目を覚ました孫堅は、不機嫌そうに眉を顰めると無言のまま起き上がった。
軽口も、礼の一つすらない。
おかしいとは分かっていたが、その原因を知らないには不愉快なばかりだ。
こんなもんなのかな。
君主の気まぐれに振り回されるのが臣下の常であり、それがこの呉でも変わらないとするなら、はこれまでつちかってきた呉のイメージを変えなければならないと感じた。それも、悪い方にだ。
孫堅はおもむろにを振り返ると、やや苦笑を浮かべて指を伸ばし、頬を撫でた。
「お前は、俺の傍に近寄らぬ方がいい」
ここしばらくの俺はどうもおかしい、と零す孫堅の目は、何処か泣き出しそうにも見えた。
そんな表情を見たことはなく、だからは自分でも訳の分からない行動に出たのだと思う。
伸ばされた孫堅の指を捕らえ、両の手で包み込んだ。
孫堅がわずかに動揺したらしいのが、触れ合った肌を通してにも伝わった。
「……どうか、したんですか」
の問い掛けに、孫堅はおどけたように肩をすくめる。
「お前が自分から俺に触れるとは、思わなかったのでな」
声もなく笑う孫堅に、は孫堅がお茶を濁しに掛かっていると感じる。
問い詰めた方がいいのか、孫堅の気持ちを汲んで流してやった方がいいのか。
迷ったが、は第三の選択を選んだ。
「もし、何かあったら、聞きますから」
孫堅が黙り、の目の奥を見詰める。
何を言わんとしているのか、その真意を確かめようとしているように見えた。
少なくともはそう受け取り、敢えて真正面から孫堅の視線を受け止める。
「私は他国の人間ですけど、だからこそ言い易いこともあるかもしれない、でしょう?」
黄蓋に言えないことをに打ち明けるとも思えない。
けれど、聞こうとしている人間が居ることは、居ないというよりは幾分かでも孫堅の救いにならないだろうか。
なって欲しいとは願った。
孫堅は不意に口元を歪め、困ったように笑い出した。
「偉くなったものだな」
お前如きがと謗られたようで、は胸の奥底に痛みを感じた。
泣き出したいようなむずがゆさに、孫堅の指を包んだ手から力を抜いた。
「……いや、そういう意味で言ったのではない」
孫堅はの感情を敏く覚り、申し訳なさそうに詫びを入れた。
眦を撫でられると、その圧力で水気が滲む。
「言葉が悪かったな。……だから、俺にはしばらく近寄らぬ方がいい」
確かに、いつもならばこのような迂闊な言葉を選ぶ孫堅ではない。
不安が呼び水になり更なる不安を呼ぶ。
孫堅は真顔でを見下ろしていたが、堪えかねたように顔を逸らす。
そのことを寂しいと思う自分の心を、自身も計りかねていた。
孫堅の執務室を出ると、黄蓋が待っていてくれた。
「最早、屋敷内も安全とは言えん。わしが室まで護衛して進ぜよう」
明るい黄蓋の口振りに、も釣られて笑みを浮かべた。
「少し遠回りをしても、よろしいかな」
孫堅が眠っている間に、日は落ちて月が出ていた。
庭に下りていく黄蓋の後を、は迷いながらも付いていくことにした。
着込んだ装束の膝の辺りが孫堅の汗を吸い込んだものか、やや湿気って冷たい。
その冷たさが、孫堅の異変を放っておいてはならぬとを焦らせる。
黄蓋ならば、何か教えてくれるかもしれないと思ったのだ。
繁みを幾つも抜け、人気のない場所まで出ると、黄蓋は足を止めた。
「孫堅様は、何か仰っておいでだったかな」
「あの……しばらく、近寄るなと」
暗くてよく分からなかったが、黄蓋は苦い表情を浮かべたように感じた。
一人言のように、『まったく』『困った方だ』などとぶつぶつ呟いているのが聞こえる。
「……それで、おぬしはどうするつもりで居るのか」
「私は……」
は所詮他国の臣下だ。
