これで本当にいいのだろうか。
 黄蓋に命じられるまま行くには行ったが、果たして吉と出たのか凶と出たのかすら判断が付かないで居る。
 自室に向かい、悶々と過ごしていると誰かが尋ねてきた。
 夜更けのこの時間の訪問には、思わず肩が跳ね上がる。
 心臓がばくばくと落ち着かないのは、期待からではなく、むしろ恐怖の方に近かった。
 誰だろう、と恐る恐る扉に近付く。
 問い掛けると、涼やかな声が返ってきた。
「周公瑾だ。話がある、開けられよ」
 の動きが止まる。
 よもや周瑜までもが、と一瞬血の気が引いた。そんな筈はないという気持ちも何処かにある。
 戸惑っている間に、周瑜が焦れ始めた。
「どうした、何かまずいことでもあるのか」
 まずいと言えばまずい。
 思い悩みながらも、は大喬に書いているハウツー本(竹簡)の執筆に掛かっていた。悩んで手を止めていられる程、暇な訳でもない。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 この様子では色っぽい話でなどありそうもなかったので、慌ててつつも安堵して竹簡を隅に運び、周瑜の目に届かぬように物陰に広げる。墨が乾いていれば巻くことも出来るのだが、今まさに書き掛けとあってはそれも叶わない。
 立て続けに急かされて、動転するまま飛んで返る。
 閂を外すと、そこには果たして想像通り不機嫌そうな周瑜が立っていた。
「……まさか、良からぬことでも考えて居られたのではあるまいな」
 言葉には出さずとも、考えていましたと顔に出ているを見て、周瑜は深く溜息を吐いた。
「天地神明にかけて、そのようなことは有り得ない。考えるだけ、無駄と言うものだ」
 綺麗な顔をして何気無く失礼なことを言う。
 むっとするのも可笑しな話だが、周瑜の物言いには見過ごしようのない棘がある。が大なり小なり腹を立てても、仕方がないと言えた。
「……御用の向きは」
 さっさと帰ってもらうに越したことはないと見切りを付け、から話を進める。
 と、途端に周瑜は渋面を作り、口を閉ざしてしまった。
 言い難いことかと首を傾げるが、思い当たることはなかった。
「……申し訳ないが、座らせていただいても構わぬだろうか」
 周瑜の言葉に、二人で馬鹿のように立ち尽くしている現状に改めて気付き、慌てて椅子を勧める。
 やれやれと言った態で腰掛ける周瑜は、こう言っては何だが妙に爺むさかった。
 茶の仕度に腰を上げたを制し、周瑜は眉間に皺を浮かべながらも口を開いた。
「私の元に、何件か苦情が届いている」
「え」
 自分のことかと馬鹿なことを訊き掛けてしまった。
 に関することでなければ、周瑜がわざわざこんな時間に尋ねてくる筈もない。
「……どんな、苦情……なんでしょう……か……」
 聞きたくない気もしたが、聞かなければ話にならない。
 胃の辺りに苦いものが広がる感覚に苛まれながら、は渋々切り出した。
 周瑜の顔にも憂鬱な色が浮かんでいる。
 そも、周瑜はに対してそれ程好意的ではない。
 名ばかりの同盟と言っても過言ではない蜀の臣と向かい合わせているのだから、それは当然の話だったろう。
 潔癖な性質を持ち合わせており、また、が周瑜の大嫌いな諸葛亮配下である点、にも関わらず利用価値が微塵もなさそうな点を含め、周瑜がに愛想を振りまかなくてはならないような理由は何もない。
 にも関わらずの苦情が周瑜の元へと運び込まれるというのであれば、面白くないどころかえらく厄介だったろう。
 手間を掛けさせているという引け目が、を後押ししていた。
 の葛藤を酌んでか、周瑜は背筋を伸ばして椅子に座り直すと、まるで職務の際に部下に当たるようにきびきびと話を切り出す。そうでもしないとやっていられないのだと感じられた。
「一件は、商人からだ。孫権殿が、お前に言い包められ、無体な命を下されたと言ってな」
 商人、孫権と聞いて、ははっと顔を上げた。
 当帰の件に違いないと覚ったのだ。
「や、やっぱり、まずかったでしょうか」
 が当帰に来てもらいたいと願う理由は、ただ化粧や装束の選び方を学びたいという、それだけの話だ。
 誓って他意はないのだが、それでも駄目なものだろうか。
 正直なところ、心の底では『駄目かもしれない』とは感じていた。がどう言い繕おうと、当帰がやり手の商人であることに変わりはない。理由の如何に寄らず、城の中に入り込ませた時点で何がしかの商売の種を飢え付けて帰らぬとは考え難い。
