火傷をしたと申告すると、呂蒙は酷く不安げな顔をした。
が慌てて大したことはないと付け足しても、痕を見せろといって聞かなかった。
渋々、といった態で袖を捲くると、微かな痛みがぴりっと走る。
夜中出回るのもはばかられ、水差しの水で申し訳程度に冷やしただけだ。痛みが残ったとしても仕方がない。
ほんのりと朱に染まる肌は、体が温まってのものとは違い、何処か造形めいて見える。
恐らく、健常な皮膚との境に出来た線がそう見せるのだろう。
学術指南そっちのけでその線を見詰める呂蒙に、は落ち着かなさを感じていた。
「あの……そろそろ」
指南の再開を請うと、呂蒙は顔を上げた。
「何故、家人を呼ばれなかったのか」
むっつりと顰めた眉は、このまま流させはせぬと露骨に示していた。
は苦笑して、どう説明したものかと密かに悩んだ。
周瑜のことを言えば、が書いていたものの説明もしなければならなくなる。
そも、周瑜が尋ねてきたことを話していいのかどうかも分からなかった。
腹を割って話ができないのは心苦しかったが、それ以前に呂蒙が好意を寄せてくれていることを知ってしまっている。
呂蒙をなるべく傷付けたくはないという気持ちは、わがままには値しないだろうと思う。
その為にも、出来得る限り『好きになって良かった女』としてイメージを損なわずに居たかった。
呂蒙のみならず、自分の為にも。
がそんなことを考えていると知っているのかいないのか、呂蒙は無言での返事を待っている。
「えぇと」
夜遅かったから、と言い訳した途端、呂蒙の顔は益々苦いものに変わった。
「……俺が言うべきことではないのかもしれんが……度を越えた遠慮は気遣いでなく嫌味と取られかねん。家人とて誇りも矜持もあろう。彼らの誇りは呉の家人として職務を全うすること、まして面倒を見よと命じられた貴人たる貴女にそのように遠慮されるのでは、彼らとておちおち心安く眠っても居られぬだろう」
は頭を掻いて俯く。
どうしていいか分からない。と言うより、慣れないから頼めないだけの話だ。
夜遅かったのは事実だし、そんな時間に軽度の火傷ごときで大騒ぎするのは、如何にも大人気なく感じてしまう。
指を切ったと救急車を呼んだという笑えない笑い話を聞いたことがあるが、笑えないのはの中に根強く他人の世話になることへの抵抗があるからだ。
税金払ってりゃいいかという話である。
使わにゃ損だと居直るか、身の程を弁えて出来得る限り迷惑掛けずに生きるかと言ったら、は迷わず後者を選ぶ。
それではいけないということは、家人達からも直々に申し出られている。
どうしたものかと悩んでも、答えは出ない。
使う権限があってさえ使うことをしないの気質は、確かに頑なで、諸手を上げて歓待してくれる呉の人々には理解しがたいに違いない。
凌統が居てくれたら、と思う。
がしたいこと、やりたいことと呉の人々がしてやりたいこと、やってやりたいことを上手く調節してどちらにもいいようにしてくれるだろう。
趙雲然り、馬岱然り、諸葛亮然り、色恋沙汰抜きにしても、そういう『バランサー』として機能してくれる人がには必要なのかもしれない。
何にせよ、贅沢な悩みだ。
自分の身の回りの世話を焼いてもらうのにさえ、将軍様の手を借りねばならない。
小さく溜息を吐くと、呂蒙が頭を下げた。
「出過ぎたことを言ってしまったようだ」
勘違いだと即座に分かることだったので、も慌てて呂蒙に詫び返す。
「そうじゃなくて」
呂蒙に察しろと言うのは酷なのかもしれない。無骨を体現しているような男だから、の思考を読めと言われても読めないに決まっている。
仕方なく正直に説明すると、呂蒙は最初頓狂な表情を見せ、終いには声を殺して笑い出した。
「笑い事じゃありませんよう」
庶民に『ど』が付くには、人を顎でこき使うという行為が空恐ろしくて仕方ないのだ。
「……やはり、取次ぎが必要なのではないか。……間に立つ人間が」