趙雲からも口酸っぱく何度も『他国の政に干渉するな』と言われてきた。
それを忘れた訳ではない。
だが。
「出来れば、孫堅様に元に戻って欲しいと思います」
自分に何が出来るか分からない。
そして、実際に出来ることなど極端に少ないに違いない。
「私で、何か出来ることがあるでしょうか」
だからこそ、出来ることがあるのなら教えて欲しかった。
黄蓋が笑う。
申し訳なさそうに、哀れむように笑っている。
「孫堅様の命に、逆らってもらえんだろうか」
即ち、孫堅の周りをちょろちょろ徘徊せよということだ。
構いはしないが、いいのだろうか。に対してさえ、あれ程苛付いて見せるのだ。他の者に類焼しないか、不安になる。
黄蓋はの不安を軽く切り捨てた。
「この状況に気が付いて居るのは、わしとおぬし、後は精々勘の良いのが数人と言ったところよ」
孫権すら何も知り居らぬだろうと黄蓋は言い切った。
そうだろうか。
は黄蓋の言に今一つ納得しかねていた。鈍いと定評の在るが気が付いたことを、他の者が気が付かないとは思えない。
正直に申し立てると、黄蓋は苦笑を浮かべる。
「それがあの方の困ったところよ」
旧臣であり、若い頃から孫堅を知り尽くしている黄蓋だからこそ見える孫堅がいる。
「あの方は、聡いように見えて実はそうではない」
黄蓋の言葉とも思えない。
驚くに、黄蓋はたしなめるように目を向けた。
「少々、常人と変わっておられるのだ。これは直接伺ったことだから、わしは偽りないと思って居る」
曰く、孫堅は物事の判断を付けるのに理屈や道理を必要としない。
勿論周囲の助言や書の記述を参照することもあるけれど、孫堅が変わっているのは、得たい知りたい状況が何の気なしに『浮かぶ』のだと言う。
要するに、軍師達が戦に備え地形を調査するとすれば、孫堅はその地に降り立った段階で『何となく』どういう地形で何があってということを察してしまうのだ。
しかも、大概に置いて当たる。
この林を抜けたところに崖がありそうだと思えば、本当にある。
この道を行けば川に出ると踏めば、川が流れている。
予知能力とはまた違うようだが、直感で物事を覚ることが多くあるのだ。
普段はそれで良い。
孫堅が己の能力を特異と見ることはなく、だから人にひけらかしもしない。孫堅の能力を知る者は少なく、軍師も埒もない僻み根性を発揮せずに済む。
けれど、その能力が稀に暴走する時がある。それが今なのだと黄蓋は教えてくれた。
「困ったことに、自覚がおありでないだけに対処する術もない。いつもは落ち着くまで、じっと耐えていただくより他ないのだが」
いつ落ち着くか分からないでは、黄蓋とて焦るばかりだ。
何がどうなるかも分からない時勢の折、孫堅には出来る限り早く落ち着いてもらいたい。
「……暴走って……?」
が訊ねると、黄蓋も困ったように顎を掻いた。
「わしも、よくは分からんのだがな。いつもは何も悩まずに、こう、こうと決めて居られるとする。それが突然、こうで良いのか、これで何故良いと思ったのか、お分かりにならなくなるようでな」
何となく分かった。
自分の信じる常識が、突然常識ではないと告げられたと仮定すればいい。
天動説を信じる者に、それは間違いだと告げる。
パニックに陥るだろう。
だとしても、日常生活は何も変わらない。朝になれば日は昇るし、夜になれば月が昇る。
なのに天は動いていないという。
ジレンマ、焦燥、様々な感情がささくれ立つことだろう。
孫堅の場合は、判断能力の鈍化と言う自分に直結する問題だから、尚更困惑は深くなるのだ。
ちょっとしたことで落ち込んで涙ぐんだ自分が、馬鹿らしく思えた。
そんな状態にあってを気遣い、だから傍に寄るなと忠告までしてくれた孫堅に、ひたすら申し訳なくなる。
