黄蓋に押されるようにして孫堅の執務室に赴いて来たものの、肝心の孫堅はに気付いた様子もなく竹簡に読み耽っている。
 顔どころか視線も上げない。
 頬杖を突いているものの、随分と熱心な様子だった。
 やれば、出来るじゃないかぁ。
 仕事が嫌いだ何だと言っていたが、嫌いだからでやらなくて済むことでもない。
 嫌々でやるのは致し方ないにしろ、どうせやるならやる気を出してやっていただくに越したことはなかった。
 折角出したやる気に水を差すのも気が引け、その内気が付くだろうと立ち呆けていたが、孫堅がに気が付く様子は一向にない。
 幾ら何でも熱心過ぎやしないかと、徐々に不安になってきた。
 目は開いている。
 眠っているようでもない。
 だが、人の気配がこれだけ間近にあって気が付かないというのは、武人ということを抜きにしてもおかしくはないだろうか。
「……あのぅ」
 溜まらず声を掛けると、孫堅の目がふっとに向けられた。
 また竹簡に落ちた視線が、しばらく考え込むように止まる。
 どうしたものだと考えている内に、不意に孫堅が立ち上がった。
 竹簡を投げ出し、すたすたとの許へ歩み寄ってくる。
 間近、まさに口付ける直前の近さでまじまじと見下ろされる。
 ふざけているのかと思ったが、孫堅の顔は極めて真面目だ。
に見えるな」
「はぁ」
 本人なのだから見えるも何もないのだが、真顔で言われてしまいも返す言葉がない。
 孫堅はしばし考え込んで、もう一度を見た。
「黄蓋はどうした」
「表で、その、待機してるかと」
 何故と立て続けに問われるが、とて知らないし分からない。
 ただ、文句を申し上げて来いと引っ張られて押し込まれて、今の状況にある。
 先程の狼藉者の一件で、あのような輩が沸いて出るのはそも孫堅の命令のせいであろうから文句を言って来いということなのだろうが、内緒にしてくれと自ら依願したに何をどう言えと言うのか。
 大体がところ、文句と言うのは付けるものであって、申し上げるなどとへりくだるものではない。
 高飛車になって声高に罵ろうにも、君主を相手にするには他国の一文官では荷が重い。
 言おうと試み、べそべそ泣き出して逆にあやされて帰ってきた件は未だ記憶に新しかった。
 挙動不審に陥るとは裏腹に、孫堅は至ってのんびりと、否、呆けているように見えた。
 江東の虎を自負する男が、ここまで覇気がないのは異常だろう。
 どうしたと言うのだ。
 病には見えなかったが、顔色が優れているとも言い難い。
 一言で纏めるなら、疲れているというのが近いように思われた。
 疲れている。それも、相当に。
 執務が滞っているのだろうか。孫策が練兵に出てもうかなり経つ。抜けた分を孫堅が埋めているとしたらと考えるが、孫策の執務量など、失礼な話たかが知れているような気がした。
 孫権が居る。周瑜が居る。
 その下には呂蒙や陸遜が居り、張昭始めとする文官達もずらりと首を並べて控えている。
 孫堅一人がここまで疲労するいわれはなかろう。
 ならば、何だ。
 言葉もなく見上げるに、孫堅もまた無言でを見下ろす。
 覇気のない顔に、突然黒い染みが広がったような錯覚を覚えた。
 暗い笑みが、すぅっと孫堅の顔に滲み広がったのだ。
「取引か」
「へ」
 孫堅の動きは素早かった。
 それまで木偶の坊然としていた動きが嘘のような、しなやかで敏捷な動きだった。
 虎が物陰から愚鈍な獲物に踊り掛かるように、の腕は一瞬で捻り上げられ、孫堅の眼前にぶら下げられる。
 痛みを感じ訴える間もない、攫われ持ち上げられ机の上に転がされる。の片や肘にぶつかった竹簡が、音を立てて転げ落ちていく。
