虎に襲われたことがある。
には、あの時の虎と今の孫堅の姿が一寸もずれることなく重なっていた。
目の前で誰かが喰われるのを見届けるのと、自らが喰われることのどちらがより恐ろしいだろう。
すくんで足の動かないは、そんな埒もない考えに囚われる。
そしてふと気が付いた。
自分は恐らく、せいぜい犯されるのみで済む。
周瑜はそうはいかない。
喰われる、の種類が違う。
自分は死なない。
たぶん、だが、でも。
足を前に踏み出した自分を、褒めてやりたかった。
孫堅の腰に巻かれた虎皮を掴むのが精一杯という体たらくではあったけれど、少なくとも、孫堅は周瑜から手を離した。
目を逸らしていても神経が凍り付いてしまいそうな冷たい視線に、とても人間を相手にしているとは思えなくなる。
一国の主になる男とは、こうも不気味で恐ろしいものなのか。
その本性は、やはり虎なのかもしれない。
唐突に、掬われるように口付けを受けていた。
一方的で、しかし拒絶しようのない絶対的な口付けだった。
「……っ!」
鋭い痛みが、声にはならない悲鳴をに上げさせる。
ねっとりとした舌が、滲んできた錆び臭い血液を舐め取っていく。
しかし気付いた。
虎、じゃあ、ない。
虎といえば猫だろう。猫は、こんな滑らかな舌はしていないものだ。もっとざらざらで、やすりのような感触をしている筈だ。
これは、虎じゃない。
ならば、何だ。
――孫堅様。
吸い付くように蠢く舌の感触がを恐怖の頂上へと押し上げ、押し上げ切って、何故か冷静さを取り戻させる。
足はがくがくと頼りなく揺れていたけれど、頭の中は冷たく凝っていたけれど、の意識は恐怖に打ちのめされた肉体を抜け出して、静かに事の成り行きを見守っていた。
孫堅は、ただひたすら飢えたように口付けを続けている。
否、求めている。
何をそんなに欲しがっているのだろう。何でも持ってるくせに。
可笑しくなった。
周瑜が見ているな、と何となく分かる。
とにかく、周瑜を逃して遣らなくちゃいけないよね、との意識は笑っていた。
手間の掛かる子供に対し、それでも見捨てられない母親の苦笑に近い。
大層な理由ではなく、敬愛する君主と乳兄弟たる孫策の想い人(と決め付けている)のキスシーンは、真面目な周瑜には刺激が強過ぎるだろうというただそれだけの理由だった。
差し込まれた孫堅の舌に舌先で応えると、孫堅はぎょっとしたように身を引いた。
は周瑜の方へ顔を向けようとして、勢い余ってよろけ足を踏み出す。
周瑜が手を差し伸べているのが見えたが、鼻で笑ってしまう。
どうせ腹の底では軽蔑しているくせに、いつまでも紳士面する男だと思った。
だから諸葛亮に勝てなかったのだろう。短い生涯が待ち受けているのだとしたら、こんなところで無駄な時間を過ごすことはない。
「帰って」
鼓膜がうわんうわんと鳴っていて、自分の声さえろくに聞こえない。
ぽかんとしている周瑜の間抜け面が、それでも美麗に整っていることに無性に腹が立つ。
美人は得だな、畜生。
「いいから、帰って……帰っ、て!」
八つ当たり気味に押し遣ると、周瑜がわずかながらよろけた。
華麗な武勇を誇るだろう周瑜を押し退けられたことに満足し、は室に戻った。
手が滑ってなかなか扉が掴めないのを、周瑜を押した時に力を篭め過ぎたせいだと苛立つ。
周瑜はよろけた位置から未だ寸分も動いていない。
帰れ帰れと胸の内で吐き捨てながら扉をようやく閉め、ついでに閂を掛けてやった。
室内は暗闇に落ちたが、わずかな月明かりが最低限の視界を確保してくれている。
孫堅は、憑き物が落ちたようにぼんやりしている。