「私が傍をうろついてたら、余計に酷くなりませんか……?」
もまた、自分ではどうしていいか分からない持病がある。
眠ったまま行動する夢遊病は、心に重荷があるからだと医師に診断を受けていた。
心の重荷を少しでも軽くすることこそが、の病の特効薬なのだ。
孫堅も同じ心の重荷が原因だと仮定するなら、が周りをうろついて悪戯に孫堅を刺激することは、却って孫堅の為にならなそうな気がした。
「いや、おぬしが傍に居った方が良い」
自棄に自信たっぷりに言い切る黄蓋に、は首を傾げる。
「でも」
言い募ろうとすると、黄蓋は仕方なしといった態で口を開いた。
「事の発端は、おぬしにある」
「は?」
何で自分だ。
の困惑は深い。
そも原因がだと言うなら(心当たりはないが)、尚更傍をうろついてはまずいのではないか。
「若殿が練兵から帰らぬのは何故か、考えてみたことはないのか」
「え……」
孫堅が何がしか絡んでいるとは聞いていた。
だが、その一件にが絡む要素が見当たらず、それでなし崩しに流していた。
「周泰が外に出されたのが何故か、気付かなんだか?」
「え?」
周泰の出立にまで、自分が絡んでいるなどとは思いも寄らない。
「え、周泰殿が……え、わ、私のせい?」
半ば放心するに、黄蓋は苦笑いを浮かべた。
「それだけとは言い難いが、周泰でなくてはならん理由は何もなかった。にも関わらず、即座に周泰に行かせると取り決められたのは、常の即決即断とは異なるとわしは見ている」
「だ、だったら」
それこそが刺激してはまずいのではないか。
黄蓋は深々と溜息を吐く。
「話には聞いていたが、おぬし、まったく救い難い程に鈍いのう」
それはどうもすいませんでした。
誰がそんなろくでもない話をしているかはさておき、言われたが面白くあろう筈もない。
ぶすくれるに、黄蓋は笑いながら詫びを述べた。
「すまん、すまん。しかしここまで話を聞いて、まだ分からんとは思わなんでな」
「……分かりませんよぅ」
情けない声を出すを促し、黄蓋は再び歩き出した。
足の裏がぴりぴりする。
寒い場所にずっと立っていたからだろう。思いがけず長い話になっていたのだ。
歩きながら考える。
孫策の練兵に周泰の出立。
これらがのせいだとするなら、理由が正当でないのだとしたなら、孫堅は何を思い何の為に二人を『外』に出したのか。
「……あ」
え、でも、まさかそんな。
仮定するにはあまりに露骨で、あまりに短絡過ぎる。納得し難い『解』に、は眉を寄せた。
あの孫堅が、嫉妬の為にの周りから男を排除した等と、まさか。
「ようやく分かったようだの」
「へ」
気が付けば、黄蓋が隣でほくそえんでいた。
が胸の内で出した『解』を、黄蓋が読み取れる筈はない。
だから黄蓋が想像している『解』が、の『解』と一致することもない筈なのだが、は何故か読み取られたのだと確信した。
「え、だって、でもですよ」
「だっても糞もないわい、でなければ、わしがおぬしに託す由もない」
託すとは大袈裟な。
の困惑は深い。
言葉一つで託される程には、軽くも安くもない男だ。
不意に黄蓋が足を止め、はまた何か話があるのかと同じく足を止める。
「……着いたが」
いつの間にか、の室の前まで辿り着いていた。
は慌てて礼を言い、中に入ろうとして立ち止まる。
「…………」
いぶかしげだった黄蓋の顔に、呆れたような苦笑が広がる。
「あ、う、す、すいません」
室の前まで送らせるなと、他ならぬ黄蓋の言葉を思い出して固まったを、黄蓋は容易く見抜いたのだった。
亀の甲より年の功と言う。
見抜かれた恥ずかしさからではなかったが、は黄蓋の頼みを引き受けることにした。