周瑜は一人執務室の奥に篭り、もう何度となく目を通し続けている竹簡に再び目を落とした。
 長い文章ではない。
 行にしてほんの十と少し、二十には満たない程度だ。
 しかし、その内容は過激極まる。
 檄文の類ではない。
 良からぬ企みが記してある訳でもない。
 ただ、男女の睦まじい姿が書き記されているだけだ。
 裸になった男と女が、互いに互いの背に腕を回し、口を吸う。息が上がり、頬は紅潮し、目は潤んで互いを見詰め合っている。
 そんな件が記してあるだけだった。
 周瑜も最初は、これは猥書に紛らわせた密書の類なのかと考えて何度も目を走らせた。
 諳んじられる程度には目を通し、出たのは『間違いなく猥書である』というどうしようもない結論だけだった。
 疲れ切って、何もやる気がしないまま、何故かまた竹簡を拾い上げている。
 流麗な文章とは言い難い。
 子供に話し掛けるような(実際こんな話をする筈はないのだが)語り口調で記してあり、時折訳の分からぬ印が混じる。
 よくよく読んでいると、それは誰かが何かを喋った、つまり『曰く』に値する印らしい。
 男と女が誰かは分からないが、女の方は自身なのだろうかとふと思う。
 途端、頬が焼けるように熱くなり、思わず竹簡を放り出してしまった。
 勢い余って卓から滑り落ち、床の上を跳ね上がって室の隅に飛ぶ。
 苛立ちを隠せぬまま、けれど放置しても置けず周瑜は席を立った。
「周瑜様!」
 心臓が跳ね上がる。
 振り返った弾みで卓を引っ繰り返しかけ、慌てて手で押さえた。
 はっとして、室の隅に転がる猥書を取りに走る。
 またも卓が大きくくらりと揺れ、周瑜を辟易とさせた。
「周瑜様!」
 扉の外で喚き散らす兵に、周瑜の苛立ちは募る。
 やっと卓を大人しくさせ、室の隅に転がった竹簡を行李の奥に仕舞い込むと、急ぎ扉へと向かう。
 衛兵が恐縮したように拱手の礼を取り、その脇の息せき切った兵士も衛兵に倣った。
 騒いでいたのは、この兵だったようだ。
「周瑜様」
 慌てふためく兵がの室の警備に当たらせていた者だと分かった瞬間、周瑜の柳眉が曇る。
「お、お耳を」
 急ぎ衛兵を下がらせ、兵を懐に呼び寄せる。
 周瑜の耳にひそひそと囁かれた報告は、周瑜を愕然とさせるに充分なものだった。

 緘口令を布き、自身は出来得る限り急ぎ、尚且つ身を潜めながらの室を目指す。
 都督たる周瑜が、顔色を変えて駆けているところをもし人に見られたら、噂にならない筈がない。
 組み合わせの最悪さを呪いながら、回り道をせざるを得ない自分の立場をも口汚く呪う。
 孫堅の様子がおかしいことは、薄々気付いていた。
 だが、それも自分を含めて精々数人がいいところだろう。それぐらい、微細な変化だったのだ。
 にも関わらず、の室に向かう孫堅の様子がおかしかったと報告が来た。
 闇に紛れるように立っていた哨戒の兵に、誰も通すなとだけ命じての室に向かったそうだ。
 孫堅から迸る殺気に当てられた兵は、危うく腰を抜かすところだった。
 怪しい者は通すなとは命令されていたが、相手は他ならぬ孫堅であり、常であれば問題なく通しただろう。
 しかし、この殺気の濃さ鋭さはただ事ではない。まさかとは思うが、無駄足を踏んだとしても周瑜に報告しなければ、と、慌て駆け出し押し掛けたのだという。
 単なる警備の兵ですらおかしいと感じる孫堅の異変に、周瑜は胸騒ぎを覚えていた。
 そこまで露にする訳がないと思っていた。孫堅は、下手に弱味を曝け出すような男ではない。
 けれど孫堅は露にした。
 己がおかしいと、隠すこともなく平らかに示しての室へと向かったのだ。
 まさか、と兵は言った。
 そのまさかが真にならぬと、誰が言えよう。
 孫策の慰めに専念させるべく、凌統から取り上げた責がある。
 の身の安全は、自分が誰よりも保障して遣らねばならない。
 だからこそ心を砕いてきたというのに、何故今あの孫堅がの元に向かってしまうのか。
 周瑜の白く整った歯は、無作に嫌な音を立てて軋んでいる。
 歯軋りしても気が静まるものではなく、周瑜の心は乱れ荒むばかりだった。
 ようやく辿り着いた周瑜に対し、扉は無情にも締め切られていた。
 がしたのではないと直感した瞬間、周瑜の背筋にぞっと寒気が走る。
「孫堅様!!」
 気付けば、叫んでいた。
「孫堅様、ここをお開け下さい、孫堅様!!」
 ぞくん。
 心臓に冷たい風が吹き抜けた。
 扉の向こうに、殺気が在る。
 周瑜をして怖気付かせる程の強烈な殺気に、孫堅の内に秘められた闇の深さを思い知らされるばかりだ。
 こと、と小さな音がして、次いで扉が重く鈍い音を立てながら開いていく。
 細い隙間から、闇に光る眼を見た気がした。
「周瑜」
 普段と同じ孫堅の声が、どうしてか別人の声に聞こえる。
「俺はお前の部下に、命じた筈だが」
「き、聞きました」
 即答できたのが奇跡のように思える。噛んでしまったが、それすら致し方ないと思えた。
 目の前に居る孫堅は、孫堅のようでいて孫堅ではない。
