翌日、訪れた孫堅の室には衛兵が居らなかった。
 おや、と思う。
 さておき、取次ぎを如何したら良いかと考える。衛兵がいればその人に頼めば良いのだが、居ないとあっては自ら声を張り上げるより他に手がない。
 ないのだが、昨日の今日と言うこともあって、何だか気が進まなかった。
 おざなりに頭など掻きつつ、乗らない気分を落ち着ける。
 深呼吸して、ふと、何と名乗ったものだか途方に暮れた。
 蜀のと名乗ることを、孫堅は軽口でとは言え嫌がっていた。
 事、孫堅の場合、軽口と侮れないのが困るのだ。
 何と名乗ろう。
 他愛のないことでも悩み出せば限がなく、これが朝だったら『お早うございます』とでも言えば当たり障りないように思えるのだが、『こんにちは』と言うとあまりに砕け過ぎてはいないかと心配になる。
 考えている内に思考はおかしな方向へ飛び火して、何故か『孫堅ちゃーん、遊びましょー』と呼び掛ける自分を想像して悶絶した。
 悩みに悩んだ挙句、ただ『孫堅様、です』と短く名乗りを上げるに留めた。
 の労苦を知ってか知らずか、孫堅の入室を許す声は平静そのものだった。
 頭を下げて扉を開け、また頭を下げる。
 扉を丁寧に閉め、孫堅に向き直ると、孫堅の脇にも誰かが立っていた。
 俯けた視線を徐々に上げると、太い円柱のような裾から更に丸く越えた腹が目に入る。
 ぱっと顔を上げれば、にこにこと笑う当帰の顔が飛び込んできた。
「お母さん」
 思わず駆け寄ると、当帰はの手を取って、一段と嬉しそうに笑う。
「違うんですよ、様」
「へ?」
 何が『違う』のか。
 は当帰と孫堅の顔を見比べた。
 孫堅も悪戯っぽく笑って、しかし黙って二人の様子を見ている。
「初めまして、様」
「は?」
 当帰が何を言っているのか分からない。
 初めましては、初めて会う相手に送るべき挨拶だろう。が当帰と会うのは無論これが初めてである筈がないから、初めましてと言われても意味が分からない。
「私、文無と申します。本日より、様のお世話を見させていただく者にございます。どうぞ、よろしくお引き立て下さいましね」
 済ました顔で頭を下げる当帰に、は未だ事情が読み込めずうろたえるばかりだ。
 さすがに哀れとでも思ったか、孫堅は笑いを堪えつつも種明かしをしてくれた。
「お前が望んでいた当帰と言う女、あれは新鋭の商人とかで、出入りしている古参の商人共には受けが悪い。代わりと言っては何だが、文無を雇い入れた。この女も忙しい身の上故、お前に付きっ切りと言う訳にもゆかぬのだが、聞くところに寄ればお前は少しばかり女の作法を学べればそれで良いと言っているらしいし、うちの家人もお前の面倒を見るにやぶさかではないと言っている。ならば、構わぬかと思ってな」
 つまり、『当帰』としての傍に置くことは出来なかったので、『文無』として雇い入れることにした、ということなのだろう。実際はどうあれ、名前が違うのだから別人として押し通すということらしい。
 強引なやり口に、は呆れるばかりだ。
 反対しているという商人達がこれで納得するとも思えなかったが、当帰ならぬ文無が自分の下に通えることになったことは素直に嬉しかった。
「い、いいんですか」
 恐る恐る訊ねるが、孫堅は微笑むばかりでうんともすんとも言おうとしない。
 は当帰、もとい文無と顔を見合わせる。
 満面の笑みを浮かべる文無に、の口元はヒクつき、遂には堪えきれずに顔を緩ませた。
「い、いいのかな」
 が顔を押さえて自問自答するように呟くと、文無はそんな迷いを吹き飛ばすかのように強い口調で言い放つ。
「よろしいに決まっておりますとも!」
 それで話はまとまった。
 は文無に飛びついて、軽く飛び跳ねる。
 嬉しくて仕方がないと、子供のようにはしゃぐの姿を、孫堅も文無も和やかに見詰める。
 はっと我に返ったが、顔を赤くして手を離すが、文無がその無作法を責めることもなかった。
「……こ、これからよろしくお願いします」
 深々と頭を下げるに、文無も頭を下げて答える。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
