貞操は守られたが、心に若干の傷を残しては孫堅の室を後にした。
 口付けられた際、きくらげの味がすると言われ、何となくダメージを負ったのである。
――きくらげにそんなはっきりした味があるってか、おお!?
 ずれた感想を抱きながら、しょぼしょぼと廊下を行く。
 俯けた視線の先に誰かの足があるのが見えて、はふっと顔を上げた。
 孫権だった。
「あ、どうも……えぇと」
 先程孫堅の室に入る時も思ったが、朝の挨拶たる『お早うございます』はさておき、昼夜の挨拶たる『こんにちは』『こんばんは』に幾許かの心安さを感じてしまう。
 『お早うございます』は、親しい間柄では『お早う』と略せるし、『ございます』の部分で丁寧さを感じ取れるように思う。
 しかし、『こんにちは』『こんばんは』に至ってはそうではない。『こんにちはでございます』という挨拶では却ってふざけているようにしか感じられないし、ではどういった挨拶なら丁寧さを醸せるだろうかと悩む。
 が訳の分からない苦悩をしていると見抜いてではなかろうが、孫権は渋い顔をしていた。
「来い」
 いきなりむんずと手首を掴まれ、引き寄せられる。
 抱き留めるでなく歩き出した孫権に、は目を白黒とさせた。
 何とかぎりぎりで転ばずに済んだものの、体勢は崩れたままでいつ転んでもおかしくない。
 コケる。
 ついにバランスを崩したは、突然足を止めた孫権にぶつかる形で難を逃れた。
 打ち付けた鼻は痛かったが、廊下の固い板にぶつけるよりはマシだろう。
 手で押さえながら顔を上げると、孫権の前には周瑜が立っていた。
「……周兄、御用がなければそこをお通し願います」
 孫権の声がわずかに殺気立っており、は密かに驚いていた。
 尊敬する周瑜に対し、孫権が礼儀を弁えず苛立ちを露骨にするなど、初めて見た気がする。
「君には、ない。……殿、室で文無が待ち侘びていよう。早く行ってやるといい」
 途端、の手首を戒める孫権の手に力が篭もる。
 痛みは一瞬で消えたが、孫権の指が微妙にひしゃげているように思えた。
 その形は、何か耐え難い嵐が孫権を襲っているようにも見える。
 はそっと孫権の手を押さえた。
「……後程、伺います」
 その言葉を聞いて、孫権の手から力が抜け、だらりと下がる。
 痛々しい。
 何故かそう思った。
「後程、必ず……どちらに伺えば」
「いい」
 孫権は憮然とした表情で言い捨て、そのまま立ち去っていった。
 子供が膨れるならば宥めようもあるが、孫権は立派に成人した男性である。まして、何に腹を立てているかも分からないでは慰めようもない。
「後で、行きますから」
 の声が届いたのか届かないのか、孫権は返事一つすることなく廊下の角を曲がって消えた。
 戸惑うに、周瑜の探るような視線が刺さる。
 振り仰げば、周瑜は気まずげに顔を逸らした。
「あ……えっと、昨夜は、その……失礼しました」
「よしてくれ」
 が頭を下げようとすると、周瑜は眉を顰めた。
 こちらの『腹を立てている理由』に関しては、胃が痛くなる程心当たりがあった。
 は苦い笑顔を浮かべるしかない。
 会話が途切れ、不自然な空気が流れる。
「……じゃ、ワタクシこれにて失礼をば」
 背を丸めてこそこそ立ち去るを、周瑜はただ横目で見遣るのみだった。
 いつもならここぞとばかりに鋭い嫌味が飛びそうなものを、それさえなくては居心地悪さに眉間に皺を寄せた。
 それ程嫌われてしまっただろうか。
 嫌われてもしょうがないなとは思う。何せ、突き飛ばして追い出したのだ。礼儀もクソもない。
 がそっと後ろを振り返ると、周瑜は未だを見ていた。
 うわ。
 角を曲がった直後、小走りに駆け出す。
 周瑜の視線が何だか無性におっかなくて、駆け出さずにはおられなかったのだ。
 どたばたと廊下を駆けて行くの足音を聞きながら、周瑜は悩ましく溜息を吐いた。

 室に飛び込んできたを、当帰が出迎えてくれた。
「まぁまぁ、何だね。そんなはしたなく廊下を駆けちゃ、蜀の文官様の名折れだよ」
 言葉は厳しいが、その顔は優しく微笑んでいる。
 ふへへ、と気の抜けた笑みで応えると、当帰はしょうのない、と言うように溜息を吐いて見せた。
「……さぁさ、早速取り掛かるとしようかね。と、その前に。あたしは、これからあんたに対して、口の聞き方を改めることにするからね。それは、前以って承知しておいておくれ。いいね」
 どういうことかと目で伺うに、当帰は苦笑いを浮かべる。
「いいかい、あんたは蜀の文官様だ。このお屋敷にいる間は、誰が何てったってそうなんだ。その文官様に、こんな偉そうな口を叩いている女がいたら、あんたの立場もまずくなる。さすがにそれは、分かるだろう?」
