人の気配に閉じていた目を開くと、そこに居たのは孫権だった。
 渋い顔を隠すことも出来ず、は何はともあれと起き上がる。
 眩暈がしたが、寝ている訳にはいかないと思った。
 甘えたくなかったのだ。
 孫権は、手にした盆を牀の端に載せ、の頬におずおずと手を差し伸べる。
 身動ぎ一つしない様に、孫権は蛹を彷彿とした。
 如何にも固そうな殻をこじ開ければ、大切な命は失われてしまう。さりとて、飽きず眺めていようと羽化する気配は微塵もない。
 篭もらせた原因が己にあるとはっきり分かっていればこそ、孫権は為しようがない己に焦れた。

 名を呼んでも、伏した目を上げることもない。
 触るなと無言で拒絶されているようで、無性に切なくなる。
 詰ってくれればいいものを、それすらしないのであれば本当に手がない。
「すまなかった」
 詫びても、答えはない。
 当たり前だと思う。
 孫権は、未だにに何をしてしまったか知らずに居る。何に対して詫びているかも分からない謝罪など、空々しいばかりで方寸に届く筈もない。
 周瑜に命じられるままに薬を煎じて戻って来た時、周瑜は会った場所から動いては居なかった。堅物の周瑜らしからぬ無作法で欄干に腰掛け、足を組んで孫権を迎えた。
 腹を立てておられる、と感じた。
 から詳細を聞いたのかもしれない。それは周瑜を激怒させるに足る内容だったのだろう。
 激怒を通り越して疲弊した風な周瑜に、孫権は恥を覚えて顔を曇らせた。
 周瑜もそれを見て取ったものか、冷たく虚ろな表情に無理して微笑を浮かべてみせる。
――君が、自分で彼女に訊きたまえ。
 そうしなければならない、と言い残し、周瑜は去った。
 孫権は、周瑜が表向きの訪問理由を作ってくれたことにようやく気が付く。
 あるとないとでは行き辛さに段違いの差があろう。
 さすがは周兄、と感謝すると同時に、自分の器の小ささ、また理由を作ってもらっても尚行き難いと思ってしまう己の小心に情けなさを感じる。
 このままにしてしまったとて、何ら支障はなかった。むしろ、人の道を外れた恋に終止符が打たれるのなら、喜ばしいこととさえ思えた。
 けれど、孫権はの室へ足を踏み入れた。
 牀に横たわる背中は見るからに窶れ、憔悴しているように感じる。
 朝会ったばかりでそんなことがあろう筈もないが、しかし孫権はそう感じていた。
 たぶん、は心が弱いのだ。
 意気地がないとか臆病とか、とりあえずそんなことではなく、人から受ける仕打ちを尽く受け止め、掛かる影響も鑑みず見境なしに尽く吸収してしまうように見える。
 それも、悪しき感情を重点的に、だ。
 人は誰しも己が可愛い。自分大事に考え、赤の他人に下心もなく親切にすることはまずない。
 道理だ。何もおかしいことではない。
 そんな優しい時代ではないのだ。
 いつか孫呉が天下を統一し、乱を起こそうとする者を余さず制した後ならばまだしも、今はのような人間には生き辛かろう。
 分かっていながらを無下に扱ってしまったことを、孫権は今更ながらに後悔していた。
「すまなかった」
 繰り返すも、からの応えはない。
 もう二度とこの冷たい表情が変わることはないかもしれないと考えると、ぞっとした。
「お前に何をしたのか、忘れてしまって、すまなかった」
 孫権が矢継ぎ早に声を継ぐと、の髪がわずかに揺れる。
「……酷い、無下な扱いをしたのだとは分かる。だが、私はお前に詫びたいのだ。きちんと、己が何を仕出かしたのかを知って、お前に詫びたい」
「そんなの」
 吐き出すように零れた言葉に、孫権ははっとしてを見詰める。
 詰めていた息を吐き出し、堰き止めていた思いを言葉の一端に示してしまったは、抑えようもなく滂沱の涙を零した。
 色を失くすまで噛んだ唇が戦慄き、掠れた嗚咽を漏らし始める。
 わっと泣き出したは、それでも両手で顔を覆って孫権を拒絶しようと足掻いていた。
 そうまでして自分を排除したいか、と、孫権の胸に憤りが湧き上がる。
 けれど、落ち着いて怒りの根源を辿れば、それはを愛おしむ気持ちの裏返しだと分かっていた。
 孫権の腕がの肩を抱き、緩々と抱き寄せる。
 嫌がって身を引くのへ、孫権は自ら膝を進めて距離を縮めた。
「すまなかった」