 照れ臭さから頬を染めるに、孫堅の物言いたげな視線が突き刺さる。
 振り返ると、意味深な笑みを浮かべてを見詰めていた。
「……えっと……有難うございます、孫堅様。お礼申し上げます」
「礼は態度で示してもらえればいい」
 何、その異文化コミュニケーション期待してる感じは。
 孫堅が何を強請っているのか大体のところが知れて、自然の腰が引ける。
「私、当帰……じゃなかった、文無さんとお話と言うか、これからの打ち合わせとか……」
 逃げようとするに対し、孫堅は爽やかな笑顔で退路を塞ぐ。
「食事の約束をしたろう」
 ひぃ。
 すっかりいつもの孫堅に戻ったような態度に、は別の意味で戦々恐々とする。
 孫堅のへの扱いは、餌から玩具に転じただけでしかない。いいようにいたぶることに変わりはないのだ。
「お母、と、文無さんをほっとく訳にも」
「使用人に気を使う必要はない。お前は、どうもそこのところを取り違えている節がある。一つ、俺がみっちり教えてやらねばなるまい」
 このああ言えばこう言う口振りは、間違いなくいつもの孫堅だった。
「当、文無、さん」
 最後の手段として文無に縋れば、文無はしれっとした笑顔で答えて寄越す。
「私、御家人にお願いして様のお室で待たせていただきます。どうぞお気遣いなく」
 最後の望みも絶たれ、絶句するを背中から羽交い絞めにする者が居る。
「文無、お前の食事も室まで届けさせよう」
「ご配慮、痛み入ります」
 二人で通じ合っている。
 嫌な連係プレイを目の当たりにし、は喜んでいいのか悲しんでいいのか分からぬまま、孫堅の腕にぶらんとぶら下げられて拉致連行された。

 量は控えめだが、出された皿は皆美味だった。
 ここ最近は騒動続きで食が細くなっていた。茶ばかり飲むからいけないと、お小言めいた指摘も受けたが、噛んで飲み込むだけの行為が異様に面倒だったから仕方がない。
 理由の一つは明らかに孫堅にあったから、が責めても文句を言われることではなかろう。
「何だ、思った以上に食べるな」
「……食べたら駄目なんですか」
 問題が一つ片付いた、と察したら、急に腹が空いてきたのだ。単純な作りの頭と体が、この際は有難かった。
 とは言え、勿論すべてが片付いた訳ではない。
 特に、周瑜との一件は頭が痛かった。事情を説明しようとすれば大喬に恥を掻かせることになるし、であれば放置しておくより他ないのだが、無視して続きを書こうとしても周瑜の顔を思い出して手が進まなくなる。
 切り崩す箇所が見当たらず、手が付けられない問題だった。
「どうした。気に障ったか」
 思っても居ないような口振りで話し掛けられ、は我に返る。
 箸の先にきくらげを摘んだまま、呆けていたようだ。
「あ、じゃなくて……おか、と、……文無さんのこと、ご存知だったんですか」
 先日、ご機嫌伺い兼ねて頼みに来ようとしたことはある。
 だが、途中で出会った孫権に覚られ、それしきことならと一方的に引き受けられてしまった。
 結局駄目になったらしく、周瑜からそのことを聞かされた時は酷くがっかりしたものだ。孫権が手を回して駄目ならもう駄目だろうと踏んでいただけに、当帰(文無)がお世話させていただきますと口上を述べた時は、驚きつつも小躍りしたい気分になった。
 それだけに、孫堅が当帰のことを知っていたのが不思議で堪らない。
「今朝早く、黄蓋が来てな。詳しいことは知らぬまでも、昨夜のことを嗅ぎ付けたらしく盛大に小言を食らった。その時に、周瑜にばかり面倒を掛けさせてという話になって、当帰、否、文無のことも聞き及んだ訳だ」
 思い出したのか、うんざり顔の孫堅に、はついうっかりと笑ってしまう。
「笑い事ではないぞ。黄蓋の小言ときたら、母親のそれかと思う程だ。お前も、一度叱られてみるといい」
 生憎、は黄蓋をそこまで怒らせるようなことはなかったし、これからするつもりはない。
 しかし、周瑜の口振りではかなりの反感を買っていたようだったが、その上で連れて来てしまって良かったのだろうか。
 やはり気になる。
 その点を孫堅に問うと、呆れたように返事が返る。
「何の為に名前を変えたか、考えてみるといい」
「いや、だから……そんなもんでいいんですか」
 名前を変えたとて、当帰は当帰であるのに違いあるまい。顔を知られていないと言うならともかく、それなりに繁盛している店を切り盛りしている当帰のことだ。それ相応に顔が知られているとみて、まず間違いはない。
「顔だ何だは関わりのないことだ。要するに、当帰という商売人が何の苦労もなく潜り込み、その上で美味い伝をのうのうと作ろうというのが気に入らないと、それだけの話だからな」
 あくまで当帰ではなく文無として押し通すのだから、商売なんぞしようがないと言う。
 しかし、それこそ楽観し過ぎなのではないか。
 当帰がその気になれば、実はこういう伝があります、と言って紹介すればいいだけの話だ。
 の懸念を、だが孫堅は軽く吹き飛ばす。
「あの女は街では相応に名が知れている。もしそんなことをして、偽名を使ったと知れるのは時間の問題だろう。何の為にと理由を付けて、皆の納得の行く説明が付けられる由はない。精々、お前を騙して潜り込んだと噂されるのが落ちだろう。今、この呉でそんな噂が立ってみろ。それこそ、商売が立ち行かなくなるぞ」
 誰がそんなことを噂するかとが呆れれば、孫堅はさらりと、商売敵の連中が喜び勇んで流そうと決め付けた。
 それもそうかもしれない。
 理由は如何あれ、かなり強引に雇い入れたのは事実だろう。
 孫権が駄目であれば孫堅が、と、それこそ最終手段を強行したのだ。些細なことでも、騒ぎたくてうずうずしている者は居るに違いない。
「お前もこれで、あの商人共と付き合わねばならなくなろうな。せっついてきているのも何人かは居るようだ」
 孫堅が横槍を入れたというのは名目上で、実質はの希望を酌んだ結果であるから、にもそれなりに対価を支払う義務が生じる。
 蜀は西域に程近く、それ故希少な品も手に入りやすい。商人にしてみれば、宝の山が眠っているといっても過言ではあるまい。
 如何にも手玉に取り易そうな女が居れば、取り込みたくなっても仕方なかろう。
 覚悟をしなければならなそうだと、今から気が重い。交渉の類は得意ではなかった。
 ふと、周瑜のことを思い出す。
「……あのぅ、周瑜殿は」
 矢面に立って苦情を受けていたと思しき周瑜だ。こんなにあっさり事を引っ繰り返されては、周瑜の面子が傷付かないだろうか。
「あれは、そういうことを気にするような男ではないからな」
「だったら、余計……」
 気の毒、と言う言葉をは飲み込んだ。
 に同情されるようではと、腹を立てられそうな気がしたのだ。
 昨夜は昨夜で、テンパった挙句周瑜に八つ当たりして追い出してしまった。
 あれはあれで良かったような気もするが(周瑜が居てもどうにもならなかったろうし)、それでも周瑜の面子を傷付けるのには充分だっただろう。
 立て続けに面子を傷付けられ、周瑜が平気で居られるとは考え難かった。
「……お前は、あの男を誤解しているな」
 意味ありげに笑う孫堅に、ただ周瑜を案じているつもりのは面白くない。
 むっと唇を尖らせるのを、孫堅は何事か含んだような視線で見詰める。
「お前は、ああいう男が好きだろう」
 唐突な問い掛けに、の息が詰まる。
 何を言い出すのかと目を剥くと、孫堅は不貞腐れたように肘を付いた。
「……次は、周瑜をどこぞに向かわせなければならんか」
「ちょ、待てこの放蕩君主っ!」
 思わず怒鳴りつけてしまい、泡を食って口を押さえる。
 覆水盆に返らず、言った言葉は取り消せず、は青褪めて孫堅を見遣った。
 孫堅は、幸い怒ってこそ居なかったが、黒い笑顔でを手招きする。
 口は災いの元と言うが、君主としての怒りを買わなかっただけマシとは言え、を待ち受けているのはある意味同盟破棄以上の苦難に違いない。
 あああ。
 苦悩の呻きは外に漏れることはなく、だったらさっきの言葉も上手く制して漏らしてくれなかったら良かったのにと、己の口を呪う。
 孫堅が手招きするのへ、は渋々重い腰を上げた。

← 戻る ・ 進む→

Cut INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →