嘲笑も罵声もないまま宙ぶらりで放置され、鬱々とした日々を過ごす。
 当帰は、言わなかったのだろうか。
 やはり口だけだったのかもしれない。
 病を理由に仕事も学問も手付かずに居る。どのみち、こんな状態で何か出来るとも思えなかった。
 気鬱から食事の量が格段に減り、の病を疑う者も居らない。
 元より体が弱いと揶揄されるであったから、疑おうとも思われなかったのかもしれない。
 けれど、名目ばかりの療養生活にはすぐに耐えられなくなってしまった。
 三四日で病床から抜け出したは、こっそり庭の散歩に繰り出すことにした。

「……うーん」
 肌寒い。
 上着を掻き寄せるようにして空を見上げると、穏やかな日差しの光は肌で感じる気温とは裏腹に暖かげだった。
 ほてほてと歩いていると、草が鳴る。
 そこに小喬の姿を見出し、はわずかに怯んだ。
 当帰との言い争いが記憶に鮮明に残っていたからだが、すぐさま振り払うように首を軽く振る。
「小喬殿」
 声を掛けると、どうやら気付いていなかったらしい小喬が弾かれたようにを振り返る。
 え。
 思わず足がすくむ。
 を見詰める小喬の目は、かつてを厭っていた頃のあの目だった。
 否、あの時よりも尚酷いかもしれない。
 驚きで胸が詰まって何も言えないを一瞥すると、小喬は踵を返して立ち去ろうとした。
 だが、数歩行ったところでぴたりと足を止め、勢いを付けるが如くの前に引き返してきた。
「どうして、言ってくれなかったの」
 問答無用の強い口調に、は訳もなく胸が痛くなる。
「……あの、小喬殿……?」
 話が読み込めず戸惑っていると、小喬は険しい目で睨め付け、不意にその眦に大粒の涙を浮かべた。
「イヤなら、イヤって言ってくれればいいじゃない。どうして周瑜様に言い付けたりするの。酷いよ!」
 愕然とする。
 話が読み込めないのは変わらないが、の与り知らぬところで何がしかの動きがあり、がそれこそ最も望まないだろう形の一つを成したのだと察せられた。
「……どういうことです」
 伏せられた小喬の目が、かっとして上げられる。
 を怒鳴りつけようとして開かれた口は、けれどの青褪めように発する予定の言葉を失った。
「どういう、こと、ですか」
 幽鬼さながらに小喬に迫るの顔は強張り、震える指が小喬の肩を掴む。
「周瑜殿に、言い付けたって……どういう、何の、話ですか」
 小喬もまた混乱していた。
 奇妙な恐怖に駆られ後退ろうとするのだが、がその分踏み込んで来て許してくれない。
「教えて下さい。いったい、何を言われたんですか」
「何って……」
 言っていいものかどうか判断が付かない風な小喬から、沈黙して答えを待っていたは不意に手を離した。
 よろけるように歩き出したの後を、小喬はうろたえながらも着いていく。
「……ねぇ……何処に行くの……」
「周瑜殿んとこです」
 不安に脅える小喬の問い掛けに、は短く吐き捨てて答える。
 予想と寸分違わぬ答えに、今度は小喬の顔が青褪める。
「駄目」
「何で駄目です」
「とにかく、駄目って言ったら駄目!」
 意味も理由もなくの手を取り引っ張った小喬は、思っていた以上に非力なを盛大に引き倒してしまった。
 見事に転び、挙句地面を引き摺るように倒れ込んだに呆然とする。
 一瞬呆けたものの、すぐに我に返ってを抱き起こそうとして、小喬の動きの一切は止まった。
 は泣いていた。
「……そ、そんなに痛かったの……? ご、ごめんね、大姐。あの……あたし……あの……」
 何と言っていいのか分からない。
 助け起こそうにも手を触れることさえ躊躇われ、小喬はの周りをうろうろとしてしまう。
 涙の勢いは衰えるどころか激しさを増し、が顔を覆って泣き始めると、小喬の狼狽振りも益々度を増していく。
「大姐……大姐ったら……泣かないで、よぅ……」
 そっと肩を揺するが、が泣き止む様子はない。
 困り果てた小喬の遥か頭上を、優雅に飛んでいく鳥の影が横切っていった。

