キスをした。
それだけと言えばそれだけだ。今まで、言ってしまえばもっと凄いことをしてきている。
だが、呂蒙との初めての口付けは、に類稀な恍惚感を与えた。
時々、こういうことがある。
触れただけの感触が、セックスで得られる快楽を凌駕すると思える時がある。
相手が同じでも常ではないから、これは何か特殊な状況下で得られるものなのだろう。
恋の甘さ、とは、さすがに恥ずかしくて口に出せたものではなかった。
呂蒙もまた、が複数の相手と契りを結んでいることを知っている筈だ。
それなのに触れてこようとする意図は量りかねる。
他の男が触れているのに、と太史慈は言っていた。
ならば、呂蒙もその口で、問題なのはやはりの側にあるのかもしれない。
受け入れる者と受け入れられない者、そこに法則を作り、相手に納得させる。
張昭からの助言は、明瞭なようでいて曖昧だ。
法則を作ると一口に言っても、実際の内容を決めなくてはならないのはであり、納得してくれるかどうかは実際に試してみないと分からない。
自身、未だに何を以って受け入れるか否かの判別を付けているのか分かり難かった。
同じ相手でさえ、受け入れ難い時がある。
時と場所の影響が希薄であることは、今までの経験からも察するところだ。この二つが影響するなら、周泰との青姦なんかは以っての外ということになる。
途端に記憶が蘇り、は牀の上から起き出した。
甘やかな気持ちが焼け付くような羞恥に変わり、居た堪れなくなる。
周泰との関係を後悔している訳ではない。
ただ、もう少し何とか出来なかったのだろうかとは思う。
予想を遥かに上回る自分のお軽い貞操観に涙が出るが、実際こういう目に遭って、何処かで受け入れてしまっている自分が居るのは否定できない。もう少し真面目で頭の固い人間だと思っていたが、そうでもなかったようだ。
何にせよ、相手も納得できる法則云々に関しては、いま少しの熟考が必要不可欠だろう。
茶でも飲もうかと寝室を出ると、卓の上に広げた竹簡が目に入る。
大喬へのハウツー本、それでなければ尚香へのお話を書こうと準備はしたが、どうしても書けなくて放置してしまっている。
時間があるのなら遣ればいいものを、ついサボってしまうのはやはり昨夜の出来事が大きい。
――物語と称して、このような卑俗なものを。
竹簡に向かう度、周瑜の声が蘇って思考が纏まらなくなる。
卑俗と言われて返す言葉がない。
交合の遣り方を解説した話など、周瑜にとっては埒外のもので、目に入れるのも汚らわしいに違いない。
絵や陶器でそれらの行為を指し示す、あるいは初夜を迎えるにあたり母や姉、周りの女達に滔々と『ご教授』いただくのだと読んだことはある。
けれど、物語や書式として説明したものがあると聞いたことはなかった。
無論、艶本、またはそれに類するものがなかったとは思わない。
だが、この時代、娯楽としての読み物が成立していたかどうかに関しては、はなはだ怪しいと言わざるを得なかった。
現代で言うところの詩、その朗読が娯楽としての文学と見なされている節がある。
音楽も、質の云々はともかく未だバリエーションに乏しい頃だろう。の鼻歌如きが貴重扱いされるところからして、娯楽のレベルそのものが低いと見て間違いなかろう。
が貴人の扱いを受けられるのは、その恩恵と言うべきかもしれなかった。
有り難いことではある。
ただ、自身はその事実をどうしても受け入れられないで居た。
レベルが低いと言っても、二千年近く前の時代の話だ。比べるべくもない。
また、本当にレベルが低いのであれば、の歌自体も認められないに違いない。受け止める素地がなければ、受け止めようがないからだ。
