孫権が目覚めて、最初に感じたのが異様な酒臭さだった。
 呑んで、そのまま寝床に酒を持ち込んだ挙句零したのだろう。
 そうしたことは、実は初めてではない。
 父や兄の手前、早々何度も仕出かす『悪さ』ではないが、何がしかで腹を立てるとそんな無作法をやってしまう。
 悪癖だと自分でも分かっているのだが、酔うとどうにも止められない。
 寝なくてはならないと思えばこそ、寝床に酒を運び込む。
 いい心掛けとは言い難いが、平穏の常としての行動が身に染みてしまっている。
 椅子で寝てしまうよりはマシだと思うが、牀が酒浸しになるので家人、特に女官からは煙たがられているようだ。
 いつでも上機嫌とは行くまい。
 乱世の王の如く、戯れで人を斬るよりは良かろうなどと嘯きつつ、閉じてくっついていた瞼をぱちりとこじ開ける。
 酒に塗れた寝床にしては随分と温かい、それに柔らかいと目を擦ると、腕の中に抱えていた何かがもぞりと蠢いた。
 何だと手を退ければ、そこに居たのはだった。
 しかも、裸だ。
 ぎょっとして、慌てて飛び退ればも起き上がる。
 機嫌が良くないのは一目瞭然だった。
 乱れた髪を手櫛で押さえつつ、床に散らばる装束を拾い上げては身に纏う。
「……
 恐る恐る声を掛けるが、聞こえないのか振り向きもしない。

 腹に力を篭め、心掛けて幾らか大きな声を上げる。
 振り向かない。
 徐々に腹立たしくなって、怒鳴りつけるように声を荒げる。
、聞こえんのか!」
 それでも、やはり振り向かない。
 帯紐をきゅっと締め、それから漸う振り向いた。
 酷く冷たい顔をしている。
 寝起きと言うこともあろうが、据わった眼は半分閉じて、酷く険悪な色を浮かべていた。
「……その」
 どうしてここにが居るのか、孫権には思い当たる節がない。
 酔いが記憶のほとんどを白く塗り潰してしまっていた。
「な、何か、してしまった……ようだ、な?」
 恐る恐る、確認するように問うと、はふいっと目を逸らした。
 確実に何かしてしまったらしい。
 何をしたのか思い出そうと眉を寄せるが、酒が塗りたくった白は容易に落ちはしなかった。
 孫権が躍起になって昨夜の記憶を取り戻そうとしている様を、はちらりと見遣った。
「帰ります」
「……
「お邪魔しました」
 つれなく出て行くを追おうとするが、孫権は自分が未だに着乱れた夜着のままで居ることに気が付いた。
 寝起きなのだから当たり前だが、これではを追えもしない。
「…………」
 酒臭い寝床で、孫権は己の失態を実感することも出来ず、呆然と座り込んでいた。

 は自室に戻ると、廊下に下げた木札に『本日休業』と書き記し、用意されてあった鉄瓶の湯と水差しの水で体を清めた。
 拭った程度では酒の匂いは取れなかったが、思い付きで持ち合わせの香油を擦り込み、紛らわせる。
 脱ぎ捨てた装束もそのままに、不貞寝を決め込み牀に上がった。
 頭から上掛けを被ると、堪えていた涙がどっと溢れる。
 いつものことだと思おうとするのだが、とにかく悔しくて腹が立つ。
 何に対してかすら定かでない黒い感情を持て余し、はひんひんと鼻を啜りながら泣き続ける。
 泣いて泣いて、涙で顔がベタベタしだした頃、ようやくの涙は止まった。
 すんすんと鼻を鳴らしながら上掛けから顔を覗かせると、手巾を濡らして顔を拭く。
 ひりつく肌の感触に、思い出したように恥丘も痛みを訴える。
 乱雑に扱われ、熱を帯びてしまったようだ。
 文無に渡された薬を塗り込むと、膏薬独特のべたつきはあるものの、かなり楽になった。
 本当に熱を出さないだけマシかと額に手を当て、初めて自分が熱を出していることに気付く。
 おかしなもので、熱があるらしいと分かると急に具合が悪くなってきた。
 よろけながら牀に戻ると、もう一度上掛けの下に潜り込む。
 吐き気を覚えて口元を押さえ、目を瞑った次の瞬間には眠りの闇へと落ちていた。

