有耶無耶の内に、の他に該当すべき言葉は見出せないでいる。
 周瑜の放った精で髪と顔とを汚したは、何も言わずに立ち上がり、周瑜に背を向けた。
 何をするのかと思いきや、極々自然に水差しの水で手巾を濡らし、汚れた髪や顔を拭いだす。
 ある程度拭き取った辺りで、ちらっと周瑜に目を遣って、短く『仕舞って』とだけ発した。
 未だ露にされたままで居た周瑜の肉は、放った時と同じように中勃ちに起き上がっている。
 先端から残滓の滴が垂れ下がっているような情けない姿に、周瑜は処理もそこそこ慌てて仕舞い込んだ。
 背を向けたままのが、『おやすみなさい』と追い打ちを掛けて寄こし、反論も行動も封じられた周瑜は渋々の室を後にした。
 そして、今日に至る。
 仕事が手に付かなくなるような愚鈍であれば良かったのだろうが、生憎周瑜が培ってきた王佐の才は、自身の問題と他事に当たる執務をきっちり分けて考えるように整えられていた。
 朝からこの方、執務室に籠り切りで山を為した竹簡を次々切り崩しては処理している。
 赤壁の開戦理由とて、二喬惜しさをのみ理由にしている訳ではなく、家臣として取り立ててやろうと言っておきながらその家臣の嫁を簒奪せしめんとする曹操の遣り口、またそれに服従するだろうと侮られる屈辱に耐え難かったからに他ならない。
 妻の簒奪は、男にとって自身の血脈を蔑にされることに他ならず、この中原で血脈を断つ行為は最大の蹂躙と言って良い。
 だからこそうかうかと諸葛亮の口車にも乗ってやったし、決死の覚悟の末に勝利をもぎ取ることが出来た。
 曹操との戦いにばかり気を取られ、その間に蜀を攻略する暇を与えてしまったことには未だに臍を噛む思いが残るが、いずれこの借りは返してやるつもりでいる。
 そこまで考えて、不意に蘇る昨夜の『失態』に滑らかに動いていた筆がぴたりと止まった。
 顔色こそ変わりようもないが、しかし黒々としたその眼にわずかながら動揺が滲んでいる。
 傍に控えていた文官がそれと気付く前に、外に控えていた衛兵から来訪者の知らせが届いた。
 が訪問してきていると言う。
 相変わらず家人を頼ろうとしない頑なさは呆れるばかりだが、これでも幾分かマシにはなって来ているとも聞く。
 髪を結ってやったの簪を挿してやったの、他愛もないことばかりではあるが、まったく頼ろうとしなかった頃に比べればましになったと言わざるを得ない。
 敢えて本人から意識を逸らそうとしていることに気が付く。
 軍略を企てる身としては、己の内なる思考をも冷静に分析しようとする傾向は歓迎すべき美点なのだが、殊更今に至って発揮されなくても良いとは思う。
 知識がまるでないとは言わないが、まさか口で事に及ぶことがあるなどとは考えもしなかった。
 小便を放つ個所である。
 男の象徴とは言え、躊躇わず口に含んだの淫事の手管には、正直目眩を覚えた。
 孫策に、していると言う。
 仕込んだのは、ならば孫策だろうか。
 豪放磊落で鳴らした孫策だけに、袖を引かれれば考え込むこともなく応じていたような節がある。
 さすがに大喬を迎えてからはおとなしくしていたようだが、それでも『処理』と称して悪さをしに出掛けていたらしいことも薄々察している。
 男にとって、『処理』は行わざるを得ない生理現象なのだ。
 周瑜とて、幾度かは誘われたこともある。
 けれど、その度薄く笑って断ってきた。何となく受け付けずに居たものが、その内『周瑜は女には飽いている』だの『自らに相応しい女でなければその気にもならぬ』だのとのっぴきならない噂が立つようになり、そうなると今度は迂闊に同行出来なくなった。
 今更女を知らないなどと、言える由もない。
 そんな周瑜を、最も付き合いが長く深いであろうあの孫策でさえ、微塵も疑うことはなかった。他の者は言うまでもない。
 いつからそんな見栄を張るようになったのかも定かでない。
