黄蓋に依頼を受けた翌日から三四日の間は訪問の先約があり、はそちらを優先させた。
 形振り構わず当たらねばならないことではなかったし、にもそれ相応の心積もりが要ったのだ。
 合間合間に孫堅の執務室の付近を歩くようにはしていたが、折り悪く偶然出会うことはなかった。
 孫策ほどではないにしろ、サボり癖のある君主である。
 君主としての業務もそこそこあったろうし、それでサボるとなれば、が辺りをうろついて出会える確率は低いと見なければなるまい。
 ほっとしたような、がっかりしたような複雑な心持ちだった。
 約定のない日に来て、は朝食を済ませた後、孫堅の室を訪ねた。
 珍しく居る衛兵が怪訝な顔をするのへ、訪問の依頼を記した竹簡を渡してもらうように頼む。
 自分の室へ戻ろうとすると、返事をいただいてくるからこの場で待つようにと言われてしまった。
 がおとなしく待っていると、残った衛兵が辺りをはばかりながらそっと話し掛けてきた。
「ご自分で持って来られたのですか? 衛兵や家人に命じられればよろしいのに」
「あ、でも、皆さん忙しそうですし」
 頭を掻くに、衛兵は不思議そうな顔をする。
 衛兵の疑問も然りだ。
 けれど、これは今に始まった話ではないから何とも言いようがない。他国に一人で来いと言うのも、それでうかうか一人で来てしまうのも、本来考えられない話だ。
 平社員の自覚が根強いは、言伝を頼むのに人を使うということがどうも出来ないでいる。
 電話という文明の利器の存在に慣れきったせいもあっただろう。連絡を取るのは自分で、と、つい足を運んでしまうのだ。
 呉の家人が漏らした、使い物にならぬと思われているようで歯痒い、という言葉は、自身にも当てはまることだった。気持ちは痛い程に分かる。
 ならばと思って、なるべく用事を頼むようにしようとは思うのだが、何処まで頼んでいいかの判断が未だに付かない。
 春花が居てくれたら、とも思うが、それこそないもの強請りだ。
「差し出がましいようですが、孫堅様にお願いして、直属の衛兵を用立てていただいたら如何でしょうか。ご面倒でしょう」
 衛兵の心遣いは有難いが、面倒だということを人に頼むのはどうにも気が引けるのだ。
 自分が衛兵だったら問題ないのだが、そんな心情を説明しても衛兵には伝わるものでもなかろう。が『自分は庶民で、貴方と何も変わらないのだ』と喚いたところで、相手に理解しろというのがそも酷な話だ。
 貴人は貴人であり、賤民は賤民に過ぎない。身分の高き者と低き者では絶対の差があり、『同じ人間』という意識はあっても、何処かで差異は生じてしまう。
 四民平等の現代であっても、例えば平時に何処かの大企業の社長に会うのと、新人バイトに会うのとでは、自然心構えが変わってくるというものだろう。仕方ないことなのだ。
 問題は、が自分は新人バイトだと思っているのに、周りの人間が大企業の社長として扱って寄越す、多大な感覚のズレだった。
 悩んでいる内に孫堅に竹簡を渡しに行った衛兵が戻り、は室内へと迎え入れられた。

 執務室に孫堅が腰掛けている。
 黄蓋に連れられてきた時と変わらないが、今度はすぐに顔を上げた。
 の顔を見るなり、吹き出す。
 何だ、おい。
 さすがに気に障ってむっとすると、孫堅は手にした竹簡を丸めてに差し出した。
「いちいち書いて寄越すのも面倒だろう、返しておく」
 再利用しろと言うことだろうか。
 それもおかしな話だと思って、孫堅を上目遣いに窺う。
 孫堅は、やや疲れたような翳りを浮かべていたが、に常の微笑を見せていた。
 演技でないとしたらだが、いつもの孫堅のような気がした。
「……用向きがあるなら、その用向きを書くのが筋だろう。違うか?」
 の書状には、『伺っていいか』の実に一点のみしか書いてない。
 それを増幅させ、引き伸ばして文章の態は為されているものの、何処まで行っても『伺っていいか』しか書いてなければ、確かに何事かと思うだろう。