凌統が、と言い掛けた呂蒙は、意識して間に立つ人間と言い直した。
性根の悪い、と思いつつ、しかし凌統の名前を出すのはどうしてもはばかられた。
今更言い直しも効かぬというのに、開き直りが出来ない呂蒙はいつまでもずるずると引き摺る。
鈍いと定評のあるですら気付く落ち込みように、今度はが微笑んだ。
「……何か」
「いえ、呂蒙殿も顔に出るなぁと思って」
慌てて姿勢を正した呂蒙に、も今度は声を上げて笑う。
「いや……俺も大概、気を付けているつもりなのだが……どうもいかん」
「いいんじゃないですか」
後ろめたさからごにょごにょと言い訳する呂蒙に、はからりと言い放った。
どういうことだと目を向けると、呂蒙との視線が音を立てるかのようにばっちりと合う。
逸らしたのは、呂蒙だけだった。は、ただ笑っている。
「私は、その方が嬉しいですけど。一人の臣である前に、一人の人間として付き合ってもらってるって言うのかな、そんな感じで」
よもや、一人の人間どうこうの話が出るとは思わない。
呂蒙が呆気に取られていると、は気にした様子もなく竹簡に目を落とし添え書きなどしている。
はぐらかされたような心持ちに陥って、呂蒙は訳もなく面白くなかった。
「腕、だけだったのだろうか」
え、とが振り返るのに合わせ、呂蒙は勢い付いたように身を乗り出した。
「火傷されたというのは、腕だけだったのだろうか。他は、問題なく?」
の顔色から腕だけではないと察しを付けた呂蒙は、見せろと言って更に身を乗り出す。
「あ、いや、でも大したことは……」
「本来、その場で手当てすれば、このように翌日まで持ち越すようなこともなかった怪我なのだろう。良いから、見せてみるといい。些細な怪我でも思わぬ支障を招くこともある」
「あの、でも」
妙にもじもじとするので、呂蒙も釣られて赤くなる。
ふと気が付けば、の手が庇うように腿の付け根近くに置かれている。
そこを火傷したのだとようやく理解した。それでは、呂蒙には見せられまい。
急激に頭に血が上って、呂蒙は手持ち無沙汰に窓の外を見遣る。
にも関わらず、白い脚にほんのりと赤く広がる染みのような火傷の跡が目に浮かび、呂蒙を酷く惑わせる。
想像でしかない筈なのに、妙に現実味を帯びた生々しい妄想だった。
振り切ろうとしても振り切れず、呂蒙は矢庭に立ち上がった。
「呂蒙殿?」
が困ったように呂蒙を見上げている。
当然だ。
だが、甘えていると思いつつ、呂蒙は察して欲しいと希った。
己を律し打ち込むべき学問の場で、ちらとでも淫らな妄想に駆られてしまった己の不甲斐なさに、呂蒙は眩暈を感じる程の失意を覚えていた。
しかし。
「……み、見ます?」
おずおずとした声音が呂蒙を煽る。
思わず勢い良く振り返れば、は申し訳なさそうに眉を八の字に下げていた。
「う、あの。別に呂蒙殿がどうこうでなくて、自分的に恥ずかしいなぁと……いや、自意識過剰だって言われたらその通りなんですけど」
どうやら誤解したらしいが、呂蒙にならって立ち上がると、もどかしい手付きで裾に手を遣る。
呂蒙が純粋な好意で申し出たのを邪推して、怒らせてしまったと取ったらしい。
どうにも笑えない誤解振りだが、一瞬でも見守ってしまった自分を叱咤しながら、呂蒙はの手を押さえた。
「否、否、そうではない。そうではなく……その、逆だ」
が目を丸くして呂蒙を見ている。
そろそろ分かってきたが、も鈍いが呂蒙も相応に鈍い。
察しが悪い者同士、醜態晒して暴露しなければ話が進まないことがあるのだ。
特に、こうした色恋沙汰に関しては顕著だった。
惚れた惚れられたと分かっている仲だけに、苛立たしいことこの上ない。
えぇい、と勢い付けて、呂蒙はに向き直った。
「その……俺は今、妄想、していたのだ……その、貴女の、脚の火傷の様を……け、決して、淫らな思いでないとは言い切れぬような……その、だからな」