 春花の時は、それこそ趙雲の屋敷の中であり、家人は総入れ替えに近い状態の上、春花自身も市場で働いていた幼い少女と言うこともあり何の問題もなかった。
 当帰とは、条件が違い過ぎる。
 それでも、が得たいと願う条件に当てはまるのは、当帰を置いて他にないのも現実だった。
「……まずい、まずくないで言えば、まずかろうな」
 周瑜の言葉に、はがっかりとして首を項垂れる。
 如何にもしょんぼりとした様に、周瑜は内心苛立ちを覚えていた。
 以前のような八つ当たりをする訳にも行かず、周瑜は苦言を丸ごと飲み込み、次の件に移ることにした。
「もう一件は、黄蓋殿からだ。お前に衛兵を付けろと、暗にご指示をいただいた」
 暗に、と言うのは、はっきりと『付けろ』と意見されたのではないからだった。
 不埒者も増えているようだ、隙の多い娘だから、やはり衛兵の一人も室に張り込ませた方が良いかもしれませぬなと、それとなく示唆された。
 何かあったのだろうと思うが、黄蓋にしても言って良いと判断を付けたのなら最初から口にしていようし、口にしてはならぬと踏んだからこそ言わなかったのだろう。
 なればこそ、言えと言っても言うまいと悟り、周瑜も敢えて訊ねなかった。
 だからといって、すっきり収まる筈もない。
 分からないながらもわざわざ確認しに来なくてはならず、その手間は周瑜の気を重くさせた。
「確かに今は、室に張り付くような配置はして居ない。そこで、お前の意見を聞きたい」
 どちらがいいと問うと、は困ったように俯いてしまう。
 兵の配置など、これまで関わりもなかったろうからこの対応は無理からぬことと言えた。
 しかし、周瑜は焦れる。
 察してくれたらいいと思いつつ、しかしが気付く気配はまるでなかった。
 苛立ちはただ募るばかりだ。
「衛兵を付ければ、お前が室に居る間はずっと、ということになる。それでも良いのかと訊いているのだ」
 周瑜にしてははっきりと言ったつもりなのだが、どれだけ鈍いのかは周瑜の本意を分かりかねているようだった。
「……無駄に負担が増えるのは、困りますよね……?」
 ずれた反応に、周瑜は眉を顰めた。
 負担云々で言えば、実質のところは変わらない。の室の前に立たせていないだけで、の室に通じる廊下の重要なところには、夜通しで兵を配置しているからだ。
 兵の間のみだろうが、何人かは誰某が何時頃にの室に向かっていった等の情報を掴んでいる筈だった。
 は知らないだろうが、が将達の『共有』となっていることは、最早公然の秘密と言っていい。
 それを許しているのは他ならぬなのだから、知られて居ないと思う方がおかしかった。
 だから、周瑜がに問いたいのは、の心情としては見えるところに人が居ていいのか悪いのかということなのだ。
 将が訪ねて来ればその遣り取りの一部始終を見られてしまうし、将が来て帰るまでの間、廊下で立ち続けている者が居て平気なのかどうか。
 正妻愛人と言う立場ならともかく、の立場ははなはだ危うく淫らなものだ。
 口にするのも屈辱で、それで言葉を濁しているというのには気付く様子もない。
 黄蓋の言う通り、室の前に衛兵を置くことは示威としては良いかもしれない。
 しかし、周瑜が恐れているのは、その衛兵自身が過ちを犯さないかと言う点をも含む。
 兵士達を疑う訳ではない。
 だが、周瑜はが『病持ち』だということを知っている。
 月明かりはただでさえ人の心を惑乱させる。
 その月明かりの時間にのみ発症するの病は、周瑜さえも絶望的に煽った。
 愛しい妻が居て、己を律するに厳しい周瑜でさえ、雄としての本能を昂ぶらせる。
 年若く血気盛んな兵達をに付けて大丈夫なのか、はなはだ心許ない。
 ただでさえ、複数の将達が代わる代わる(周瑜の感覚の上で、だが)室に立ち入っていくのだ。更に、親子の区別なく抱かれて平気な女なのだと知られるのは、時間の問題と言えた。
 その事実を知って、どれ程の男が耐えられるだろうか。
 誰に抱かれても良いのだと侮蔑できる女から、煽られるように虚ろな眼差しで見詰められる。
 一人が蹂躙すれば、我も我もと後に続くのが目に見えていた。
 結局、誰も近付けないのが一番の得策だと周瑜は結論付け、それで今の状態になっている。
 一から十まで説明するには、何とも恥さらしで情けない話だった。
 周瑜が『察して欲しい』と念じても無理はない。
