一難去ってまた一難と言うが、今度の難は思わぬ方向から来た。
 決して許さぬと言わんばかりに険しい目をしているのを盗み見て、は密かに嘆息する。
「何です、溜息なんて吐いて」
 目敏く見咎められ、は苦笑いした。
 こんな時に笑みを浮かべるなど不謹慎だとでも思ったか、当帰(文無)の顔はますます厳しくなっていく。
 病床の身でありながら、小喬の可愛らしい懇願を受けて『例のもの』の続きを書いていた。
 牀の真横に設えられた机に向かい、疲れたら横になる。
 いきなり牀のある室に押し掛けてくる者はそうは居らず、また来てもすぐさま仕舞えることからは完全に油断していた。
 当帰を警戒する対象から除外していたのは、偏に『自分の味方である当帰がこんなことで怒る筈がない』という甘い考えからだった。
 凌統のように一時的には呆れはしても、事情を話せば必ず理解してくれる筈だと思い込んでいたのだ。
 そうでないことは、一通り事情を説明した後に見せた険しい表情ですぐに分かった。
「……だからね」
「だからじゃありません。そんなろくでもない理由で、こんなはしたないものを書くなんて……様は、自分の立場って奴を本当に分かってらっしゃらないんだ」
 立場とは、何だ。
 は溜息を吐きつつ、一度口にした言葉をもう一度念入りに繰り返した。
「私は、ちゃんと理由があってこれを書いてるんですって。興味本位で書いている訳じゃなくて、これが必要な人が居るから書いてるの」
 何も知らない真っ新な大喬が、見知らぬ閨の暗さに脅えぬように。
 精一杯背伸びしている小喬が、周瑜を前にして取り乱さぬように。
 愛する人に抱かれることは、女としての喜びを甘受できる最高の一瞬でもあることを、二人に理解させたかった。
 ただそれだけだ。
 口頭で述べれば迂闊に恐れ戦かせてしまうからこそ、こうして物語様に取り繕いその細やかな心情を伝えようと思ったまでの話なのだ。
 当帰が目を剥いて怒り狂うようなことではない。
 しかし、当の当帰はの説明に更に油を注がれてしまったようだった。
「それがおかしいと言うんです。何故あのお二方の為に、様がこんな破廉恥な話を書面に綴らなけりゃならないんですか」
 は、再び溜息を吐いた。
 口を滑らせて二喬の存在を明かしてしまったのは、あまりにも大きな失態だった。
 皆に見せて回る訳ではないということを強調したいが為にうっかり喋ってしまったのだが、二喬の名を聞いてから、当帰の怒りは更に煽られているように感じる。
「私はあの二人にはお世話になってるし、仲良くさせてもらってるの。恋の悩みを打ち明けられて、私に出来ることがあるならそれをやろうって思っただけなんですって」
「恋の悩みが聞いて呆れる。そんなものは、周りのお女中共に任せて置けばいいんです。まだ時期ではない、その頃合じゃあないと踏んでいるからこそ、何も言わないんでしょうよ」
 それを、知りたいから教えろ教えるなどと勝手に遣り取りすれば、二喬の女中達は面子丸潰れになること請け合いだと当帰の鼻息は酷く荒い。
「こっそり内緒で、口頭でというならまだ私も引っ込みましょうよ。だけど、こんな……」
 当帰は机に載せられた書き掛けの竹簡を、まるで汚らしい汚物のように指先で摘み上げた。
「いやらしい、不潔なものを、何でわざわざ様がお書きなさるんです。私は、それがおかしいと申し上げてるんですよ!」
 摘み上げられた竹簡が微かに揺らめくのを、は嫌悪の眼差しで見詰めた。
 隠しもしない視線故に、当帰もすぐさま気が付いて眼を吊り上げる。
「……これだけ言っても分からないんなら、それじゃあ、これを皆様に見せても構いやしませんね」
 の眉間に深い皺が刻まれた。
 羞恥の気持ちも勿論あるが、大きいのは当帰の言い分に大きな矛盾を感じての反感だ。
 は、大喬と小喬の二人の為だけに書いていると説明した。皆に見せて回りたいとは決して言っていない。
 それを、当帰は、そうまでして書くのであれば皆に見せて白黒を付けようと言っている。嫌らしく多数決を取ろうと言っているのでさえなく、あくまで自分の言い分が正しいのだと見せしめる為だけに見せて回ろうと言っている。
 こんなひとだったのか、と酷く落胆した。
 あんなにも切望して来てもらったのに、今では早後悔しつつある。
 男に対してルーズなを、それはが悪いのではない、それならこう対処なさいと言葉を掛け、受け入れてくれた筈のひとだった。
 一つ受け入れてくれたからすべてを許してくれる訳ではない。
 頭では分かっていたけれど、の最たる『厭わしい欠点』に理解を示してくれたひとだからと甘えていたのかもしれなかった。
「どうなんです。見せても構わないのか、構うのか」
 さぁどうすると迫る当帰に、の負の感情は限界を迎えた。
「そんなに見せたければ、見せたらいいですよ」
 当帰の顔がざっと青褪める。
 胸の奥がじくじくと痛んだけれど、も最早引っ込みが付かなかった。
「私がそういうふしだらなもの書いてるって、皆に見せて回ればいいじゃないですか。色んな男受け入れて、嫌がりもしてない女なんだって皆知ってるんだから、今更でしょう。恥の上塗り、させたいならしてくれればいいですよ。どうぞ、ご勝手に。でも」
 大喬と小喬の名前を出したら、絶対許さない。