 分かるような気もしたが、分かりたくない気もした。
 が家人に雇うなら当帰をと望んだのは、自分を上に置かない気安い親しさ故だった。当帰の扱いは、乱雑に見えて実はそうでない。細やかな愛情に満ちて、が下手な気兼ねをせずに済むようわざとさばさば扱ってくれている。
 それを封じられてしまっては、が望むものに足りなくなるような気がしてしまうのだ。
 当帰はにっこりと笑い、の気落ちを吹っ飛ばすかのように力強く肩を叩いた。
「心配しなさんな、『当帰』はちゃあんとあんたのおっ母さんだ。だけど、『文無』はあんたの頼もしい味方で居たいのさ。あんたに負担を掛けてしまうような、そんな情けない、足を引っ張るような無作法者にゃなりたくない。だって、ここではあんたは『当帰』の可愛い娘じゃなくて、噂の歌姫、臥龍の珠様なんだからね!」
 親子の契りを交わしたのは、あくまでごっこ遊びの延長に過ぎない。
 本当に親子になったのならともかく、はあくまで蜀の文官で、当帰は呉の商人に他ならなかった。それが、自分達が良いからと言って明け透けに気安い仲を披露して、他の者からどんな目で見られるかは定かでない。
 だが、快くは思われぬであろうことだけは、明々白々としていた。
 当帰が言葉遣いを改めるのは、人目を慮りの不利を招かぬように気遣ってのことで、決してとの仲に溝を生じようとしてのことではない。
 懇々と説き伏せられ、は不承不承ながら当帰の懇願を受け入れた。
「でも、街に降りたら、いつも通りにしてもいい? ですか?」
 当帰は満面の笑みで、勿論と請け負ってくれた。
「ああ、でも、『ですか』だの『ますね』だの、そんな言葉遣いはしちゃいけない。街でもここでもね。街ではあたしはあんたのおっ母さんだし、ここではあんたの下女になるんだから、そこら辺はきちんとしておかなきゃいけない」
「でも」
 当帰は元より、他の誰に対してもは敬語を使っていた。それこそ、明らかに年下と分かる家人の娘や下男にもそれで通してきている。
 今更、という気がした。
「何を言ってるんだい、それこそ先方にはえらい迷惑さ。さっき、食事を運びに来てくれた家人の方、あれはきっと家人の取りまとめをしていなさる方だね。そんな方があたしなんかの食事を運んでくるなんて、おかしいとは思ったのさ。そしたら案の定、相手様はあたしがいったい何者だろうと探りに来たって、そういう訳さ」
 これまで、幾ら勧めても家人を雇おうとしなかっただのに、突然何処の馬の骨とも知れぬ女が家人として雇われた。しかも、孫堅の肝いりだと言う。
 面倒を見させて下さいと訳のわからぬ懇願までしていた家人の頭としては、先触れもないこの雇用に甚だ納得がいかない。
 そこで、家人の総まとめ役として直々に乗り込んできたものらしい。当帰はそこの辺りの心情を素早く汲み取って、さり気なさを装い話を振った。
 自分は、内々の家人として雇われはしたけれど、仕事の方は専ら中原の流行を知らぬという様のご指南役で、見れば本当の家人は一人も居ない。事情が計りかねて酷く心細いのだが、何かご存知でしたら教えていただけませんか……といった具合だ。
「嘘じゃないスか」
「方便とお言い。ともかく、そうして話を弾ませて、ちょいと突付いたら結構な愚痴を頂戴したよ」
 愚痴と聞き及び、の表情が曇る。
「そんな嫌なこと、してたかなぁ……」
「逆だね。何もさせてもらえない、身分も下の小娘にまで丁寧な口を聞くもんだから付け上がってしょうがない、気を配って下さるにしてももう少しやり方ってのがあるだろう、とさ」
 最近はそれなり頼むようにしていたつもりだが、それでも未だ全然足りなかったらしい。
 にはどうしていいか想像も付かず、困惑して頬を掻いた。
「ねえ、あんた。あんたが戸惑うのも分かる、正直、そこまで大事にしてやるこたぁないって、あたしでも思うもの。でもね、あの御家人さんの仰ることももっともなんだよ」
 は、ただの他国の文官ではない。この呉を束ねる、孫家一族に愛され慈しまれている女なのだ。
 その一点のみで、の扱いはただの文官から寵姫のそれへと変化する。
 変化させなければ、家人の首が危ういのだ。
 大袈裟だと喚きたくなる。
 は、未だ誰も選んでいない。選んで居ないのだから、孫家の存在を楯に文句付けられても心外と言うより他ない。
「大袈裟でも心外でもないんだよ、馬鹿だね」
「馬鹿ですもん。ああ、ほっとする」
 馬鹿と言われて安心する日が来ようとは思わなかった。
 心底安堵するに、当帰は盛大に呆れてみせる。