その手を取り、奥へと向かう。
馬鹿だなぁ、と思う。
何て馬鹿な人だろう。
伯符も相当馬鹿だと思っていたが、さすがは親だ。息子に負けず劣らずの馬鹿だ。
「誰が、馬鹿だ」
「……あ、私、口に出してました?」
孫堅が首を傾げる。
も真似して首を傾げる。
「……何と言った?」
「え」
孫堅はいぶかしくを見詰め、不意におずおずと指を伸ばして頬に触れてくる。
厚ぼったい男の手に包まれ、頬からぞくぞくとした感触が染み渡る。
間違いなく、前戯に似た快楽だった。
全身性感帯なんだろうか。
嫌な体だなぁ、と考え込むと、頬を撫でる手が両手に増えた。
「……すまなかった。怖い思いを、させてしまったな」
「別に、怖くは、あ、少しあったかもしれないけど」
が答えると、孫堅は眉を顰め、やはり何処かいぶかしそうだ。
何だろうと考えてはみるものの、理由に一向に心当たりがない。
いつもの孫堅とも違う、ただ優しいだけの孫堅だった。
尚香にはこんな感じなのだろうかと思うと、何だかうらやましい。孫堅の娘に生まれたかったな、と夢想した。
頬を撫でる孫堅の手を引き剥がし、牀まで孫堅を引っ張っていく。
孫堅がぎくりと体を強張らせるのが分かった。
は気にせず、ひとまず自分が牀に上がり、枕側に正座して座る。
腕を伸ばし、自分の前に当たる位置をてしてしと叩く。
孫堅は、気まずそうに逡巡していたが、が重ねて催促すると、渋々牀に上がってきた。
「腹を割って、話しましょう」
「……はらを、わって?」
困惑したような孫堅に、は首を傾げた。
「こっちじゃ、ない言葉なんですか? 隠し事なしで話しましょうってことなんですけど」
孫堅は困ったような顔をしたままだった。
隠し事なしで、という言葉の意味が分からないとも思えず、孫堅がこちらの手の内を読みかねているのかと思った。何にしても話はしなければならず、は一方的に話すことに決めた。
「孫堅様、私にいったい何させたいんです。私、もうご存知かもしれませんけど、結構鈍いからちゃんと言っていただかないと分からないこと、多いんですよ。ホントに。いっぱい。だから、もし孫堅様の病の件で……病じゃないのかもしれないですけど……何か私でお役に立てることがあれば、それこそ遠慮なく使っていただいて結構ですから。ね。毎日来いっていうことでしたら、遅くてもいいとかご飯時でもいいんでしたら、私、毎日通いますから。一応、ね、私も仕事があるから、同じ時間とかはなかなか難しいんですよ。上の人が居ないし、そしたら私がやらなきゃいかんことって意外と多いんですよ。そりゃ、うちの丞相は、別に何もせんでいいーみたいなこと言ってらしたんですけど、さすがにじゃあ三食昼寝付きでのんべんだらりって訳には行かないじゃないですか。それに、私が仕事しようったって、やれ茶だ何だってお誘い掛かるし、それに、ここの人達って妙に良くしてくれて、そのぅ、好意ですか、凄く、こっちが困っちゃうぐらい、そのー、好きだって、ね、びっくりしちゃうんですよ、私こんなにもてたことないし、うかうかしてると調子に乗っちゃいそうで……あれ」
何の話だったかと思い返した隙に、うんざり顔の孫堅がの口を押さえた。
喚こうとするのを遮り、『悪かった、悪かったから』と繰り返す。
悪いと思うならこの手を外せと言いたいのだが、孫堅の力はの全身全霊の力を篭めてもびくともしない程強い。
うーうー唸っていると、孫堅は深々と溜息を吐く。
「ご高説中、すまんとは思うがな、。何を言っているのかさっぱり分からん」
孫堅の指摘に、はむっと眉を吊り上げた。
何が分からないと言うのだ。難しいことなど何一つ言っていないではないか。
儒学者達の物言いの方が、余程回りくどくて難解だ。
納得できないの不服顔に、孫堅の溜息が増える。
「話がどうこうではない、お前の舌は、まともに回ってない」
へ、と、ここでようやく唸るのをやめたに、孫堅は申し訳なさを口の端に滲ませて笑う。
孫堅の耳には、の言葉がすべて酷い舌っ足らずに聞こえていた。
ゆっくりしゃべっていても、相当聞き取り難い。例えば『孫堅様』が『しょんへんはま』等と聞こえるといったような、到底理解し得ない発音なのだ。
それを早口でまくしたてられるものだから、孫堅ならずとも理解できる者は居らなかったろう。
だが、その難解さは、却って孫堅の頭を冷やすのに役立った。
「俺も、見境なく闘気を発してしまっていたようだ。戦知らずのお前が当てられたとしても、何も不思議はなかったな。今宵はもう休むといい。明日、何か詫びの品でも届けさせよう」
「いらない」
腕が勝手に伸びていた。
がっしりと孫堅の装束を掴んでいる。
「……いらぬ、と言ったのか?」
の声は未だきちんと聞こえていないらしかったが、構っている余裕はなかった。
こくこく頷き、孫堅の装束を握る手に力を篭める。
深呼吸を繰り返し、口を開いた。
「いつもの、孫堅様が、いい、です」
黙した孫堅に、は孫堅が聞き取れなかったのだろうかと今一度口を開いた。
「……何故だ」
が声を発する前に、孫堅が口を開いた。
「何故だ。何を仕出かすか、分からないからか? 分からなくて、恐ろしいからか?」
は数瞬悩んだ後、首を振った。
「ならば」
何故だ。
どうしてそんなことを知りたがるのか、理解し難い。
説明するにやぶさかでないが、今のの状態では、無駄に言葉を重ね続けても伝わることはないだろう。
悩んだ末、なるべく短い『答え』を導き出した。
「いつも、の、孫堅様、が、好き、です」
苦労しつつ言葉を綴るに、孫堅は目を丸くした。
ついで、体を捻って笑い出す。
それこそ、文字通り腹が捩れそうな勢いの笑いっぷりだった。
馬鹿にしているんだろうかと思いつつ、まともに喋ることも出来ない(らしい)今、怒鳴りつけることも出来ない。それが可笑しいと言って、更に爆笑されかねない。
孫堅がまともに呼吸できなくなって、ひーひーと苦しげに喉を震わせるまでずっと、は訳も分からず爆笑されることに耐え忍ばねばならなかった。
「そうか」
涼しげな声に、そっぽを見ていたは視線を戻す。
声そのものの涼やかな笑みを浮かべ、『孫堅』がそこに居た。
予想外で、心構えもなく直視してしまった透き通る鳶色に、頬が熱くなるのを押さえられなかった。
耳元に低い笑い声が囁くように吹き込まれ、は密かに『反則だ』と呪いの声を上げた。
「……そうか、いつもの俺に戻れば、お前のそんな顔も見られるのだな」
赤くなった頬に、孫堅が唇を寄せる。
軽く触れた柔らかな唇の感触と、てろりと舐め上げる舌の感触に身を強張らせる。
「そうか。努力しよう」
一人で勝手に納得したような孫堅に、は唇をへし曲げた。
それぐらいしか、意趣返し出来そうなことがなかった。
孫堅は軽やかに笑い、の手を引く。
首を傾げると、孫堅は気障ったらしく肩をすくめた。
「俺が出て行った後、誰が閂を掛けるのだ。帰らなくてもいいと言うのであれば遠慮なく、今宵は一睡たりとも眠らせてやらんぞ」
ろくでもないことを言う。
は、逆に孫堅の手を引いてずかずかと進み、押し出すように廊下へ追い遣った。
「明日の昼餉は、俺のところで取るといい」
扉を閉める寸前、孫堅は素早く口を挟む。
思い切り『いーっ』と歯を見せるに、孫堅は再び爆笑した。