 突然怒り狂うの様子に、当帰は怯んだように後退りをし、悲しげに眉を顰めた。
「何で、分かってくれないんです。それとこれは別なんですよ。こんなもん書いてるなんて世間に知れたら、それこそ様の名前に傷が付いちまうんですよ」
 男が群れを成すのは、誇りにしたっていいことだ。
 けれど、こんな卑猥なものを書き記したと知られれば、それはに取って汚点となる。未だ若いが、自らそのような汚点を残さずとも良いだろうと当帰は嘆いた。
 問題の争点が違う。
 は大喬と小喬の為のみに書き記している。あの二人が外に漏らす筈はないと確信している。
 絶対外に漏れないかと言われれば、確かにそんな保障は何処にもない。うっかり盗み見られることもあろうし、持ち出される可能性だってないではなかった。
 だが、そうなったらその時の話だ。
 事が起こってから改めてうろたえればいい。
 少なくとも、は既に物語を書き始めてしまっていたし、大喬も小喬もその書き始めを確と読み出している。
 当初の目論見通りに、恐ろしい嫌らしいとの偏見もなく物語の筋に見入ってくれている二人に対し、やはり当初の目論見通りに房事に対する不信感を拭い取れると確信もしていた。
 何より、当帰の押し付けがましい物の言い様に、自身がとてつもない反感を覚えている。
 内容もろくに見ず、ただ房事に触れた一文を見ただけで騒ぎ立てる神経が気に入らなかった。
 大した物は書けていないだろう。鳥が啼き魚が涙する名文など、期待されても書きようがない。
 けれども、も同人屋の端くれとして、一方的に押し付けられる創作への偏見には無性に抗いたくなるものなのだ。まして、人の為とはいえ頭を悩まし懸命に書いたものを、端から罵られるとあっては呑気に構えていられない。
 こればかりは譲れぬ、とは腹に力を篭めた。
「面白半分で書いたもんじゃないって、言ってるでしょう。房事の作法なんか、そりゃ私は知らないですよ。でも、そういう時にどんな気持ちがするのかとか、怖かったりどきどきしたり嬉しかったりとか、そういうことは分かってるもの。ただ子供を作る為のことなんじゃないって、こんな大事なこと教えるのに、何でそこまで言われなきゃならないんですか」
 千歩譲って口頭で教えるのは構わない。
 けれど、それならばそれでその『草稿』を作らないことには話にならない。
 オチのない話の印象は残らない。胸に響く何かがあってこそ、人の心に残るのだ。
 だから、は物語と言う形式を選んだ。使えそうな良い話に心当たりがなかったから、自分で創作しようと乗り出したまでだ。
 何から何まで否定されるいわれは、ない。
「……どうしても分かっちゃもらえないんですか。私が、これ程頼んでも駄目ですか」
 そんな言い方は卑怯だ。
 当帰がいつ頭を下げた。したのは、卑怯極まりない恫喝のみだ。の為だと恩着せがましく言い募り、恥を掻かされたくなければもう書くなと脅迫しただけではないか。
 無言で唇を噛み締めているは、さぞ可愛げのない顔をしていただろう。
 当帰は今にも泣き出しそうに見えたが、くっと唇を突き出すと、摘み上げていた竹簡をくるくると手早く巻き上げた。
「分かりました。そんなら、仰る通りにさせていただきますよ」
 引き止めて詫びるなら今の内だと見せ付けるように、丸めた竹簡を振る。
 そんな当帰のやり口が更にの癇癪を煽り、はふいっとそっぽを向いた。
「……いいんですね。本当に、いいんですね」
「勝手にしてくれたらいいでしょう」
 売り言葉に買い言葉だ。
 吐き捨てたものを吐き捨て返され、当帰は青褪めた顔が白くなるまで色を変え、そのまま無言で出て行った。
 びしゃり、と閉まる戸に、当帰の怒りの程が現れている。
 一人残されたは、突然重く圧し掛かる倦怠感を持て余した。
 後悔が束になって押し寄せてくるのだが、取り戻しようがない暴言の数々をいちいち数えてられるかという投遣りな気持ちも同じだけ強い。
 言って回るだろうか。
 本当に、あれを見せて回るだろうか。
 物語の導入部は、あの竹簡には書かれていない。濡れ場の始めから記された内容は、人の暗い好奇心を刺激し、あることないこと吹聴されるには打ってつけだと容易に想像できた。
 今更尻の座りが悪くなる焦燥感を覚え、は口をへの字に曲げる。
 譲歩を求めて宥めるでなく強硬な態度を貫いたのは、も当帰も一緒だった。
 は二喬を、当帰はを案じて怒り狂い、その奇妙な庇護心は歪んだ形で決裂した。
 どうすれば良かったと考えても答えは出ず、理由の分からぬ罪悪感に悩まされる。
 無性に泣きたくなるが、泣いたら自分が悪いと認めるようで、は歯を食い縛って涙を堪える。
 本当に見せて回る訳がない。
 でも、本当に見せて回られたらどうしよう。
 ぐるぐるとして救い難い思考に囚われ、は頭を抱える。
 何でいつも、こんな風になっちゃうんだろう。
 もみくちゃにされると案じてくれた当帰との諍いは、に重苦しい痛みを与えていた。
 味方など、本当は誰も居ないのではないか。
 埒もない思考が過り、けれど完全に否定も出来なくて、は心細さに肩を丸めた。

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