 けれど、は未だ分からないといった態で周瑜を見ている。
「私、よく分からないんで……」
 実際言葉で証されて、周瑜の苦悩は深まる。
 周瑜のいいようにしてくれという言葉も、ただ周瑜を苛立たせるのみだ。
 言葉通りにしていいのなら、一切合財手を引きたいというのが本音だった。他人の色恋沙汰になど、まかり間違っても口出ししたくないしされたくもない。
 に関わる人々が、周瑜にとっても大切な関わりのある者達でなければ、周瑜はの周りに居たくないとさえ思っているのだ。
 勿論、自身に幾許かの非はあっても、だけが悪いのではないと理解はしているから、口に出して言えたものではない。
 日を追うにつれ、より厄介な立場へと駆け込んでいくに、周瑜はどうすればいいのか助言もしかねていた。
 良くしてやろうと思わぬでもない。
 当帰のこととて、凌統に気兼ねした訳でもないが、どうにかならぬものかと手を尽くしていた。
 半ば無理だろうと感じつつ、親しい商人と話を詰めてようやく目途が立とうかという時、孫権が唐突に出した命のせいで何もかもが台無しになった。
 負った不利を取り返せそうな算段はなく、この一件のみにおいても、周瑜は怒り狂う自身を宥めるのになかなかの苦労をした。
 孫権が、にいいところを見せてやろうと気張りたい気持ちも理解できたが、それで押し通すにはあまりにも相手が悪い。
 一言自分に言ってくれていたら、と、思い出すだけで口の中が苦くなる。
 渋い表情で不機嫌そうに黙り込む周瑜に、はどうにも手持ち無沙汰になって、やはり茶を淹れると言って立ち上がった。
 同席するにも心苦しい。
 どうも苦手だ、という心情だけが、二人に相通じるものだというのが皮肉だった。
 が席を立ったのを見遣り、周瑜は目の端に映ったものへと視線を転じる。
 床に、しかも押し遣られるように竹簡が落ちている。
 だらしのない、と周瑜は席を立った。
 衣擦れの音もさせない優雅な身のこなしが身上の周瑜であり、また、自身も幾らか凹んで注意力が散漫になっていた。
 が気付くと、周瑜は既に竹簡を拾い上げているところだった。
「!!」
 手が滑って勢い良く茶器を引っくり返し、湯の熱さに細い悲鳴を上げる。
 周瑜が驚き、すぐさまの元へと駆け付けた。
「何をしているのだ」
 湯で濡れた装束をの肌から引き剥がそうと手を伸ばす周瑜に対し、で周瑜の方へと手を伸ばしてくる。
 訳の分からないことをすると憤って叱り付ければ、は涙目になって尚も手を伸ばした。
 それが、手にした竹簡を取り上げようとしているのだと気付き、周瑜も視線をそちらへ向けた。
「だっ、駄目っ!」
 駄目と言われて注意を促されれば、無意識にも中身に目を通してしまうのが人の業というものだ。
 理解力の早さと常の速読が、この際周瑜に災いした。
 広げてあるのをそのままぶら下げていたものだから、わずか十数行の中身はほぼ一瞬で読み取られてしまう。
 裸になった男と女が口付けをしながら抱き合う描写に、周瑜はその身を硬く強張らせた。
「か、返して下さいぃー!」
 裏返った声が、の動揺の激しさを物語っている。
 しかし、そんなことにも気が付けない程の更なる動揺が、周瑜を襲っていた。
「……も、物語と称して、このような卑俗なものを尚香殿に送り付けていたのか!?」
「いや、それはだ」
 の口がぴたりと閉じる。
「何?」
「な、何でもないです、いいから返して下さい、別に密書とかじゃないんですから」
 も混乱しており、選んだ言葉が悪かったと言うより他ない。密書と聞いて、周瑜の怒りは頂点を極めてしまった。
「これは、預かる」
「ちょ」
 の顔がみるみる青褪め、最早口も聞けなくなったのか、無言で周瑜に掴み掛かる。
 それをいなし、周瑜はを軽く突いてよろけさせ、その隙にさっさと退出してしまった。
 後に残されたは、へなへなと床に座り込んだ。
 趙雲や馬超に見られた時もかなり絶望したが、これはその時の衝撃を更に上回る。
 泣きたくなってきて、本当に涙が滲んできたが、泣いたところでどうしようもないのが現実である。
 それと同じで、呆然として現実逃避していても、何にもならない。
 ともかく、まずはぴりぴり痛む肌と濡れてしまった服をどうにかしようと、は重い足を引き摺って奥へと向かった。

← 戻る ・ 進む→

Cut INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →