自分の室に戻って来た頃には、日は早くも暮れていた。
 通り掛けに夕食の伺いを立てられ、室の方へ運び込んでもらったのはいいものの、疲労からか食はそれ程進まなかった。
 張昭から仕込んできた知識は、が予め知り得たものを遥かに凌駕していた。
 中原と一口に言っても広い。
 儒という戒めに縛られているからにはさぞや規律正しかろうと思っていた性生活は、現代人の解放的なそれより更にずっと開放的だった。
 薔薇百合の類は言うに及ばず、様々なフェチズムも確立され、未だ綿々として残る集団婚並びに近親婚の風習は推奨すらされる地域もあると聞かされた。
 娯楽が少ないが故に、数少ない娯楽に値する性行為は様々な派生を生んでいる。
 思い起こせば、ゲーム中でも台詞として使われている酒池肉林という単語の起源そのものが、『えらくヤバイ』代物であることを忘れていた。
 知識として披露されるが故に開けっぴろげな張昭の言は、を赤面させるどころか青褪めさせるに至る。処女や童貞を交えて乱交パーティーもどきを繰り広げる地域もあると聞いては、青褪めない方がどうかしているとさえ思えた。
 もっとも、それらはが考えるよりももっと純粋で正当な、儀式に近いものだという。
 無知な者同士、二人きりで交合するよりは余程危険が少ない。
 目の前で『手本』が示され、これらの行為が自然なものであると感覚から教え込ませる。作法やしきたりを理解し、無理無茶な行為を抑制するという意味では、これ以上容易な方法はあるまい。
 衛生及び病理のことを考えなければ、確かにそれらは有効な策なのだ。
 周瑜がその風習を持つ地域の出身であれば、あんな風に荒れずに済んだに違いない。
 だが、でもやはりという気持ちが強い。
 が持つ倫理観は、それこそ歴史が積み上げてきた禁忌の成果に他ならないと分かって尚、じゃあ私だってとはどうしても思えなかった。
 当たり前だと張昭は嘯く。
 儒者として、目の前で『じゃあいいですよね』等と言われたら、例え女でも一発食らわせたくなると物騒だ。
 ただ、の存在そのものが矛盾である以上、下手な争いが起こるよりはふしだらで居てくれた方がナンボもましだということらしい。
 また、が悩んでいるからこそ、男達にもそれ以上を躊躇わせる歯止めとなっているようだ。平然としているよりは、形だけでも(形だけ、と言われると、本気で悩んでいるつもりのには正直不満が残るのだが)反省して、悩んでいた方が同情を引く。
 存在を消して済む人間ではないからこそ、現状が一番妥当な状況なのだ。
 蜀の文官、諸葛亮の珠と言われることのみでもの存在は相当に重い。
 がうじうじ行きつ戻りつ悩んでいるのを止めようとは思わないが、意を決してすべての男達を拒否されるよりは、居直って全員『食って』くれた方が有難いと言う。
 へこむよりは疲れ切って、はずぶずぶと沈んだ。
 張昭は笑って、女から聞いた話だと断った上でこんな話もしてくれた。
 女というのは、好きな男以外には感じないものだそうだ。
 だから、その言を取るならば、が自分を淫乱と責めるのはまったくの間違いで、単に好きな男が複数居るだけということになる。
 淫乱と多情、どちらが良いかは微妙だが、その例えはの視界をまた少し新鮮にした。
「少しでも気を許さぬ男に、女は感じぬものだとさ」
 張昭は手酌で酒を足しながら、穏やかに話してくれた。
「お前さん自身、決して許さぬ相手と許す相手とは、線引きできていることになるのではないかね」
 だから試しに儂と、と繋がるところはげんなりするが、もわずかな負けん気を発揮して言い返す。
「それでもし、私がどうこうなっちゃったらどうすんですか」
「勿論それは、お前さんが儂に好意を持ってる証じゃないかね」
 難なく遣り返されてしまったが。
 それでも、煮詰る程に悩んでいた時よりはだいぶ気持ちが軽くなった。
 視界が新鮮になることで広がりを持ち、余裕が出来たのだ。
 当帰との言い争いのことも、テキストでの教示に拘ってきたけれど、ならばいっそ根底から考え直し、大喬達にはその手のシーンを省いた恋物語として改めてラストまで書くと提案してみようかという気にもなる。
 そこのところは当帰に交渉して、何であれば添削させてエロシーンがないことを確認してもらっても良い。二喬達には口頭でこっそり教えれば良かろう。
 最悪、星彩の時のように実演するしかないかもしれないが、それはあくまで仮定の話だ。二人とも旦那が居る身の上ではあるし、別にを欲情させてむにゃむにゃ、というつもりもなかろうから多少は安心(?)かもしれない。
 ふと、周瑜に成否の判断を委ねてしまったことを思い出した。
