「太史慈殿は、ちょっと相手甘やかし過ぎると思います」
 寝不足で腫れた目を擦りながら、はぶつぶつと苦言を漏らす。
 言われた太史慈の方は、至って元気で爽やかに笑っている。
「甘やかさせていただいた分は、きっちり絞らせていただいたと思うがな」
 汗の匂いが残る髪に口付けを落とし、太史慈は未だ夜も明けぬ薄闇の中を帰って行った。
 古典の世界などでは、こうして通ってきた男を見送る艶っぽいシーンをよくお目に掛かるが、今のはあの時代の男女はずいぶん体力があったのだと感心するのみだ。
 回数に差があるかも知れないとは言え、致した後の疲労感といったら堪らない。寝汚い性質も手伝ってか、夜明け前に起き出して男を送り出すという慣習は、には酷く辛い類のものだった。
 面倒臭いと言ってもいい。
 よくよく考えるに、太史慈に限ってはこうして必ずに見送りをさせる。
 閂を掛けなくてはならないということもあるのだが、何とはなしにに見送りをさせることそのものに意義を見出しているような節があった。
 これが太史慈なりの束縛なのかもしれない。
 関係を持つ以前の時は小心もいいところだったのに、いざ関係を持った途端、太史慈は酷く大胆になった。
 踏ん切りをつけたのは酒の勢いだったろうが、そんな太史慈をは拒めないで居る。
 むしろ、快く思っているような気さえした。
 結局、太史慈が本当に踏ん切りを付けたのはが太史慈のものを咥えてしまうという暴挙に出たからだったろうし、も、酔っていたとは言え太史慈のものを目の前に晒されたからと言うどうにもならない理由で咥えたことに変わりはない。
――何と言う女じゃ、男心を弄びおって。
 誰かに説教された文句が浮かび上がる。
 事実を指摘されて面白いとは思わないが、不思議と傷付くことはなかった。
 これは誰に言われた言葉だったかと記憶を手繰り、ああ、と深く納得する。
 張昭だ。
 亀の甲より年の功と言うが、過ごしてきた年数の長さを顔の皺に刻みつけた張昭の言は、歯に衣着せないものではあってもを傷付けるものではない。
 その目的がを躾ける、もしくは教授することにあると確実に分かる相手だからこそ、は半ば反射で沸き起こる自尊心や反感を引っ込めて素直に耳を傾けることが出来る。
 新しい竹簡を引っ張り出す。
 今日の今日でいいものか、本当は心許ない。
 駄目元だと思い切り、は墨と筆の用意をした。

 幸い、張昭はの急な訪問を受け入れてくれた。
 手土産でも持参したいところだが、生憎何も持ち合わせがない。現代と違い、行き掛けにちょっと、という訳にはいかないのだ。
 しかも、自分の外出の際には訪問先から迎えの家人がやって来るということを失念していたは、身一つで押し掛ける厚かましさに殊更恐縮させられる。
 御付の者も護衛兵も持たないが誰かを訪問する際は、例えから望んでの訪問であっても、先方の家人なり兵なりが迎えに来る。
 更に付け加えれば、に無礼を働いた兵の話が伝わったものか、迎えは必ず二人ないし三人付くという仰々しさだった。
 人数が多くなればなるだけ結託した時の凶暴さは計り知れないが、人間と言うものは上手くしたもので、早々レディスコミックのようなご都合展開にはならないらしい。互いに相手を牽制し合い、見張り合うことで、そんな悪さをしでかそうという気持ちを萎えさせるようだ。
 有難いような恐れ多いようなで、の態度は、女とはいえ位が上の者のそれとは相当掛け離れている。
 危ういところを助けてもらった農民の女房ないし娘のようで、迎えに出たことのある兵士達の間では語り種となっているような始末だった。
 そんな有様で、身を縮込めるようにして張昭の屋敷を訪れたは、案内された東屋に用意されていた酒肴の仕度に思わず天を仰いだ。
 まだ燦々と日差しが降り注ぐ頃合である。
 昼日中から酒、という歓待がなかったこともないが、それにしてもこの『呑むぞ!』と気合の入ったような仕度には少しばかり引いた気持ちにさせられる。
 の私室に置いてあるような大き目の甕まで運ばれていて、それはもうがっつり呑む気満々にしか見えない。
 張昭は、さっさと人払いして呆然と立ち尽くすを手招く。
「お前さんに、急な呼び出しに快く応じた年寄りに報いようという心構えは、ないのかね」
 わざとらしく腰を撫でたり叩いたりする張昭に、はそれでも慌てて拱手の礼を取り、招かれるまま東屋の席へと腰を落ち着ける。
 まずは一献と勧められ、杯を受ける。
 白濁した酒は素朴な味わいで、まだ肌寒い時期に暖を取るにはぴったりそぐっていた。
 二度三度と杯を満たし、体が温まった頃に、張昭から話の口火を切った。
「で、今度はどんな色恋沙汰の教授をされたいと言うのかね」
 噴き出さなかったのが奇跡だった。
 代わりに、酷く咽てのた打ち回る程度の羽目には、なった。
 張昭は涼しい顔で、が落ち着くのを待っている。
 放置されるだけされると、は赤い顔を上げて姿勢を正した。
 顔が赤いのは、無論咽たからだけではなく、易々と見抜かれた底の浅さを恥じてのものでもある。
「どうして……分かったのか、訊いてもいいでしょうか」
「お前さんが勉学で儂を頼るとは思えんからな。それなら、呂蒙殿を頼るじゃろう」
 ならばと考えれば色恋沙汰しかない、と張昭はあっさりしたものだ。
 実際その通りだから、もぐうの音も出ない。
 酒肴が用意されていたのも、変なところを変に恥ずかしがって口を重くしがちなを慮ってのものだったのだろう。
 何から何まで至れり尽くせりで、など釈迦牟尼の手のひらで踊らされる孫悟空でしかない。
 覚悟を決めて、深呼吸を一つする。
「は、はしたない話だとは思うんですが」
「くだらん前置きはいいよ。何が知りたいのかね」
 未練がましく言い訳しようとしてしまうを、張昭はきっぱり切り捨てた。
 は勢いを付ける為に杯の酒を一口煽り、ぴしぴしと平手で顔を叩いて気合を入れる。
「こちらの、あの、お嫁入りをする前に覚える作法として、お牀入りの話を聞かせる、というのがありますよね?」
 思い掛けなかったのか、張昭は一呼吸間を置いた。
「……らしいな。儂は男ゆえ、詳しくは知らんが」
「そ、それで……結局、何と言うか、一応教えるのは教えるようなんですけど、相手の、旦那さんになる男の人に万事任せなさいって、そんな教え方みたいなんですよ、ね」
 張昭はふぅんと頷いて、杯をふっと傾けて話の続きを促す。
「で、ちょっと私、事情があって……お牀入りは未だ先だけど、お牀入りのことを教えてあげるって約束をしちゃってて、で、口で説明するのはどうも駄目で、だから、お話を作って……物語にして、何と言うか、どうするんだっていうのを教えることにしたんですけど……ある人にそれを見られちゃって、物凄く怒られて。……そういうのって、やっぱり駄目なもんなんですか?」
 張昭は杯をちびりと舐めて、首を傾げてを見遣った。
「どうも、要領を得んな」
 が首をすくめてすみませんと詫びると、張昭は再度杯をちびりと舐めて、卓に置く。
「つまり、こういうことなのじゃろう? 小喬殿、あるいは大喬殿にせがまれて、牀入りの作法を記した話を書いていたのを、先日雇い入れた侍女だかに見つかってお目玉を食らったのが、どうしても納得がいかなくて儂に確認しに来た、と、そんなところなのじゃろう?」
 驚いて声が出ない。
 張昭は年の割には子供じみた笑みを浮かべ、してやったりと言わんばかりに深く頷いた。
「それぐらい、分からんと思ってか」
 周瑜のところにが雇い入れた侍女だかが怒鳴り込んだことは、疾うに城内の噂となっている。
 理由は定かでないが、明瞭な罰も咎めも与えられないまま城下に引っ込んでいると聞いているところに、の煮え切らない話である。
 辿っていけば、牀入りの作法を教えてくれと強請る相手も限られる上、怒鳴り込んだ先を思い起こせば小喬が確実に絡んでくるのは必定だった。
「言葉を濁して時を浪費するでない。お前さんは隠し事が酷く下手なのだと、これで自覚出来たろう。さぁ、分かったならば包み隠さず素直に白状することじゃな」
 ぴしぴしと指摘され、は却って口篭る。
 自分の恥ならいざ知らず、事は二喬の恥にも繋がるのだ。それなら遠慮なくとはいかないのが当然だった。
 俯くを見ていた張昭は、ふ、と溜息を吐くと肘を突いた。
「これは、儂の一人言じゃ」
 前置きして口を開いた張昭に、は深く頭を下げた。
