したのだ。
深呼吸してから誰何の声を掛けると、聞き慣れた声が名乗りを上げる。
気が抜け、腰砕けになった。
扉を開けると、闇の中でもそれと分かる鍛え上げられた体が、でくの坊然として立っていた。
「太史慈殿」
こっちだって、別に言い易い相手を狙っている訳じゃない。あんたの間の悪さは呉軍一だ。
人聞きの悪い評価を受けているとも知らず、太史慈は申し訳なさげにを見下ろしていた。