「孫家の御歴々はそんなおつもりじゃないのかもしれないし、家人の方も一度はあんたの心安いようにしてやろうかと考えたそうだよ。でも、この呉に居るのは何も孫家の御歴々だけって訳じゃない。御家臣やら儒学者の先生やら、それこそあんたって子を知らない連中がわんさかいる。そんな連中が、訳も知らないで御家人に無礼だの失礼だの、もっと面倒見てやれだのしゃしゃり口叩いて来るんだ。堪ったもんじゃなかろうよ」
 それは確かに堪らない。
「……でも、ホントに今更じゃないかと思うんだけど」
 急に態度を変えたら、それこそ御家人の不満が爆発しないだろうか。
「あたしが居るじゃないか。そこら辺はあたしが何とかしてあげる。だから、あんたは一先ずその心構えをしておくことだ……おっと、ここからは、ホントのホントに『当帰』じゃなくて『文無』になるからね。いいかい、あんたもしっかりそのつもりで、うっかり名前を言い間違えたりなんてしないようにね」
 突然声を潜める当帰に、は訳も分からず頷いた。
 廊下の方から声が掛かる。
「はい、ただ今」
 作り声で応じる『文無』に、は微妙な心持ちだ。
 文無が扉を開け応対すると、すぐにどやどやと家人達が入って来る。
 湯の用意をすっかり整えると、にのみ頭を下げて立ち去って行った。
「おフロ……じゃない、湯浴みには、ちょっと早くないですかね?」
「家人に対してそのような口の聞き方をなすっちゃいけませんよ、様」
 宣言通り『文無』と化した当帰は、きびきびとした口調のみそのままに、家人として振舞い始めた。
 何となくつまらないような、寂しい心持ちになったが、これも『当帰』がを案じてのことだから仕方ない。
「……早く、ない、かしら?」
 ぎこちない言葉遣いに、しかし文無はとりあえずの及第点を与えたようで、こっくりと頷いた。
「私の仕事は、様の身の回りのお世話と言うよりは、この中原の女として綺麗に磨いて差し上げることですからね。さしあたり、お体そのものを磨いて差し上げるところから始めようと、こういうことですよ」
 なるほど。
 が納得したところで、文無はの裾を大きく絡げさせた。
 椅子を持って来て座らせると、湯に浸して絞り上げた手巾で丁寧に足を拭っていく。
 次いで、何やら鼻に付く匂いの瓶を取り出し、中身をの足にぺたぺたと塗り付けていく。
「白い足。これは、一生ものの宝になろうから、日に焼かないよう大切になさいましね」
 うっとりとした声音で囁かれるが、にとってはただ生っ白いだけのなまくらな足だ。
 それに、赤と緑を混ぜたような色の絵の具状のものが塗りたくられていく。
 ちょっとした前衛芸術みたいだと呑気に構えていたが、その上から布を包帯のようにぐるぐる巻きにされた辺りから話が変わってきた。
「……何か、むずむずする」
「取っちゃいけませんよ」
 文無が鋭く叱責するが、むず痒さに加えて熱くなってきて、は徐々に脂汗を流し始める。
「な、何か、滲みますっ!」
 遂には痛みまでともなってきた。質の悪いパーマ液が、頭皮を焼くような痛みだった。
 しかし、文無は取り合わない。
「我慢なすって下さい」
 そのまま悶絶することしばらく、文無が頃合を見て布を外す。
 絵の具のような粘液を拭っていくと、赤みを帯びた肌が現れ、そこに生えていた筈の無駄毛は綺麗さっぱり取り除かれていた。
 こんな時代に脱毛剤があろうとは思わなかった。
 そのまま湯桶で足を洗っていると、また文無が手招きする。
 今度は、その丸まっちい指に何かを挟み込んでいた。
「はい、足を広げて、おまんを私に見せて下さいな」
 おまん?
 が首を傾げると、文無はを椅子に腰掛けさせ、その手でがぱっと足を開かせる。
「はい、そのまんま」
「……ちょっ……」
 そのまんまと言われても、先に下着も外しているから秘部も露に全開にしている状態だ。
 さすがにこれはないだろうと思って足を閉じようとすると、文無は素早くの足を引っぱたく。
「危ない、間違って切っちまったらどうします!」
 へ、とが文無の手元をよくよく見ると、文無が握っているのは小振りのはさみだった。現代で言うところの、糸切りバサミだ。
「……え?」
「はい、いいから、じっとしていて下さいよ。こんなとこ怪我したら、泣くのは様でなくて殿方の方なんですからね」
 泣かしときゃいいんじゃなかろうか。
 冷たいはさみが敏感な部分に触れ、はぴくりと身を震わせた。
 文無は無言で、しゃきりしゃきりと音を立たせながらの恥毛を切り取っていく。
 何されてんだろう。
 情けなさから涙が浮くが、文無は至極真面目な顔をして除毛作業に勤しんでいる。
 しゃきり、しゃきり。
 無言の室内に、はさみの立てる小気味いい音だけが響いていた。

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