 孫堅の言う通り、何度でもリサイクルの効く内容であった。
 も顔を赤くして恥じ入るが、こればかりは仕方がない。用向きなどないに等しいのだ。
 ご機嫌伺いとすれば一番しっくり来るのだが、まさかご機嫌伺いに行きますとそのまま書く訳にも行かない。自分が誘われるように、良いお茶が手に入ったとか庭の梅が見頃ですとか、そういう風に書ければ良いのだろうが、生憎そんな気の利いた理由は何もない。
 が困り果てていると、孫堅が微かに笑った。
「良い理由を教えてやろうか」
「……何でしょうか」
 後学の為にお伺いしますとしゃちほこばると、孫堅はからかうようにを手招いた。
 悩んだが、結局手招かれるままとことこと孫堅の傍らに歩み寄る。
 孫堅は、極自然にの腰に手を回し、自分の膝の上に抱え上げた。手馴れた、流れるような動作に、疑問すら消し飛んでしまいそうだ。
 とは言え、腰の下から温もりを感じた時点でやはり我に返る。
「この体勢でないと、話が出来ないんですかね……?」
「出来んな」
 あっさりと頷かれ、相当いつもの孫堅に戻っているような気がしてきた。
 近付くなとか何とか言っていた割にはこんな対応をしてくれるので、が離れていた三四日で元気になるようなことでもあったのかと首を捻る。
「嫌がらんのか」
 言われ、ではと降りようとしたところをがっちり捕捉される。
 どっちなのだと振り返れば、孫堅は苦笑いしていた。
「こんなところだけ予想通りの動きをするのだな、お前は」
 すいませんねぇ、読みやすい行動して。
 内心で悪態を吐き、孫堅の顔を見る。
「で、良い理由って何ですか」
「……ん?」
 妙な間を空けて誤魔化しに掛かる孫堅に、を傍に呼ぶ為だけの小理屈だったかと思われた。
 しょうのない人だ、と半ば諦めていると、孫堅はの肩口に顔を埋めた。
 その仕草があまりに疲れているように見えて、は手を回して孫堅の髪をそっと撫でた。
 手のひらに強い髪の感触があり、不思議と心地良い。
 撫でられている孫堅も、心地良さげに目を細めているようだった。
 猫みたいだな、と思った。
 よく懐いた猫が、落ち着いて丸まっているところを撫でられ、喉を鳴らしているように見える。
 孫堅は猫ではない。虎だ。
 その獰猛な牙を、蜀の文官としては身に染みて覚えておかなければならない。
 心の揺れが手のひらに伝わったものか、閉じていた孫堅の目がぱちりと音を立てて開いた。
 薄茶色の虹彩に、の顔が映っている。
 動揺しているな、と思った。
 孫堅の気配が、穏やかな柔らかいものから底知れぬ薄暗いものに変わる。
「……近付くなと、言っただろう?」
 何故、近付いてくる。
 淡々とした恫喝は、なまじ怒鳴られるよりも遥かに凄みを増す。
 は、孫堅の膝の上で硬直する体を持て余した。
 顔だけでも逸らせたらと思うのだが、まるで魅入られてしまったかのように目が離せない。
 恐怖に直面するかのようで、背筋を冷や汗が伝った。
「取引か?」
 孫堅の声も、何処か固い。
 口癖になりつつある問い掛けに、はこくりと頷いて見せた。
 孫堅が、何故か動揺して顔を強張らせた。
 本当にどうしてしまったんだろうと思う。
 嫉妬で政を動かすような男ではなかったと思うし、ないだろう。どちらかと言えばお祭好きな、孫策と相似通ったところがあるから、面白そうだからという理由で動くならまだしも分かる。
 元に戻って欲しかった。
「いつもの孫堅様に戻って下さい」
 取引を持ちかける言葉は、心の底から素直に吐露されたものだった。
 孫堅の目がわずかに揺れ、何事かを疑うようにの目を覗き込む。
 自身、自分が言った言葉が馬鹿馬鹿しく、無性に恥ずかしくなって目を逸らしてしまった。
「……まぁ」
 孫堅から視線を逸らしたものの、孫堅は未だじっとを見詰めているのが分かった。
 肌に刺さるような視線が、の肌をちくちくと刺激する。