 が目を覚ましたのは、額に置かれた冷たい手の感触のせいだった。
「……公績?」
 問うと、手はすっと引っ込められた。
 追い掛けるように目を向けると、そこに居たのは凌統ではなく周瑜だった。
 申し訳なさそうな顔をしている。
 ぼうっとした目を向けるに、動揺したかのように後退る。
「医師を、呼ぶか」
 取ってつけたような言葉を、は首を横に振ることで拒絶した。
「……具合が、悪いのだろう?」
「医者、嫌いです」
 薬を持って来ているから大丈夫だと言って、は上掛けを引き上げた。
 眠っている人間の室に入り込む無礼など、この際もうどうでも良かった。
 熱が出たせいか全身を倦怠感が襲い、眠くこそなかったが起き上がるのは酷く億劫だ。
「薬とて、飲まねば仕方あるまい」
「起きたら自分で煎じます」
 案じてくれているのか困惑しているのか、正直周瑜の心情は量り難い。
 けれど、とにかく今は誰とも会いたくなかったし、放っておいて欲しかった。
 またも涙が滲んで、は鼻を啜り上げる。
 体が弱ると気も弱る。
 本当だなぁと実感した。
 横たわるの上に、影が落ちる。
 周瑜だった。
「……何処にある」
 何がだ、と目で伺うと、周瑜の口元がむっと尖った。
「薬だ」
「いいですって」
 自分でやるから、構ってくれなくて結構だ。
 あからさまに不機嫌に答えるに、周瑜の表情も険を孕む。
「……孫権殿が、私の元に来られた」
 は、黙したまま周瑜の言葉を聞く。
「何か、酒の勢いで良からぬことをしてしまったと……詫びたいが、何をしたかも思い出せぬと……酷く気に病んでいた」
 返事をしようとしないの肩を、周瑜は苦い思いで見詰めた。
 関わり合いにならずに済むものであれば、関わりになりたくないという気持ちに変わりはない。
 にも関わらず、三日にあげず通い詰めているような有様だ。
 目覚めたが、周瑜と凌統を取り違えたこともまた、苦さに拍車を掛ける。
 凌統を遠方に遣ったのは周瑜だったが、それもそもそも孫策の為に他ならない。
 当の孫策は練兵と称して何処へやらへ出向いてしまうし、凌統は親類の頼み故断れないとやらで当分戻る気配もなしで、周瑜の目論みは尽く外れ、の面倒を見なければならないと言う重圧だけが残された。
 何もかもが合わない相手の面倒を見るというのは、気も進まない厄介極まる仕事だった。
 己の責務と忍の一文字で律しているが、の周囲で騒動が絶えた試しがない。
 束の間の安らぎは本当に束の間で、一昨日孫堅のことがあったと思えば昨夜は孫権と問題を起こしたと言う。
 凌統と役目を代わってくれと言えたならどれ程楽かと、周瑜は出来もしない相談を夢想しては気を静めていた。
「……孫権殿の気持ちを汲んでやったらどうだ。何をしたかは知らぬが」
「酒呑んで暴れただけです」
 が突然口を開き、周瑜の言を遮った。
 何であれ、口を開いただけ有難い。沈黙されては為しようがなかった。
「……殴られでもしたか」
「酔って、酒ぶちまけて寄越した挙句に舐められて、足広げられて何が欲しいか言ってみろって言われただけです」
 今度は周瑜が黙った。
 明け透けな言葉は、逆にの怒りの程と傷付けられた胸の痛みを如実に示していた。
 何を言って良いのかすら分からない。
 長い沈黙が落ち、根負けしたが周瑜に目だけ向ける。
「…………」
 そこに在った周瑜の表情に、は思わず起き上がってしまった。
 顔を、それこそ耳の後ろまで真っ赤にし、何とか冷まそうとばかりに顔を顰めて手で覆う周瑜など、見たことがない。
 途端にの頭も冷め、如何に自分が破廉恥極まりないことを暴露したかを思い知る。
「…………」
 気まずい空気が更に気まずくなり、二人は互いに赤面して視線を避けた。
 沈黙が、やたらと重い。
「薬」
 周瑜がぽつりと呟き、も少しだけ顔を上げる。
「……薬を、飲むといい。何処にある」
「……そこ、の、机の後ろの、小さな行李の中、に」
 ぎこちなく会話を交わし、周瑜はに言われるままに行李を取り出す。
 中に入っていた薬草の包みを見つけ、一緒にされていた竹簡に目を通す。細かな内容に、周瑜は内心舌を巻いた。
 蜀に於ける医術の水準の高さが、この竹簡に垣間見えるようだったのだ。
 改めて、彼の地を治めることが出来なかった悔しさが滲む。
「……見つかりませんか」
 の声に、周瑜ははっと我に返る。
 薬研擂り鉢の類はさすがに付いておらず、周瑜はに断りを入れ、一度室を出た。
 廊下に出ると一息ついて、改めての言葉を思い出す。
 選りによって何ということを仕出かすのか。
 孫権に対する怒りよりも、が告白した後に見せた羞恥の顔が胸をざわめかす。
 性質の悪い冗談などではなく、本当にそんな無下の扱いを受けたのだと証すような顔だった。
 言える訳もないことを無理に聞き出したという罪悪感もあり、周瑜の慚悔は尽きることを知らない。
「周兄」
 廊下の向こうから、不安げな孫権が歩いてくる。
「周兄、に会いに行っていたのですか?」
 言葉通りであれば単なる確認だが、周瑜はそう捉えることが出来なかった。
 相手も選ばず嫉妬に駆られている場合ではあるまい。そも、自分で来るつもりがあったなら、何故己の許に来る前にさっさと出向かなかったのか。
 苛っとして、手にした薬草の小袋を孫権の胸元に押し付ける。
「……これは?」
 首を傾げる孫権に、周瑜は冷たい視線を送る。
「煎じてきたまえ」
 周瑜の凄みに、孫権は泡を食いながらも問い返すことなく廊下を駆け戻る。
 つくづく、疲れた。
 廊下の欄干に行儀悪く腰掛け、周瑜は腹の底から深い溜息を吐いた。

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