 小喬という愛しい人を得て、娶り、心から喜ばねばならぬところに些細な影を感じていたのもそのせいだ。
 だが、孫策が大喬との初夜を先延ばしにすると聞き及び、賛同することで切り抜けられた。
 ほっとしたのも束の間、小喬が可愛らしくも頬を染め、周瑜に相応しい妻になってその日を迎えられるようにすると告白した時点で、小喬の耳にもろくでもない噂が届いていることを察した。
 夫となる人のことであるし、噂好きの姦しい女官も多かろうから、衝撃を受けるようなことでもない。
 しかし、これで周瑜は時限付きの試練を負うことになった。
 元より気に病み過ぎると称される細い神経のせいか、周瑜の淡白な性は更に淡白さを増した。
 淡白さは冷静さと取り違えられ、周瑜の有り難くもない『噂』を強固なものへと転じさせていく。
 二進も三進も行かないとは、正にこのことだ。
 その上で、あのようなあられもない『乱行』に出くわせばどうなるか、周瑜は改めて骨身に染みた。
 未だ猶予はあると悠揚に構えて居たのだが、考えを改めなくてはならない時期に来たのかもしれない。
 決してのせいのみならず、小喬の年と立場を考えれば、そうせざるを得ないと言うのが周瑜なりの結論だった。
 では、どうすべきかと考えると、正直手も足も出ない。
 まさか、と考え掛けて、慌てて首を振る。
 そんなことが出来よう筈もない。
「……周瑜殿?」
 別にいいのに、と言わんばかりに苦笑するの顔が消えない。
 良い訳がない。
 仮にもは孫策の想い人であり、如何に大殿たる孫堅から突拍子もない命が下された対象であったとしても、周瑜だけはうかうかとそんな企てに散じてはならぬ立場だった。
 皆が皆、その気になってを落としに掛かる不条理を、周瑜のみは敢然と反抗せねばならない。
 形だけでもそうあらねば、周瑜が周瑜として呉軍に在る意味がないとすら思えていた。
「周瑜殿」
 困ったようにが笑う。
 のせいではない、と思うには思うが、やはり事の発端がこの女にある以上、一切合財恨みはしないと言い切れるものでは到底ない。
「……出直しましょうか」
 と、ここに至って周瑜はようやく我に返った。
 見れば、脇に控えて居た筈の文官の姿はなく、卓を挟んで困り顔で立ち尽くすが残されているのみだった。
「昨夜も、遅かったから。ちゃんと眠れなかったんじゃないですか」
 お酒なんか、出さなきゃ良かったですね。
 の声が遠い。
「……周瑜殿?」
 不思議そうに周瑜を覗き込んでくるの視線を避け、周瑜は密かに呼吸を整えた。
 詫びなければ、と思い詰めるものがある。
 切っ掛けが何であれ、周瑜が致したことは無体以外の何物でもない。
 如何にが淫らがましい関係の直中にあろうと、それに周瑜が乗じていい筈がなかった。
 自分だけは、と期するところが大きかっただけに、犯した罪の重さは周瑜の胸の内をずしりと重くした。
「あ、すいません」
 周瑜が口を開いた途端、周瑜とは比べ物にならない軽さで、周瑜が言わねばならぬと急き込んだ言葉が発せられる。
 発したのは周瑜ではなく、だった。
「何か、変な呑み方したせいか、昨夜の記憶がほとんど飛んじゃってて……周瑜殿がいつ帰ったかも覚えてないんですよ。でも、閂はちゃんと閉めてたみたいだし、思ったよりは暴れたりしなかったのかなぁとも思うんですけど……あの……な、何か、したりしてません……よね?」
 うへへ、と恥ずかしそうに頬を染め、頭を掻くに、周瑜は掛けるべき言葉を失った。
 詫びなければとか、いっそこれを機に、などと一人あれこれ悩んでいたのが馬鹿馬鹿しい。
 の無茶な呑み方、事後に見せた常にない冷静な態度を考えれば、逆におかしいと気付けなかった己が恥ずかしくさえ思えてくる。
「……あの……やっぱり、何かしちゃいました……?」
 笑顔が強張り、心なしか顔色も青褪めて見えるに、周瑜は深々と溜息を吐いた。
「う……あの……?」
 最早取り繕おうとする余裕もなくしたのか笑顔が消え、組んだ指をもじもじさせながら落ち着きなく体を揺らす。