 閉じ込められて、それでも頑なに俯いていたは、締め付ける腕の強さと暖かさに緩む気持ちを叱咤した。
 酷いことをされたと思って、泣き喚いて腹立てて、すまなかったの一言じゃ済まないだろう。
 頭の中ではがーがーと吠え立てているのだが、孫権の熱は冷え切ったの肌を温め、心地良さを誘う。
 熱を出したせいかくるくると回り出した視界に、座っていることさえ容易でなくなり力が抜ける。
 ぽて、と孫権の肩口にもたれたが最後、孫権は、最早離さぬと言わんばかりにしっかと抱き込んでしまった。
 ずるい。
 むっとして、腹が立って、悔し涙がぼろぼろと零れた。
 孫権の肩に顔を押し付けられ、男臭い体臭が肺に染み渡る。
 嫌いな匂いではなかった。
 そして、嫌いではないと思った瞬間、の中にあった最後の砦が陥落した。
 遮二無二しがみついてわんわんと泣き出したに、孫権はぎょっとする。
 ゆっくりと横に倒し、乱れた髪を直してやると、涙で腫れた目とぶすくれた顔があいまっていっそ笑い出したいような有様だった。
 苦笑で押さえ、零れる涙を唇で拭う。
 塩辛い味が喉を焼くが、孫権は構わず枯れぬ涙が尽きるまで拭い続けた。
 最初は嫌がっていたも、孫権の執拗さに根負けしたかじっとして奉仕を受け止める。
 ようやく涙が止まり、閉じたままだった目が薄く開かれる頃、孫権は改めて泣き腫らしたの顔を酷いものだと思った。
 凡そ美女とは称し難い。
 呆れる程不細工なのだが、逆に愛嬌を感じて嫌な感じはしない。
 まったく、人の目など当てにならない。
 孫権は、そんな自分に呆れるやら笑い出したくなるやら頼もしいやらで、複雑な笑みを浮かべた。
「熱があるのか」
 煎じた薬は、では熱冷ましなのだろう。用途は聞かぬまま持ち運んできたが、が熱を出したならそれは自分のせいに他ならぬと、笑みは掻き消え表情はますます複雑なものと化す。
「……医師を呼んだ方が良いのではないか」
 孫権が切り出すが、は首を振った。
 だが、素人の見立てで勝手に薬を煎じて飲むよりは、医師の見立てに従った方がいいような気がする。
「夜だからと案じる必要はないぞ」
 それぐらいはと言い掛け、先日当帰を雇い入れる件の時も同じように請け負って叶わなかったことを思い出す。
 苦い記憶に口を噤むが、幸いは気付かなかったようだった。
「……夜……なんですか……」
 そういや暗いなどと言いながら、呑気に時刻を尋ねてくる。
 何だかんだでかなり遅い時刻になっていることを告げると、はげっそりして横たわった。
 もたもたと薬湯に手を伸ばすのを助けて抱き上げ、支えてやる。
 は困ったように眉を寄せたが、身動くこともなく孫権にもたれた。
「辛いか」
「……そうでもないですけど……ちょっと、目が回って」
 薬湯を啜るの顔が歪む。苦いのだろう。
 躊躇いつつもちびちびと啜るの顔には、先程の険は見られなかった。
 許されたとは思わないが、安堵した。
 後悔するのは容易い。
 しかし、後悔しても二度と取り戻せぬものがあることを、殊更に肝に念じなければならない。
 が薬湯の入った茶碗を膝に置く。
「もういいのか」
 孫権が問うと、は困ったように首を傾げた。
 どう取り成したらいいか考えているように思えて、孫権は無言のまま茶碗を取り上げて盆に戻してしまった。
「もういいだろう。教えてくれ、私が何をしてしまったか」
 我慢が足りないと思いつつ、に詰め寄る。
 記憶がないというのは実に不確かで心許ない。己が何を仕出かしてしまったにせよ、早く知りたいというのが孫権の偽りない本音だった。
 の首が項垂れる。
 余程惨い思いをさせたのかと思ったが、ふと気が付くとの耳が赤く染まっている。
「…………」
 顔を赤らめているのだと知って、孫権は釣られるように赤面した。
 惨いは惨いでも、孫権が想像していたのとは違う『惨いこと』、つまり『口に出すのも躊躇われる程恥ずかしいこと』をしてしまったようだ。
 むやみやたらとうろたえる。
「そ……その、私は、一体何を……」
 酔うと気が大きくなる。何でも自由にしていい、振舞っていいと勘違いして、挙句記憶を飛ばす。
 常に繰り返す悪癖故に、己が何をしでかしたのかと考え出すと、想像はひたすら悪い方へと転がり出した。
 そういえば、と朝方感じた違和感に心当たる。