 乾いた木片が床に落ちて弾け飛ぶ音、その凄まじさはの体をすくめ怯えさせ、その様があたかも捕らわれた獲物の如き態を晒す。
「取引か? 今度は、何だ」
「ち」
 違うと言おうとするのだが、の唇は大きく震えて思ったように紡いでくれない。
 怯えれば怯える程、男の愉悦を煽ると分かっていた。
 だが、理解するのとそれに対抗しようと気概を奮うのとはまた違う話だ。
 ふと、気が付いた。
 は、最早『この孫堅』を孫堅として見ていない。
 先程の名も知らぬ兵と同じく、ただ自分を弄び貶めようとする征服者気取りの醜漢としてしか見えなくなっていた。
 嫌だ。
 黄蓋に頼み込んで時間をもらい、あの兵の匂いが染み込んだ服を着替えてからここに来た。
 その新しい服に、またも同じ匂いが染み付いてしまうのはどうにも我慢がならない。
 もがいても、男を喜ばせるばかりだ。
 分かっていたが、抵抗を止められない。
 嫌だ、やっぱり嫌だ。
 どうしてこの間は平気だったんだろうかと、悔し涙が滲んできた。
 よがって悶えて、手のひらの上で転がされるのが嬉しい女だと思われたに違いない。
 違う、そうではない。そんな女ではない。望みの為なら平気で体を差し出すような、気持ちが悦ければそれでいいと哂えるような、そんな女に成り下がった覚えは絶対にない。
――畜生、あの男も、この男も、皆、皆、全部死
「殿。大殿」
 静かだが、威厳に満ちた声が響き渡った。
 同時に、の頭の中に満ちていた赤黒い感情も、霧が晴れるように綺麗に引いた。
 ああ。
 は解放された自分の体を強く抱き締め、大きく身震いした。
 自分は今、何を願おうとした。
 ぞっとした。
 研ぎ澄まされた、冷たい感情があった。
 殺意だ。
 そんな恐ろしいものを持ち合わせていたことを、今の今まで知らずに生きてきた。
 腹を立てたことなど、数え切れない程ある。
 理不尽な目に遭ったことも、遭わされたことも、遭わせてしまったことも何度もある。
 その度に怒り、罵倒し、思う存分憎んできたが、それでもこんな冷たい、寒い感情を抱いたことは初めてだった。
 否、一度だけ。
 もう遠い昔のことにしか思えなかったが、たかだか一年と少し遡るだけに過ぎない。
 元来おめでたい性質なのだと改めて思った。
 あの時、趙雲に犯された時も、似たような凍える殺意を抱いた。
 死んでしまえと、心の底から本気で思った。
――いけない。
 耳元で囁きかけるような、真摯な声が蘇る。
 ぽろぽろと涙を落とし始めたに、孫堅は戸惑いを隠さない。
「大殿。殿は、先程慮外者に不埒な真似をされ掛けたばかりなのですぞ。それで大殿が同じ行いをなさっては、殿が気の毒に過ぎます」
 乳母のように叱り付ける黄蓋に、孫堅は頑是無い子供のように眉を寄せた。
「!?」
 の膝から、這い上がるように手のひらが滑る。
 未練がましい動きに、の喉が引き攣った。
「殿……」
 咎めるような声に、孫堅の手がようよう離れた。
「……取引、ではないのか。それで来たのではないのか」
 気が付けば、孫堅の顔はまたも茫洋とした表情へと戻っていた。
 夢と現を彷徨うような孫堅の様に、は不安に駆られ黄蓋を振り返る。
 軽く肩をすくめるのを見て、黄蓋が何故をここに連れて来たのかを悟った。
 孫堅がおかしい。
 黄蓋ですら為しようがない程、何かおかしくなってしまったのだ。
 股肱の臣が手を焼くものを、まして自分に何が出来ると言うのだろう。
 考えても思い浮かばない。
 とりあえず何かしなければと考え込むが、焦ると却って思い浮かばなかった。