昔の映画で、タイムマシンに乗った男の子がヘヴィメタだったかパンクだったか、とにかくアクションの大きいギターテクを披露して、周囲にどん引きされるというシーンがあった。『この時代じゃ、まだ早かったか』という男の子の台詞があって、は何となく印象的に記憶していた。
ああなっても、おかしくなかったのだ。
受け入れられる素地のある、文化度なり許容度なりがあって、初めての価値も生まれてくる。
周瑜の反応は、だから当然とも言えて、今まで何事もなかったのが逆に不思議に思えるくらいだ。
書くこと、書き続けることで反感を与えてしまう現実を理解した途端、の筆は止まってしまった。
スランプともまた違う気がする。
どちらかと言えば、書くことが怖くなったと言うべきかもしれない。
ひょっとしたらこの時代で初めての艶本となるかも知れず、恐らくは文語体しかないこの時代に口語体で書き記すの物語は、時代に恐るべき波を引き起こすかもしれなかった。
そこまで大袈裟でなくとも、少なくとも周瑜に顰蹙を買ったことに変わりはない。
大喬に相談するのもはばかられ、落ち込むくらいしか遣れることがない。
置かれた竹簡の滑らかな表面に、燭台の灯りがゆらゆらと映えていた。
いずれ、大喬から催促が来るに違いない。
その時、何と言って対応したものだか、今から気が重かった。
が溜息を吐いた途端、見計らったかのように戸口の向こうから声が掛かる。
声の主への心当たりに首を傾げながら、失礼のないように慌てて扉を開く。
思ったとおり、立って居たのは孫堅だった。
無言で中に滑り込むと、の手を除けて閂を掛けてしまう。
怯んだ。
気配からして、今の孫堅は『歓迎されざる』孫堅だった。
顔を上げた孫堅の表情が、強い。
思わず生唾を飲み込む程の威圧感だった。
ゆっくりと伸ばされる手に、体が勝手に後退る。
逃げようとするに気付いた瞬間、孫堅は狩人の本能を露出させた。
「う」
肩口を掴まれ、勢いで漏れた声は、痛みを堪えるような鈍い声だった。
孫堅の目が険しくを射抜き、は怯える自分を隠すことも出来ず、体は細かに震えていた。
目が合うが、絡むというにはあまりに一方的な視線がぶつかる。
瞑ることさえ許さぬ強い眼に、の眦から涙が滲んだ。
これが本来の関係だと思う。
彼らがもし本気でを殺そうと思えば、いとも容易くしてのけるだろう。
内心分かっていながら、軽口を叩き続けている。時には殴り掛かることさえあるのだから、お笑い草だ。
何故そんな真似が出来るのだろう。
「…………」
の手が肩を掴む孫堅の手に重なり、虎の眼に似た孫堅の視線がそちらへずれる。
剣を握る武人の手に、女の細い指が絡み付くのを見詰める。
まるで、木の幹に蔦草が絡んでいるようだ。
他愛もない連想を浮かべる孫堅の目から、徐々に殺気が薄まっていく。
「どうか、しましたか」
の声には、未だ怯えが残っている。
それでも、指は孫堅を宥めるように優しくその甲を撫でている。
わずかな温もりに穏やかな心地良さを感じ、代わりに体が重くなっていくのを孫堅は感じていた。
力が抜けたようにずり落ちた孫堅の手を、は驚いたように見詰め、転瞬孫堅の顔を見る。
酷く疲れた、一度に十も老け込んだかのような面持ちだった。
凶相に紛れて気が付かなかったのだが、ろくに眠ってないのか目の下に濃い隈が出来ていた。
とにかく座らせようと椅子を取りに向かう。
が、すぐさま孫堅の手に引き留められてしまった。
困惑して、だが椅子だけ持って来て座らせるよりはと思い返し、逆に孫堅の手を引く。
「座りましょう、ね、とにかく、座りましょう」
老人の介護をしているような気になる。
孫堅相手に不可解な話だ。年を取らぬと思っていた相手だけに、尚更だった。
何とか宥めて座らせたものの、孫堅は握った手を離そうとしない。その表情は、半ば眠っているのかと思わせるような気怠いものだった。