 忙しいのに押し付けてと反省こそしていたが、こうなると、何故もっと早く張昭を頼らなかったのかと悔やまれる。
 あまり遠慮し過ぎていては駄目なのだ、頼るべきところは頼らないとと誰かが言っていた。
 誰だっけ。
 意識が逸れて、そちらに集中する。
 散漫な思考は、の思考が日常のそれに戻った証と言っていい。悩んでいる時は、同じところをぐるぐると回るだけ回る。
 は早速、自分の予定を記した竹簡を解いた。
 明日か、無理なら明後日にでも、とにかく早めに当帰に会いに行こうと決めていた。
 会って、自分が悪かった点を詫び、当帰にこうして欲しかったと思うところを述べ、話し合って和解してもらうつもりだ。
 遊びのこととは言え、母と呼ぶ人に無意識に甘え過ぎていたのかもしれない。
 身内と定めた人にばかり、べったり甘えるところがあるのだ。嫌われたくないのであれば、最も気をつけなくてはならぬ点だった。
 好きだから甘えているのでも、それで相手を困らせたり傷付けたりするのでは本末転倒もいいところだろう。
 少しずつでも直さなくては、と思う。
 同じ反省を繰り返し、行ったり来たりして、どちらかと言えば後退ばかり目立つ己でも、それでも気付くべきに気付き目指すところを目指さねば期する成長は何もない。
 毎日を単調に繰り返しても怒られることはなかった現代とは違い、ここでは常に自分を磨かねば立つ瀬もない。
 なかなか厳しいけれど、ここで生きていくしかない身の上では甘んじて受け入れるより他ない事実でもあった。
 それに、そちらの方がいいと喜んだのは、他でもないだった。
 仕事中に雑誌を読んだりマニキュアの手入れをする同僚を厭い、その同僚に上手くあしらわれて贔屓するのを躊躇わない上司を厭っていたのがという女だった。
 同じようになりたくないと望み、望む通りの職場を手に入れたのだから、少しばかり理想と違っているからと文句を言える義理ではない。
 できれば、仕事と私事がもう少しすっきり分かれていてくれたらとか、恋愛事情と肉体労働の差がもう少し分かり易く区分けされていたらとは思うが、それは我慢しなければならない。かもしれない。
 とにかく外出の許可を取って、護衛の関係ではひょっとしたら先に延ばされてしまうかもしれないが、当帰と会う算段を取り付けようと予定を確認する。

 小さいけれどはっきりと名を呼ばれ、肩がぴく、と跳ね上がる。
 考え事をしている内に、だいぶ時間が立ってしまっていたようだ。暮れてから火を点した太い蝋燭は、その長さをかなり縮めてしまっている。

 繰り返される声は苛立っていて、中にが居ると確信した嫌味な押しの強さがある。
 けれど、それで相手が周瑜と覚ったは、慌てて戸口に向かった。
 閂を外すとそこには、疲れた顔の不機嫌そうな周瑜が立っている。だるそうに肩に竹簡を担いでいるのは、たぶんが依頼した件を出来得る限り早くこなしてくれた証だろう。
 媚びへつらうように上目遣いにへらへらとした笑みを浮かべると、周瑜の秀麗な美貌が一際厳しく歪められる。
 これは相当怒っている、と冷や汗を掻きながら入室を勧めると、鷹揚に反っくり返って入ってきた周瑜の体から、ほんのりと酒精の香りが漂った。
 おや、と思う。
 今宵は宴会がある等という話は聞いていない。
 周瑜の個人的な付き合いでの酒だろうかとも思うが、それならこんな時間にわざわざの室にやって来るのもおかしな気がする。
 酒の香りが残る程度にしか時間を置いていないのならば、伺ったにせよ迎えたにせよ、夜っぴて呑むことの多い土地柄だ。そのまま泊まり、となるのが普通だと思う。
 泊まる相手に詫びを入れ、わざわざ来てくれたと言うのならすぐに帰してやった方がいいだろう。
 閂の角棒を立て掛けようとしたの手を、背後から伸びた手が鷲掴みにした。
 の手から角棒を取り上げ、きっちりと閂を閉めたのは誰でもない、周瑜だった。
 無表情で、それ故に凄みすらある美貌が間近に見えたが、にうっとりする余裕はなかった。
 何故だか無性に圧倒されて、肝が冷える。
 怒っているからだろうかと考えるのだが、悪い予感が黒い霧のように心臓を包み込む。
 押さえ込まれてばくばくと忙しなく脈打つ心臓は、を無闇にうろたえさせた。
「……どうした」
 吐息混じりの微かな声が、の耳元に吹き込まれる。
 やはり、酒臭い。
 相当呑んでいるのではないかと思われた。
「お、お酒、呑んでこられたんです、ね?」
 世間話で間を持たせようと、は強張った口をこじ開けた。体は硬直して、背中から覆い被さるようにしている周瑜を甚く警戒している。
 くす、と短い笑い声が鼓膜を震わせ、の背中に汗が流れた。
「呑んでは、ならんとでも? お前が?」
 はびくりと痙攣して、その痙攣の元と成ったものを確かめるべく目を向ける。