「んなこと言われても困るとは、思うんですけど、ね」
 何気無く降りようとしたのを、孫堅の腕に戒められてしまう。
 ずれた腰を引き戻されて、口付けられた。
 何してんだろうなぁと思いつつ、嫌悪感がないのをそのままに受け入れる。
 差し出された舌に応えると、誘われるように引っ張り込まれた。
 孫堅の口蓋を探るように舌先を蠢かすと、悪戯を叱るように強く吸われた。
 じんと痺れる舌の感覚に、思わず唇を離す。
 心臓が昂ぶり、呼吸が乱れていた。
「淫乱め」
 的確にを詰る言葉を、しかし流すことが出来ずに言い返してしまう。
「悪ぅございました」
 嫌なら触るなと再び降りようとすると、孫堅は執務机の上にを押し倒した。
 熱の篭もった目に圧される。
「……取引ですか?」
「お前に支払えるものは、他にないのだろう?」
 揶揄され、は憤りのままに眉を吊り上げる。
「支払ったら、ちゃんと戻ってくれるんですよね?」
 念押しされ、孫堅の動きが止まる。
「……ちゃんと」
「分かった、分かった」
 盛大な溜息を吐いて椅子に掛け直した孫堅に、は乱れてしまった襟元を直しながら机の上から滑り降りた。
「随分、手馴れてきたな。お陰でつまらん」
「つまるつまらんは、私のせいじゃ、ありません」
 ろくでもないことを言うと、孫堅を睨め付ける。
 睨まれた孫堅は、軽く肩をすくめた。
「だいたい、外に衛兵の人が居るのに、よくこんなことしようと思えますよね」
 嫌味を言うと、孫堅はきょとんとしてを見上げた。
「……衛兵?」
 居ただろうかと言わんばかりの孫堅に、は深い溜息を吐いた。
「私の書状持ってきたの、誰だったか覚えてないんですか? その人に命じて、私を中に入れたんでしょう?」
 しかし、孫堅は未だ納得行かなげに眉を寄せている。
 常には置いていないものが、何故今日に限って居るのかも分からないようだ。
 の予想では、様子のおかしい孫堅を案じた黄蓋辺りが手配したのだと思う。
 だからこそ、あの衛兵は孫堅の応えを待たされていたに話し掛けるという『無礼』を働いたのだろう。親切心からくる純粋な助言だったとしても、本来の立場で言えば、衛兵から訪問客に話し掛けたりしてはいけない筈だった。
 臨時という軽い責任感が、あの衛兵の『無礼』を招いたのだ。
 とりあえず、今日のところは引き上げよう。
 潮時を感じて退室を願い出ると、孫堅は意外に簡単に引き下がった。
 立ち去り際、背後から声掛けられて足を留める。
「教えてやろう。顔が見たいと言っておけ」
 何の話だと訊ね掛け、『良い理由』の内容だと気が付いた。
「大概の男は、それで気を良くする。会うにしても、会わぬにしてもな」
 成程と得心したが、ならばこれはもう使えないなと何となく思った。
 二番煎じは好きではない。
「……使いたくなさそうだな」
 見抜かれ、頭を掻く。
 正直に、二番煎じが好きではない旨を打ち明け、詫びた。
「それに、孫堅様だって、私が言われた通りの書状書いて送ってきたら、面白くないでしょう」
 の言い分に、孫堅はしばらく考え込んだ。
「……そうだな」
「でしょう」
 はそのまま退室し、孫堅一人が残された。
 何処まで分かっているのだろうな、と一人ごち、黄蓋のお節介に鼻白む。
 以前は触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに遠巻きにしていたくせに、何故今回に限ってを送り付けて寄越すのか、分からなかった。
 一度は静まった苛立ちが再度湧き上がるのを、孫堅は深い溜息と共に認めざるを得なかった。
 望んで治められるものならば、こちらこそ取引を持ち掛けたいとさえ思う。
 晴れない霧に掴みかかるような虚しさが、孫堅を無闇に疲労させていた。

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