 人の形をした獣だ。
 月明かりが差し込み、孫堅の顔を照らしている。
 闇に沈んでいるのは周瑜の方の筈なのに、どうしてか孫堅の顔に黒い霧のような影が落ちて晴れない。
「周瑜」
「……はい」
 今度は努めて律し、噛まずに済んだ。
「連れて来い」
「……誰を、でしょう」
「俺が命令を与え、お前を寄越した兵士だ」
 周瑜の額に汗が浮く。
 春の気配が濃いとは言え、夜も更ければまだまだ寒い。
 だと言うのに周瑜は汗を流していた。
 冷たい汗だった。
「……どう、なさる、おつもりでしょうか」
「殺す」
 答えは非常に簡潔だった。
 簡潔故に、その内容の凄まじさを隠すものがない。
 心臓を鷲掴みにされ、しかし握り潰されることもなく手のひらで弄ばれているような錯覚を覚える。
「ざ、罪状がありません」
「在る」
 俺に逆らった。
 ある意味、見事と言うしかない歴とした罪状ではある。暴虐の名を被る君主に逆らったとなれば、確かにそれは死に値する罪となるのやも知れない。
 けれど孫堅は違う。
 あの兵がしたのは、上官たる周瑜に報告を届けただけのことだ。
 ここに来たのは、周瑜自身の判断によるものだ。行けと言われて来たのではない。
 兵には、何の罪科もない。
「ならば」
 扉の隙間から、禍々しく腕が伸びてくる。
 かわすことなど考えることも出来なかった。
 腕は、すっと周瑜の胸倉を掴み、当たり前のように引き摺り上げる。
「お前が死ぬか」
 死にたいか、周瑜。
 井戸の底から這い上がるような声だった。
 恐怖はなかった。
 頭の中が痺れたように麻痺して、感覚の何もかもが奪われていく。
 その昔、氷の張った池に落ちたことを思い出した。
 あの時と、良く似ている。
 絶対的な状況に置かれ、死を覚悟する一瞬の冷気が、今まさに周瑜を侵していた。
 どすん、と情けない音がし、目を開けた周瑜は見慣れない視界に戸惑う。
 引き摺り上げられていたのを手を離され、みっともなくも尻餅を着いての視界の変化だと気付き、周瑜は屈辱に顔を染める。
 見上げる角度の視界に、孫堅の腰に巻かれた虎皮を掴む小さな手が見えた。
 闇夜の月の如くに浮かび上がるその手が、のものだと分かるまでに数瞬を要する。
 気付き、周瑜が慌てて立ち上がると、の顔が見えた。
 醜態を見られたと青褪めるが、もまた余裕のない表情で一点を見詰めている。
 先程の自分と同じで極端に視界が狭まっているに違いないと気付くと同時に、助けて遣らねばならない女に助けられてしまったことにも気が付いた。
 孫堅の視線が、に注がれている。
 震え引き攣るの顔は、月明かりと言う点を除いても真っ青だった。
 孫堅の殺気は濃く煮詰められており、そこらの女であれば気絶してもおかしいとは思えない。現に、も視線を合わせることはできず、俯いて自分の手を見詰めている。
 今の状態で精一杯なのだ。
 助けて遣らねば。
 周瑜が踏み出そうとした時、孫堅の視線が周瑜を射抜いた。
「っ」
 息を飲む。
 眼前で、孫堅がの唇を喰らっている。
 否、口付けている。
 けれど、その口付けからは接吻という甘やかな響きは微塵も窺えず、喰らう貪るに相応しい一方的な搾取としか言いようがなかった。
 は渋い顔をしていたが、それは行為を嫌ってというより、恐怖の末に表情が歪んでしまったように感じられる。
 他者の介入を許さない厳然とした空気に、周瑜は踏み出そうとした体勢のまま固まった。
 柔らかい唇が切れ、赤い血が滲み出す。
 それすら啜り取るような孫堅の舌の動きに、周瑜は喉奥がひりつく様な渇きを覚えた。
 何が起こっている。
 動揺するだけで手が出せない己の不甲斐なさに、周瑜は腹が立つよりも泣きたくなってきた。
 やっと二人が離れ(孫堅がを解放し)、はふらつく足取りで廊下に出てきた。
 支えてやろうと無意識に差し出した手を、は逆に掴み取って周瑜を押し遣ってくる。
「かえって」
 舌が痺れているのか、その言葉はたどたどしく幼さすら感じさせた。
 そのせいで、周瑜は一瞬が何を言っているのか分からなかった。
 は、入らない力を無理に篭め、周瑜の体をぐいぐいと押し遣る。
「いいから、かえって……かえっ、て!」
 周瑜がよろけると、それで充分と取ったかは踵を返して室の中に戻る。
 扉に手を掛け、もたつく手付きで引っ張ると、無理矢理閉めてしまった。中から、閂を掛ける木片が擦れる音が微かに聞き取れる。
 いけにえ。
 そんな言葉が周瑜の脳裏を過る。
 は自らを犠牲に、周瑜を逃した。
 そんな風に思い付き、そんな風にしか思えなくなって、ただ愕然とする
 室の奥へと遠ざかる気配に、周瑜は絶望に似た虚無に襲われていた。
 しばし立ち尽くしていた周瑜だったが、やがて肩を落として扉の前から去った。
 その背を暗い翳りが覆い尽くしていたが、それを見届けた者は誰一人として居なかった。

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