 裸体のを見て、何かおかしいと感じていた。
 何だ。
 何を以っておかしいと感じた。
 俯いたは、足の上に重ねた手を見詰めている。
 足の上と言うよりは、と考えて、はっと思い当たってしまった。
「へっ」
 が素っ頓狂な声を上げ、牀の上に引っ繰り返る。
 盆に載せた茶碗が大きく傾ぎ、薬湯が跳ねて牀に茶色い染みを作った。
 気にする間もなく孫権に裾を大きく暴かれる。
 止める間もない。
「ちょっ……!」
 孫権の指がの下腹に引っかき傷を作る。
 淡い痛みに顔を顰めるも、傷がもたらすほのかな熱より、晒された下半身から伝わる寒々しさがの気持ちを萎えさせた。
 愕然とした孫権の目が痛い。
「これは」
 それきり絶句して口元を押さえた孫権から逃れ、手で隠した上で足を閉じる。
 何をするのかと涙目で抗議するに、孫権はただ狼狽して視線を忙しなく彷徨わせている。
「そ、その」
 何を言うかは見当が付いたが、止める気にもなれなかった。
「私、が……?」
「違います」
 馬鹿だな、この人は。
 どうしようもなくボケた勘違いをかます孫権に、はある意味同情を禁じ得ない。
 空白の記憶を取り戻そうと焦るのは分かるが、それにしたってその思い込みはどうなんだ。
 剃るにしても抜くにしても、酔った孫権が後始末など出来よう筈もないことは自明の理で、その腕に囚われていたとて出来ることではない。逃げ出せたのなら夜の内に帰っていたし、そんな痕跡があったらさすがに思い出すだろう。
 あまりに惚けた勘違いをするもので、の中にくすぶっていたわだかまりも完全に氷解した。
「……人の体に酒ぶちまけて、自分の分が無くなったって言って嘗め回したんですよ」
 詳細を語るには気が引けて、嘘ではないが曖昧にぼかす。
 それでも孫権が納得するには足りたようで、恥ずかしそうに顔を赤らめ口をへの字に曲げる。
 不貞腐れたような顔は、自身に対しての憤り故だろう。
「……すまなかった」
 小さいがはっきりとした声で詫び、孫権は深々と頭を下げた。
「悪ふざけにしても、程があった。お前が怒るのも無理はない。本当に、すまなかった」
 素直で率直な謝罪に、はふと、本当に嫌だったのだろうかと疑心暗鬼に駆られる。
 孫権が詫びているのは、くだらない痴戯をに仕掛けたことに対してのようだが、が怒ったのはそこではないように思う。
 そういう痴戯がない訳でもないことは、自身も知っている。自分の身で体験する羽目になろうとは思ってなかったものの、嫌悪と言い切るまでの嫌悪はなかったように思う(そんな風にして呑む酒が美味かろうとは到底思えなかったが)。
 何が嫌だったかと言えば、考えられるのは他になかった。
「……別に、そうじゃなくて」
 の言葉に、孫権は目を瞬かせた。
「無理矢理は、が、嫌です……嫌でした」
 抗っても留まりもしない暴の手は、にとって恐怖の対象でしかない。
 訊いてくれたらいい。
 どうして駄目なのか、どうしても駄目なのか、訊いて、交渉してくれたら、こんな風には泣き喚くこともなかったと思う。
 酔っ払いにそんな気遣いを求める方が酷だとしても、それを踏まえた上で敢えて願ってしまったとしても、その願い自体が悪い訳ではないだろう。
 好きにされ過ぎる。
 それは、対等な立場とは言わない。
 は娼婦でも妾でもなく、まして隷属の身でもない。蜀から正式に招かれた、正当な文官だ。
 ならば、対等に扱ってもらわなければ困る。
 何処までが対等であるべきかを考えれば、とてその境界の線引きに困るけれど、何でもしていい相手と蔑まれるのは嫌だった。
「分かった」
 孫権が重々しく頷くのを見て、はまたも涙が滲み出すのを感じる。
 我がままだろうか。言い過ぎだったろうか。
 後悔とも付かぬ感情が、胸の奥底を重く暗くしていた。
「許可を取ればいい訳だな。お前を、杯の代わりにしても」
「ちょ」
 あんまりだと顔を上げれば、孫権はほろ苦く笑っていた。
 冗談だと知れて、はむっと頬を膨らませる。
 すぐに気が抜けたように元に戻り、孫権の笑みと似た苦笑を浮かべた。
 無言で寄り添い、緩く抱き締めあった。
 仲直りしてしまった、と、密かに考えていた。

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