 見下ろした視界の先に、誰だかの手がある。
 背後に居るのは周瑜なのだから、当然これは周瑜の手と考えるべきなのだが、信じ難いのはその手がの胸をやわやわと揉みしだいていることだった。
「……ずいぶん……柔らかいものなのだな……」
 やや驚いたような声に、やはりこの手は周瑜のものに相違ないと判断が下る。
 しかし、の感覚は一向に戻ってこようとはしなかった。あの周瑜が、まさかという気持ちがあまりに大きかったのだ。
 乳房を揉む手は、飽きもせずに同じ動きを繰り返す。幾ら何でも、これはないと思い始めた。
「あの」
 が声掛けても、二つの手が二つの乳房を弄るのを止める気配はない。
「周瑜殿、あの」
 名前を呼んで、初めて手の動きに変化が出た。
 出たのは出たが、有難くないことに揉みしだくだけだった手が乳房の形を確認するかのように変化しただけだ。
 呆然とするままに周瑜の顔を見上げると、周瑜はやはり無表情だった。
 この手は本当に周瑜のものかと考えてしまう程の冷静な様に、はもう一度胸を撫で回している手に視線を落とす。
 まるで催促されたと勘違いでもしたように、二つの手はするするとの下腹部に伸ばされた。
 さすがに思うところあって、あたふたと取り押さえた瞬間、の視界が激変した。
 斜め下に流れるように歪んだかと思えば、痛みと共に床に引っ繰り返っている。
 思わず閉じた目を開ければ、至近に周瑜の顔があった。
 勢いで目を閉じると、前歯の辺りにがつんと衝撃が走る。
 口付けられていると分かったのは、温かく湿った感触が唇を覆ったからだ。
 しかし、からしても周瑜の口付けは下手過ぎた。に併せさせようともしない舌の動きはただただ粗雑で、美周郎の異名にそぐわない。
 周瑜は、構った風でもなく、あるいはその余裕もないのか熱心にの唇を貪っている。
 執拗に重ねていたのがようやく外されると、周瑜は息が上がったように喉をぜいぜい鳴らしてを見下ろす。
 転瞬、の襟が大きく寛げられ、外気の冷たさが肌を粟立てた。
 眩そうに目を細めた周瑜は、今度は直に乳房を掴む。
 最初は遠慮がちに、徐々にこねくり回すように大胆になる手の動きを、は何ら抵抗もせず見守っていた。
 好き好んで見守っている訳ではない。
 あまりにあまりな事態に、意識が付いて来ないのだ。
 乳頭が固くしこっているのは、周瑜の指先が転がしている感触で分かる。
 気持ち良くはなかった。
 嫌という訳でもないが、何も感じない。
 周瑜が唇や舌で懸命に(何とはなしにそう感じた)乳首を吸い上げるが、それでもやはり感じるものはない。
 何をされているのか理解が出来ず、ぽかんとして見ているだけだ。
 こんなことは初めてかもしれない。
 張昭の言葉を思い出す。
――許さぬ相手と許す相手とは、線引きできていることになるのではないかね。
 そうなのかもしれない。
 周瑜の指が、裾を割って内腿の間に滑り込む。
 下着の上をかさこそと這いずり回る指は、くすぐったくはあっても淫靡な快楽を生むものでは決してなかった。
「……あの、何をしてるんでしょう、か……?」
 戸惑いの濃い声に、周瑜の手が止まる。
 ことん、と腰を下ろして胡坐を掻いた周瑜は、まるで敗戦の将のように表情を暗くして肩を落としていた。
 起き上がったは、胸元を押さえながら恐る恐る周瑜を伺う。
「……すまなかった」
 掠れた声は、酷く疲れたものだった。
 が思わず首を横に振ると、周瑜の口元が緩く弧を描く。
 どう見ても、自嘲の笑みだった。
「あの……どう……何か、ありました?」
 何をどんな風に訊いても間抜けになる。
 状況からして、周瑜がを襲おうとして失敗した訳だが、そもそも何故周瑜がそんなことをするのか分からない。
 そんなことをする男ではないからだ。
 周瑜は、ちらりとを見遣ると、まるで乙女のように頬を染めた。
 これは周瑜受けの皆さんは生唾モノですね、と固い空気を敢えて茶化しつつ、本当に何があったのだろうと不安は膨らむばかりだった。
「……なく、なった」
「はい?」
 意地悪するつもりはないが、今宵に限ってやたらと小さい周瑜の声が、輪を掛けて小さくなって聞き取れない。
 周瑜は居心地悪げに乱れた髪をかき上げ、不器用に更に乱れさせていた。
「その……つまり、……男、として、……役に、立たなく……」
 なった、という周瑜の声が、遥か遠くから聞こえてくる。
 絶句して大きく口を開けるを、この時ばかりは責めることもなく、却って責められたかのように頬を染めて俯く周瑜の顔を、はまじまじと凝視した。

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