ただごとではない、とですら感じるような有様に、ただ気が焦る。
ひざまずき、孫堅の膝に手を置き顔を見詰める。
「孫堅様、どうしたんです? 何かありましたか?」
ゆっくり、語り掛けるように問うに、孫堅はのろのろと目を向けた。
「……か」
夢から醒め、目に映った最初の人に話し掛けるかのような言い草だった。
これは重症だ、と脂汗が滲む。
「どうしたんです、私に、何か御用でした?」
続けて問い掛けると、孫堅はぼんやりとの顔を見詰める。
「……お前が、顔を出さぬから……少し、気になってな」
少し。
少しって範囲じゃないだろう、これは。
得体の知れない病にでも掛かったのかと、は内心気が気でない。
しかし孫堅は、気にした様子もなく緩々と笑った。
「……今日は、どうした。てっきりまた顔を出すと思っていたのに、来ぬから気になって職務に手が付かなかったぞ」
お前のせいだと笑う。
段々いつもの孫堅に戻っていく様に、は不安こそ完全に打ち消せないまでも、何とはなしに安堵した。
「今日は、呂蒙殿に学術指南をしてもらいに行ってまして……疲れちゃいましたんで……」
毎日顔を出そうと思っていたのではなく、時間が空いていればと考えていた。いつもより早目に戻ったと言うものの、冬の日暮れはまだまだ早い。夜になってから出向くことは思慮に欠けようと、端から頭になかった。
もしかして、こんな時間まで待っていたのだとしたら悪いことをしたと、軽い気持ちで言い訳する。
「……疲れるようなことを、していたのか?」
皮膚が一気に総毛立つ。
またも凶暴な虎が目覚めた。
最早何を契機に現れるのか見当も付かず、とにかく宥めねばと矢継ぎ早に言葉を繋いだ。
「火傷、軽いもんですけど、してしまって、だから」
ぱっと袖を捲くって火傷の跡を見せる。
燭台の橙に染まる室内で、あんな薄い赤がちゃんと見えるものかは分からない。
けれど、そうせざるを得なかった。言い訳する術すべてを出し尽くしても、自分の身に何が起こるか分からない。形振り構う余裕はないのだ。
純然と、生命の危機を髣髴とさせる気配があった。
武人から放たれる殺気が、これ程濃ゆくて密なのだと、は知らずに生きてきた。
刃を向けられたことは何度かあったけれど、刃なしで向けられる孫堅の殺気の方がよっぽど恐ろしい気がする。
その差が何処にあるかは分からなかったが、分かったところで意味はなかろう。
孫堅は、差し出されたの腕を検分するかのように仔細に見詰めていた。
おもむろに手に取ると、口元へ近付けていく。
喰われる。
ぞっとして、反射的に手を引こうとするが叶わない。
ただ持っているだけに見えた孫堅の手には、想像を絶する力が篭められていた。
孫堅の口が開き、生温い息が肌に触れる。
ぞわっと鳥肌立つ表面に、てろりとぬる付くものが這った。
衝撃が襲う。
手首と肘の間を、孫堅の舌が蠢く。
それだけだ。性感帯という訳でもないそこを、舐められている。
にも関わらず、は自身が激しい興奮を覚えていることを覚った。
膝が細かに震え、足の間に渇と迸る飢えがある。
たぶん、抱かれたいと思っているのだろう。
たぶんと言うのは、自身は微塵もそんな風に思えないからだった。
体は孫堅を欲し、心は孫堅を拒絶している。
同じものの筈なのに、どうしてこうも真逆の反応をしてしまうのか。
一心にの腕を舐めていた孫堅が、ちらりとを見上げる。
虎の目だ。
体は滾り、心が冷えた。
孫堅の白い歯が剥き出しになる。
ゆっくりと、静かに皮膚に食い込んでくる。
失神するかと思った瞬間、扉ががんと打ち鳴らされた。
「孫堅様!!」
周瑜の声だった。
虎の目が、から扉へと移る。
怖い。
孫堅が椅子から立ち上がるのを、は恐怖に身動きできないまま、ひたすらに見詰めていた。