尻切れになる言葉尻を、必死に奮い起こして説明しようと試みる。
「分かりました」
がそれを遮り、重い荷が下りたような心持ちの呂蒙が汗を拭っていると、も顔を赤くしていた。
どうにも不器用だ。
思いを通じ合った者同士であるならばともかく、こうもみっともない醜態を晒さねばならない互いの立場をいぶかしく思う。
それでいて厭わしいと感じないのが、何とも不思議なことであった。
自分だけであったら、と、ふと思い起こし、呂蒙は突然冷水を浴びせ掛けられたかのような錯覚を覚える。
には、己の存在が厭わしくあったら、このような遣り取りが気の重いことでしかなかったらと考えると、闇に似たどす黒く重い感情は、その存在を徐々に鮮烈に主張し始めた。
「あの」
はっとして我に返れば、何故かは不安そうに呂蒙を見ている。
「私、呂蒙殿の傍に居ても、その、大丈夫でしょうか」
頭を殴られたような衝撃があった。
理由は分からない。
「それは、どういう」
訳もなく、急き立てられるように問えば、は困ったように頭を掻いた。
「……いやあの。私、無神経だから……呂蒙殿の気に障ることしてないかと思って……」
しばらく思い悩むように口を噤んだは、ややもして再び口を開いた。
「こういう風に言うのも、何か言い訳して保身してるみたいで。何て言うか。ヤ。なんです」
苦いものを噛むように唇をすぼめるに、呂蒙はほろ苦く笑った。
「俺も、似たようなものだ」
が驚き呂蒙を見詰め、呂蒙は笑んだままを見詰めた。
「俺も、貴女に嫌がられるような真似をしては居らぬかと、よく不安になる。ならば口を閉ざしていればいいとも思うのだが、どうしても出過ぎたことを言ってしまう」
「イヤ、呂蒙殿が言ってくれることは、いつも正しいことばっかりですよ?」
追従口ではなかろうが、呂蒙には面映い言葉だった。
「しかし、時には貴女を困らせるようなことも言っているのだろう、俺は」
「いや……えぇと」
言葉を濁して考え込むに、呂蒙は笑みを深くした。
腹芸と言うものが出来ないひとなのだ。正しくは、呂蒙相手には出来ないと言うべきか。
少なくとも、呂蒙に対して嘘や世辞を言おうとしても言えないのだと、今の一言で分かった。
不思議と肩が軽くなる。
落ち着いた。
「本当に、脚の方は大丈夫なのだな?」
話を切り上げるつもりで、何の気なしに言った言葉だった。
竹簡に目を遣り、何処まで進めたか確認する呂蒙の視界の端に、白いものが映る。
が、裾を捲って脚を晒していた。
目を疑う。
妄想のままに、むしろそれ以上の白さを含む肌だった。
赤い染みが薄っすらと広がっている。
目を奪われる。
「……まぁ、こんな、感じです」
そそくさと脚を仕舞い込むに、呂蒙は眩暈を感じていた。
煽っていると分からぬのだろうか。
それとも、分かっていて煽っているのだろうか。
似たようなものだと思ったが、失礼ながら相手が一枚も二枚も上手だと思う。
良い意味で、ではなかった。
「……今日は、ここまでにしよう」
「え」
手荒く竹簡を巻く呂蒙に、はどういうことかと目で伺う。
呂蒙はその視線を避け、手早く卓の上を片しての手に荷物を載せた。
「これ以上一緒に居られると、俺が何を仕出かすか分からんのだ」
猛り狂う存在は、幸い鎧に隠されの目には触れられない。
だが、衝動と衝動を与えた対象に耐えながら学問の指南に当たるのは、洒落ではないが至難の業と言わざるを得なかった。
学問の場は神聖でなければならない。
呂蒙にとって学問は、冒すべからざる神域なのだ。
「す、すいません」
自分の失態に気が付いたが、顔を赤くしている。
「……謝るくらいなら、……否、いい」
軽口を叩こうとして、途中で止めた。軽口で済まない予感に襲われていた。
うろたえて動けないを見下ろし、呂蒙は一歩前に出た。
学術指南の場は先ほど済んだ。
今は、ここは、単なる俺の室だ。
言い訳しながら、初めて触れる柔らかなの唇にやはり、眩暈を覚えた。