「すいません」
 詫びて頭を下げるものの、の表情はとても謝っている者のそれとは思えない。
 酷くぶすくれて、口を尖らしている。
 あれからしばらく宥め続け、何とか誤魔化しながら自室にを連れて来た小喬の苦労は並々ならぬものがあった。
 人払いはしたものの、涙で目を腫らしたの様は、家人の間であっという間に広がるに違いない。
 茶の一杯も仕度させられず、小喬は困り果てながらも水差しの水を茶碗に移す。
「……ちょっと飲んで、落ち着いた方がいいよ」
 茶碗を黙礼して受け取ったは、あっという間に水を飲み干した。
 あれだけ泣いたのだから喉の一つも渇くだろう。
 小喬は頬を掻いて、改めての隣に腰掛けた。
「……大姐、知らなかったの?」
「何がですか」
 だから、と言い掛けて小喬は俯く。
 小喬が周瑜から叱られたのは、ほんの二三日前の話だ。
 本当に怒られた訳ではないけれど、周瑜が酷く困ったような顔をしていて、そうさせたのが自分だという事実はそれだけで小喬をどん底に突き落とすに足りた。
 に無茶な頼みごとをしていると聞いた、と周瑜は言った。
 それはをとても困らせることであり、迷惑を掛けることだとも言っていた。
 自分のところに苦情が持ち込まれて、だから周瑜も見逃す訳に行かない。時期が来れば御付の者がきちんと教えてくれることなのだから、そんな無理して背伸びする必要はない。
 淡々と言葉を綴りながらも苦いものを噛み潰すかのような周瑜の顔が、今も小喬の脳裏にはっきりと焼き付いている。
 大好きな周瑜を困らせ、しかもそれが閨に関わることだと知られてしまった。
 何重もの恥ずかしさに苛まれ、小喬は周瑜の前で堪えられずに大泣きしてしまったのだった。
 何もかもが恥ずかしく、穴があったら入りたい。
 奔流する嫌悪の嵐の矛先は、周瑜に秘密を暴露したであろうに向かわざるを得なかった。
 嫌なら嫌だと言えばいい。
 無理に頼んだ訳では決してない。は快く承諾してくれた筈だったのに、では嘘だったのかと怒りや悲しみ、悔しさが募る。
 一番嫌な遣り方をされたと傷付き、が寝込んでいるという話を聞きながらも言い訳して出向かなかったのはそのせいだ。
 悶々として苛立っていた小喬もまた、気分転換に庭を散策しようと思い立っていた。
 が気になる余り、の室の近場に迄出向いていたことは無意識の内にしたことで、だからが呑気に声を掛けてきたのは思い掛けない不意打ちとなり、小喬の逆鱗に触れると同様の有様になってしまった。
 ちゃんと確かめれば良かった。
 今更ながら後悔するも、時既に遅しだ。
 ちらりと横目で見遣れば、の服には払いきれなかった泥が付着しており、汚さぬようにと捲り上げた袖と裾から擦れて切れた傷口が覗いている。
 わざとかと思うくらい豪快に素っ転んでいたが、わざとでないのは明らかだ。
 落ち込む小喬は更に落ち込んだ。
「……痛い?」
「そんなでも、ないですけど」
 の眉間に皺が浮く。
 怒っているのかと首をすくめたが、は予想に反して涙を浮かべて俯くのみだった。
「……あのね」
 そんなが、ぽつりぽつりと語りだす。
 当帰に見つかり予想外にきつく叱られたこと、それに反論して水掛け論になってしまったこと、二喬の名は決して出すなと言ったこと、本当に触れ回られたらどうしようかと脅えて、仮病を使っていたことなど、この数日のことをすべて聞かせてくれた。
 朗々とは言い難い、酷くもどかしく途切れ途切れな告白だった。
 話の原因はやはり自分だったと言うことで、小喬の落ち込みは益々激しい。
 けれど、はそれ以上に落ち込んでいるように見えて、小喬は何と慰めて良いか分からなかった。
「ごめんなさい」
 最後に、はそう言って締めた。
「……どうして大姐が謝るの?」
 原因は、いずれ教えてもらえると分かっていながら背伸びしようとした大喬と小喬にある。
 思い掛けない物語の面白みに引かれ、無茶な催促をした自分により罪があるとさえ、小喬は考えていた。
 は大きく頭を振る。
「……好きな人に……自分の、しかもすっごく恥ずかしいって思うような秘密暴露されて、それを注意されちゃうなんて……あんまりじゃないですか」
 の眼は濡れていた。
 小喬も、釣られるようにして込み上げるものがある。
 反省はしている。多大に、地べたに頭を擦り付けて許されるならば躊躇わないくらいにしている。
 それでも、ここまでされなくてはならないようなことだろうか。
 反感がむくむくと頭をもたげて、抑え切れなかった。
「……男の人は、知らないから。初めての時、何されるのか分からなくって怖いとかって、分からないから、そんなこと言うんだから」
 小喬は、周瑜様の悪口なら言わないで欲しいな、と心の隅でこっそり考える。
 しかし、の目があまりに暗く悲しげで、そんな些細な要求を突きつけることは出来なかった。
 周瑜をのみ自分の夫と定めて愛する小喬には、の持つ『事情』は複雑多岐を極めている。とても理解したつもりになどなれない。
 これまでずっと、嫌なことも悲しいこともたくさんあって、だからあんなに熱心に相談に乗ってくれたのだろうか。
 考えなしに責めるようなことを言ってしまった自分の短慮を、小喬は改めて恥じた。
「……前に」
 が重い口を開き、小喬は免罪を求めるように勢い良く反応する。
「うん、なぁに?」
「前、に、一緒に服とか選んで下さいねってお願いしたこと、ありましたよね」
 あった。
 ほんの数日前の話で、忘れようもない。
 勿論忘れてない、今でも有効だ、と返事しようとした小喬を、の溜息が阻む。
「……なかったことに、して下さい」
「え」
 理由は、小喬が問い掛ける前に自身が教えてくれた。
「あのひと、辞めてもらうことにします……から……」
 小喬の目が丸く見開かれる。
 あのひとと名前を濁してはいても、それが当帰のことであろうことは明白だった。
 他にが雇っている者など、そも一人も居ないのだ。
 口振りからしてもかなり頼りにして頭から信じ込んでいる風なところがあったのに、城に上がるようになってほんの二三回で辞めさせると嘯くに驚く。
 綺麗になりたいからと、恥ずかしそうに頬を赤らめていたと今のが重ならなかった。
「だって、大姐」
 思い留まらせなければと何故か直感して、小喬は適切な言葉を求めて必死に頭を悩ませる。
 は、けれどもう決めたのだと言わんばかりに頑なに首を振った。
「……もう、あのひとの顔見るのもやだ、から」
 別れの挨拶もなく小喬の室を去っていくに、小喬は自分こそがに拒絶されたような気がして、思わず泣き出してしまった。

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