来るだろうなと無意識に推測はしていた。
 うんざりとした周瑜の顔を見遣り、もまた溜息を吐いた。
 その息が酒臭いのを嗅ぎ付けてか、周瑜の表情が歪む。
 構ってられるか。
 そんな心持ちだった。
「何か、御用ですか」
 意地の悪いと思いながら、酒の勢いに任せて問い掛ける。
 周瑜は短く断りを入れると、室の中へと足を踏み入れた。
 律儀に戸を閉め、しかし閂は外しておくのはに対する配慮なのだろうか。
 あるいは、己の矜持に傷が付くのを恐れてのことかもしれない。
 自分だけは違う、他の者達がどれだけになびこうが、自分だけはそうはならない、なりたくないと思っていてもおかしくなかった。
 それこそおかしな話だと思うが、周瑜はそうして呉のバランサーを勤めているような節がある。
 はぼんやりと周瑜を見詰めた。
 怜悧な美貌がわずかに崩れる。
 はたから見ている分にはクールビューティーで通りそうな周瑜も、やはり情熱大陸の人らしく表情は豊かだ。
 特にに対しては、呆れる腹を立てるの二種に限っても相当豊富なバリエーションを披露してくれていた。
 もっとも、それ以外に見せる表情となると極わずかなのだが。
 手持ち無沙汰に椅子を勧めると、周瑜はしばし悩んでから腰を下ろした。
 座ることで時間を取られることを厭い、けれど座らずに話せる程簡易な話でもないのだろう。
 は恐らく合っているだろう推測に甚く満足し、自分も腰掛けると手酌で杯を満たした。
「……いったい、いつから呑んでいる」
「昼間っからです。昼間っから」
 酒を呑むからと肴の仕度を頼んだ家人も、周瑜のように眉を顰めたり、呆れたような顔を見せた。
 別に気にしたことでもないと、は鷹揚に構えている。
 周瑜は無言を守っているが、内心では怒鳴りつけてやりたいのを我慢しているに違いない。
 呉は若い国ながら、その勤勉さや努力のあり方は目を見張るものがある。
 若いからこそ柔軟な体制は、努力する者を上に押し上げることにいささかの躊躇いもない。
 が曲がりなりにも受け入れられたのも、才のありようではなく努力しようと足掻く姿勢を評価されたことが大きいように思える。
 しかし、今のにはその期待が異様に重い。
 何を期待してくれているのかも分からないが、見込み違いだと跳ね除けたくて仕方なくなっている。
 当帰との諍いの八つ当たりをされるのは本位ではなかろうが、常日頃から感じている重責が、を投遣りにしていた。
 否定されたことは幾度もある。
 鈍いとかだらしないとか、挙げていけば限がないし、挙げて寄越した相手も数える暇がない程だ。
 だから大したことでもない筈なのに、はこれ以上ない程に凹み、その理由も定かでない。
 こうなったらやれることは一つだと、小喬の元を辞した後は自室に篭もってずっと酒を煽っていた。
 朧々とする視界とは裏腹に、酔いが回った筈の思考は一向に曇る様子もなく、却って雑然と乱れた経緯の筋を綺麗に整理してくれてしまった。
 が望んだのは酩酊して潰れてしまいたいという一庶民のささやかな醜態であり、何も自分がどうして嫌だと思いどうして腹を立てたのか理路整然とさせて深く飲み込みたかった訳ではない。
 我ながら何という天邪鬼かと、の口元には自嘲が漏れた。
 を叱り飛ばしてきた人達、例えば趙雲なり馬超なり春花なりと当帰が異なる点といえば一つしかない。
 前者はの考えまたはその行いを否定して叱ったのであり、当帰は、が唯一頼みとする『才』を否定した。
 言葉に直せばそれだけの、だがそれだけに明瞭にを落ち込ませる相違だった。
 誰もが感心し魅了されるの歌、あるいは絵、そして物語を語る才を、当帰は『こんなもの』と一蹴した。
 当帰はそんなつもりではなかったろう。
 あくまで、自身の評判を案じ、が傷付かぬ前にと焦って叱り付けたに違いない。淫書の執筆者など、普通は好奇の目か白い目かでしか見られないものだ。特にの立場では、『架空の物語』として見られるより実体験を題材に赤裸々に告白した物語と取られる算段が高かった。
 見知らぬ者は無責任に囃したて、に触れた男達はこれは自分ではあるまいか、あの男ではあるまいかと妄想を掻き立てられよう。
 面白半分で書いたのではないというの言葉は、ならば尚更と当帰を焦らせ追い詰めたのかもしれない。
 心情を理解できれば、相手に対しての怒りは緩まる。
 とは言え、緩まったから自分の非を認め、素直に詫びることが出来るというものでもない。
 がこの地でやっていけると縋ってきたのは、持て囃される歌や物語の『才』に他ならなかった。
 褒め称えられる程上手い訳ではない、自分が作った訳でもない、そんな歌や物語を『知っている才』は、縋って落ち着く為にはあまりに頼りなかった。
 他の、本当に歌が上手いひとがの知る歌を歌えば、の立場はすぐにもなくなるだろう。