 えっとうっとと埒もない口上を繰り返し、握り締めた手のひらの中に、まだ肌に馴染まない新しい布の感触を感じた。
「ふ、服」
「……服?」
 孫堅が気怠げにを見返す。
 は噛み付くように身を乗り出した。
「服が、新しいから、取引とか、考えました?」
 悩んだ挙句に選択した話題としては、ろくでもない。
 自ら傷口に塩を揉み込む真似をするようなものだが、孫堅も同様に思ったものか、面食らったように口篭った。
「……いや……そうか、そう言えば、見たことがない装束だな」
「あ、新しいんです」
 そうか、はい、と応答すると、また言葉が途切れた。
「こ、この間は、口紅もしてみました」
 この際もう何だっていいと、は思い付きを口にする。
「……今日は」
「きょ、今日はしてません。してませんけど、その、つけた方がいいですか、ね?」
 あまり似合わない気がするので、人に会う時は付けていなかった。
 当然、今日も付けていない。
「普通は逆だろう」
 乾いたような笑みだったが、常の孫堅に近い笑みだった。
 少しだけほっとする。
「殺せばいいか?」
 ぎょっとする。
「何の、話、です?」
 恐々訊ねると、孫堅は面倒そうに髪を掻き上げた。
「お前に不埒な真似をした奴が居たのだろう? 殺せばいいか? どう殺したい?」
「と」
 絶句する。
 本当にどうした、と喚き散らしたい衝動に駆られた。
「取引しに来たんじゃ、ないです」
「……取引?」
 孫堅は、の動揺の意味が分かりかねているようだった。
 泣きじゃくる赤子を前にした父親のようにも見える。
「罪人に罰を与えるのは、国を治める者として当然のことだ。何も、お前が取引しなくともいいことだろう」
 の困惑はますます深まる。
 ちょっと聞いた分にはまともなことを言っているようだが、会話の前後に微妙に繋がりがない。
 にも言えることではあったが、今日の孫堅はそのを遥かに凌駕する。
 いつもなら、会話が飛びまくるの思考を先回りして分析し、尽く受け止める。
 それが孫堅であり、が孫堅を恐れる理由の一つでもあったのだ。
「……寝て下さい」
「うん?」
 考え込み、溜息を吐いて出した結論はこれだった。
 孫堅の手を掴み、行き慣れた隠し部屋へ導く。
「なかったことにしてあげます、だから、孫堅様はちょっと寝て、休んで下さい」
 蜀の文官として、呉の兵士から悪戯されかかったという事実は外交上の問題としてもいい筈だ。
 それをなかったことにしてやる代わりに、頭がオーバーヒート気味な孫堅を少し休ませてやる。
 取引と名目するには、被害者たるのみが割を食う。涙なしには語れぬ美談だろう。
 しかし。
「俺が言うことを聞いてやるのに、俺が得る物はないのか」
 取引とは言い難いとぶつくさ文句を言う孫堅のせいで、は膝枕のおまけまで付けてやらなくてはならなくなった。
 不公平だ。
 面白くないと顔に表すに対し、黄蓋は苦笑いしながら頭を下げた。
 そのまま出て行ってしまう黄蓋を追うことも出来ず、速攻で眠りに落ちた孫堅の顔を見遣る。
 彫りの深い顔立ちは、黄色人種の主たる特徴から少し外れている。
 目立つだろうし、その分風当たりも強かったのではないだろうか。
 君主という重責を自ら担うまで、恐らくは様々な艱難辛苦を乗り越えて来たに違いない。
 ならば、偶には、少しは、無償で優しくされてもいいだろう。
 何で自分がとも思わないでもなかったのだが、膝の上に落ちる重みの心惹かれる温かさに、はそうして自分を納得させるのだった。

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