「女の考えは知らん。ただ、その手の教えを与えるのに絵なり磁器なりが使われるのが通常らしい。であれば、その手の書があってもおかしくないと儂は思う。……じゃが、それは絵にしても磁器にしても、無論書であってもあくまで書き手知らず、作り手知らずとならねばならぬ。この国は恥と言うものを尊重するでな。そのくせ、男女の交わりには多大な関心が在る。これは、例え儂のような年寄りであっても変わらぬ。儒の教えが多情を禁ずるのは、禁じなくてはならぬ程奔放に過ぎて、目に余るからこそじゃ。子は枝葉という教えは、決して子を粗末にせよという教えに非ず。親在ってこそ子は在るが、枝葉も無闇に刈り取れば幹を枯らせ根を腐らす。それ故に戒めよと、そういう教えじゃ」
 出来た生んだ捨てたでは人の道は愚か人の暮らしさえ成り立たなくなる。
 だからこそ、生まれた命がきちんと育まれるよう、父と母とを確立させて育てさせる為に乱行は控えるべきなのである。
「子供など、情欲の成れの果てと言い切る輩もおるがな。それでは人は汚物と変わらぬ。儂には、そのような考えは認められぬ」
 真理がすべて通るのであれば、何も問題はない。戦でさえ起こらなくなる。
 だが、現実に戦は起こり、真理は曲げてねじ伏せられる。
「まぁ……何れが真理か、等ということも必ず論じられようが……おおよそは、そんなところであろ」
 張昭は杯を取り上げ、乾いた喉を潤すようにごくごくと飲み下した。
 は、張昭の言をしばらくぼんやりと噛み締めていた。
 書くことそのものは罪にはならない、というのが張昭の主張だった。
 但し、そんなものを書いていると知られるのは恥も恥、咎められて当然なのだとも含めた。
 それは、この国に置ける性愛への関心の強さを逆に浮き彫りにしている。下手をすれば国そのものが乱れてしまう恐れがあるからこそ、儒の教えは厳しくそれらを制圧し、押さえ込もうとするのだ。
 儒者からの弾圧は、その者の命を絶ちかねない。
 中央並びに地方の豪族達は、こぞって儒の教えに敬服しているのが現状だし、下手をすれば豪族自身が儒家であることさえ多い。
 当帰が恐れたのはその辺りだろうし、その説明を略する程、自然で当たり前の話なのだろう。
 じゃあ、悪いのはやはり自分か。
「……そんなら、どうしたらいいんでしょう……」
 自然で当たり前と言っても、本当に浸透している考えであれば、そも大喬がの申し出をあんなに簡単に受けるとは思えない。
 儒家である張昭、商人である当帰だからこそ、その危険に気付けるのだとしたら、から二喬を説き伏せるのはかなり厄介そうだった。
 の進退、命に関わるからと言えば、二喬は決して食い下がりはしないだろう。
 けれど、萎縮して、自分達が浅はかなばかりにに酷い迷惑を掛けたと勘違いするに違いない。
 そうではなく、自身も浅はかだったのだと言っても、二喬は聞き入れずにただ自分達をのみ責め続けるような気がした。
 それは、嫌なのだ。
 この期に及んで、は二喬と仲良くしていたいと思っている。
 自分に自信が持てず、だからこそこそと逃げ出そうとしたをとっ捕まえて、思い切り喧嘩をしてくれた大喬を、を気遣い、慕ってくれる小喬を、むざむざ手放したいとは思えなかった。
「相手の殿方に、任せたらどうかね」
 事情を知らない張昭は、至って呑気に答える。
 そう言われても、大喬はともかく小喬の相手たる周瑜は、女を抱いたこともなければ相談に乗ってくれそうな相手も居ないのだ。
 当人も漏らしていたが、既に百戦錬磨と目されている周瑜に与えられた重圧は凄まじいものがあるようだったし、そんな状態から教えを請うことも、真相を察して教えてやろうと言う輩を期待することも出来ないに違いない。
 張昭も、恐らく周瑜を『百戦錬磨』と目しているのは態度から見て知れる。
 ともかくと一旦置いた大喬の相手も、今は訓練とかで何処かへ行ったままなのだから頼りにはならない。
「……私がしてるとこ、見せて遣れ、とか、言った人も居るんです……けど……」
「ほう、ほう、それはなかなか妙案じゃ」
 話の繋ぎに性質の悪い冗談として披露したつもりのは、張昭の乗り気な発言に愕然として卓上に突っ伏す。
「どうした、相手の男に困るようであれば、儂が勤めてやろうが如何じゃ」
 如何も糞もない。
 むっつりとして睨め付けるに対し、張昭はからからと笑うばかりであった。

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