 語って聞かせた物語は、いつか広まりが話して聞かせる意義を完膚なきまで失うに違いない。
 いつかはなくなるだろう価値の頼りなさを、他ならぬは心底理解し尽くしていた。
 だからこそ、派生ではあったが新たな切り口たる『創作』を『こんなもの』呼ばわりした当帰に対しての強い不信感が拭えない。
 二喬の為に書いているのだと説明しても、頑として引いてくれず、むしろそれだからこそ許せないと言わんばかりだった当帰の態度は、仲良くなるしか外交の勤めを果たせないに取って、無能役立たず呼ばわりされるに等しい。
 どんなにを思ってくれているにせよ、当帰の為しようはを根底から拒絶するものに他ならない。
 だから嫌だったのだ。
 分かったところで為しようはない。
 当帰に説明しても、恐らく理解できないだろう。
 理解した振りはしてくれるかもしれないが、の立場は実に微妙だ。似たようなネタに事欠かなければ、また似たようなことを繰り返すに違いない。
 確信できてしまうような視野の狭さが、当帰から感じられていた。
 他の事ではあまり感じない、自身に関してのみ発揮されるその短所は、恐らく人に訴えても実感されるものではなかろう。
 けれど、大切な公績坊ちゃんが任された女だからだと言うには、あまりに度が過ぎている。
 は、当帰の自身への執着を肌身で感じることはあっても、その理由までは知る由もない。ただ、今回の件で当帰を『親切なだけのいいひと』とは思えなくなっていたのは事実だ。
 『辞めてもらう』の一言も、こうなってみれば単なる勢いだけではなかったのだと気付かされる。
 せめて、凌統が居れば話は違っていたかもしれない。
 ふっつり黙り込んでしまったを、周瑜は居心地悪げに見詰めた。
 執務の最中に小喬が飛び込んできた時は、いったい何事かと目を剥いたものだ。
 小喬は、天真爛漫で物事にこだわらない性質ではあっても、周瑜が携わる執務の重責を無視するような娘ではなかった。
 それを敢えて破ったからには、とてつもない難事が小喬に起きたのだと慌てた。
 実際は先日滔々と言って聞かせたの件で、しかも正直くだらないの一言で済ませたいようなことだった。
 それでもわざわざ出向いてきたのは、当帰が孫堅並びに黄蓋の尽力(ごり押し)の賜物によってに付けられた家人であり、城に上がるようになってわずか数度で解雇とあっては二人の面子が丸潰れになると恐れてのことだ。
 妻の顔を立てる為ではなく、あくまで君主並びにその腹心と同盟国の契りを重視してのことだと自らに言い訳するが、やはり苛立ちも溜息も消えてくれはしない。
 遠回しに言い含めるのも馬鹿らしく、周瑜は率直に述べることに決めた。
「小喬から話は聞いた。当帰のことだが」
「聞きたくありません」
 すげないにも程がある棘を含んだ声音に、周瑜の眉尻は跳ね上がる。
「話も聞かぬ内から何だと言うのだ」
「どうせ、辞めさせるなとか何とか言いに来たんでしょう。お断りです」
 自分の家人なのだから、自分の不都合で辞めさせて何が悪い。
 可愛げのない口振りに、周瑜は容易く挑発された。
「お前の為に、大殿がご尽力下さったことだぞ。それを軽々しく」
「頼んでませんもん」
 孫権相手ならいざ知らず、孫堅がしてくれたのは自分が掘った不始末の穴埋めに過ぎない。
 雇ってみたものの過ぎた口を叩く相手を、家人として置けなくなったと言って何が不都合か。
「何なら明日にでもお詫びに行って来ます」
「それで済む話と思ってか」
「じゃ、精々体を清めておきますよ」
 が何を言わんとしているのかが知れ、周瑜は激怒に沸き立つ感情を必死に抑えた。
 出過ぎた口はどちらだ、と怒鳴りつけてやりたかった。
「……すみません」
 周瑜の胸の内を読み取ったのではあるまいが、は静かに頭を下げた。
 ようやく怒りを鎮めた周瑜は、どうも穿った口を聞きたがるに少しばかりの違和感を感じる。
「どうしたと言うのだ、……」
 お前らしくもないという言葉は飲み込んだ。
 親しくも長くもない付き合いで留めておくには、不適切な言葉だった。
 は俯き、俯きながらも酒を煽る。
 周瑜を前にして豪快な呑みっぷりに、呆れを通り越して感心すら覚えた。
「……どうして、小喬殿叱ったりするんですか」
 思い掛けない会話の転換に、周瑜は意表を突かれた。
 慌てる余りに冷や汗を掻いている周瑜を余所に、は酔った口調で続けていく。
「好きな人との初めてのこと、妄想したり知りたがったりしちゃ駄目だって言うんですか」
 周瑜は溜息を吐く振りをして呼吸を整えた。
「……妄想だの、知りたがるのは構わぬ。だが、お前の為しようはおかしいと判じたまでだ」
 密かに語り明かして笑いさざめくのは構うまい。
 だが、のようにあたかも手解きの書として書き記すなど、破廉恥極まる。
 閨の中で夫婦で『学習』することもないではないが、そんな時に用いられるのは他愛もない塑像や春宮画の類であった。
 決して、綿々とした細やかな感情を書き表したものなど使わない。
 の記した話は細やか過ぎて、読み手の色情を悪戯に煽る。
 薄暗い閨で読めるようなものではないから明るい時間に夜に備えて読むものと断じる他なく、大変『いかがわしい』代物と言わざるを得ない。
 そのいかがわしい代物を、書いて読んでいるのが蜀の文官であり呉に名花ありと謳われた二喬だと聞けば、周瑜が血相変えても致し方なかった。
 たん、と軽くも高い音が周瑜の言を遮る。
「そりゃあ、私は閨の作法なんか存じちゃいませんよ。間違ったことを書くかもしれないし、実際はどうなのか、どうやるのかなんて教えきれるもんじゃないと思いますよ」
 卓に叩き付けるようにして下ろした杯を弄びながら、はぶつぶつと不満を並べる。
「でも、そちらはどうか知りませんけどね、女の子だったら、これは子作りの為なんだって思いたかぁないんですよ。ただ子供作る為に腰振ってるだけなんて、絶対思いたくないんです」
 赤裸々な言葉に、周瑜の頬が染まる。
 知ってか知らずか、の言葉は益々過激に、相手を選ばなくなっていった。
「好きな男に触られるから濡れるんですよ。あんなとこ触られたり舐められたり、普通に考えたら気持ち悪いだけじゃないですか。そうじゃない、そうじゃなくって、愛してるから抱き締めたくって、愛してるから突っ込みたい、だから濡れて欲しい、身も心も思いに応えて欲しいって思ってるって、少なくとも自分が欲しいって思ってるんだって分からなけりゃ、気持ち悪いだけなんですよ」
 酔いのせいか、文脈にまとまりもなく分かり易いとは言い難い。
 何より露骨に過ぎて理解に及ばないのだと、は分かっていないようだった。
「男なんて、ちょっと興奮したら勃起して固くなるなんてな、分かってんですよ。でも、分かんないなら分かんなくていいことじゃないですか、そんなの。何度もやってればその内分かるんだから、最初の内はとにかく、怖くない、気持ち悪くない、気持ち良くって嬉しいことなんだって、そこのところをまず分からせなくちゃ駄目じゃないですか。何で分かんないんだろう」
「……否」
 そう言われても、困る。
「何が否、ですか。あんた、突っ込まれないからそんなこと言えるんだ。一遍でいいから突っ込まれて見なさいよ。体の中に何だかよく分からない硬いもの突っ込まれて、それでぐりぐり掻き回されるんですよ。しかも、抜けないように先っちょ膨らんじゃってるんだから。抜けないんだから」
 は、『人体の不思議』がどうこうと絶好調で喚き散らしている。
 指先で輪を作り、動きを模しているのかすこすこと指を出し入れし始めた。
「こんなにされるんですよ。も、好き勝手やられたら、こっちだって分かるんだから。分かりますか。分かんないでしょう。女の子は、怖いんだから。特に、初めてなんかものッ凄い怖いんだから」
「男とて」
 いい加減にしろと周瑜はキレて、うっかりと口走ってしまう。
「男とて、怖……」
 はっと我に返って口元を押さえるも、はきょとんとした顔で周瑜を見詰めている。
 しまったと思うも、後には引き返せない。
「その」
 何とか誤魔化そうと足掻いていると、扉がきしんだ音を立てる。
「……殿」
 が飛び上がるようにして立ち上がる。椅子が音を立てて引っ繰り返り、その音に釣られるように扉の前で控えていた男が飛び込んできた。
殿!?」
「……太史慈殿」
 太史慈は、呆気に取られると周瑜の顔を見て、ややばつの悪そうに視線を逸らす。
「……否、言い争うような声が聞こえたもので、な……扉に閂が掛けられて居らなかったもので……勘違いをした。すまん」
 改めて勘違いをしたような太史慈に、は矢も楯も堪まらず太史慈の側に駆け寄る。
 太史慈は複雑そうにを見下ろし、周瑜をちらりと振り向いた。
「……明晩、出直すことにしよう」
 にのみ聞こえるような囁きは、吐息のようにの耳を嬲った。
 思わず耳を押さえて赤面するを、太史慈は切なげに見詰めて室を辞した。
「お邪魔致した。……知らずにしたこととは言え、無礼を許していただきたい」
 閂は掛けて置かれるがよろしかろう、と周瑜に頭を下げ、太史慈は扉を閉める。
 重量感のある足音が、静かに遠ざかっていった。
 うわぁ。
 言い訳をするべきだったかと後悔する。
 気配を感じて振り返ったは、周瑜が杯に酒を注ぎこんで一気に煽る様を見た。
 らしからぬ粗雑な振る舞いに、呆然とさせられる。
 周瑜はを見向きもせず、一杯、二杯と杯を重ねていった。

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