 後退もしなかったが前進もなく、ただうじうじと思い悩んだ恥ずべき自身と空回りに終わった騒動の結果のみが周瑜の手に残された。
 それはそれで、ある意味団円と言うべきかもしれない。
「……本当に、何も覚えてないのか?」
 疑り深く念を押すと、は困ったように眉を寄せた。
「私、何をしましたか」
 心底覚えてないのだと泣きそうな顔をするに、周瑜は、いっそすべてをぶちまけてしまおうかという胡乱な誘惑に駆られる。
 だが、それをするには多少の矜持が邪魔をした。
 周瑜自身の、そして男としての最たる部類の恥を暴露することを、周瑜は良しとは出来なかった。
「……否、何でもない」
 結局、流した。

 周瑜の室を出て、衛兵に頭を下げる。
 相変わらずおかしな顔をされるが、には未だこの辺の機微が理解出来ないでいるので仕方がないとも言えた。
 四民平等の世にあった者が、平等でない生活に慣れるのにはかなりの労力が必要とされる。
 戸を開けてもらった、有難う、物を運んでもらった、有難うという具合に、礼を言うことなど当たり前のことだと信じ込んでいた。
 それは確かに、施された親切に無反応で居たり、逆に頼んでないとばかりに不機嫌を気取る『お貴族様』達が居なかった訳でもないが、大抵の人々はちょっとした親切に対して素直に礼を述べるのが常だった。
 この手の人達には礼なんか言わないのが普通と言われても、なかなか馴染めるものではない。
 基本、上に対してのみへいこらすればいいのだと教えられていても、実践できないと言うのが現状だった。
 なるべくだったら馴染みたくないというの主張は、この世界の人間には受け入れられないかもしれない。
 外出一つとっても、幾度か狙われた経験はあっても今一実感がない。
 鈍いだけかもしれないが、優しく持て成される日々を過ごす内に退化していってしまう記憶だった。
 ついでだからと願い出た当帰の元への外出も、護衛の調整が整うまで待てと命じられ、待つには待とうが大袈裟なという感覚が強い。
 太史慈だけは外してくれ、と言おうとしたが、それでは話が合わなくなると思って口を噤んだ。
 忘れたなどと、真っ赤な嘘だ。
 酔いは回っていたが、記憶ははっきりしている。
 周瑜は、呑んで記憶を失える程に心を許した相手ではない。
 それと決め付けてしまうのも申し訳ない気もするが、実際そうだから誤魔化しようがなかった。
 心配して押し掛けたの予想通り、周瑜はうじうじと思い悩んでいたようだ。
 ならばと振った『酔いの果ての忘却』という『筋』に、周瑜が本気で乗ったかどうかは定かでない。
 いずれにせよ、一番円く治まるだろう筋書きに同意を得られたのは確かで、だから周瑜が今後この件でうだうだ言いだすことはないだろう。
 これ以上の厄介を、は恐れていた。
 孫呉コンプリートなど冗談だけにしておきたい。複雑に絡み合う人間関係を更に複雑にする利など見出せなかった。
 自室に向かう道すがら、太史慈にも釘を刺しておこうかとふと思う。
 行ってどうなるものでなし。
 すぐに思い直し、は再び自室に向かう廊下を歩き出す。
 周瑜の話からして、太史慈がわざとの痴態を見せ付けたことは明白だった。
 理由は定かでない。
 ないが、少なくともあの時の太史慈にを思いやる気持ちなど欠片もなかったことだけは分かる。
 そうしていいと思わなければ、出来ることではないからだ。
 そうしていいと、が言う筈もないことを理解しようともしなかったのだろう。
 は物ではない。
 太史慈の所有になった覚えもない。
 少なくとも、周瑜が童貞だから範を示してやろうという親切心でした訳でもなかろう。
 許す理由は皆無だった。
 線引き線引き、とは口の中でぶつぶつと呟く。
 太史慈の名が、のブラックリストに刻まれた。
 罪状は『猥褻物無理矢理陳列罪』、処罰は『接近禁止』となる。
 しばらくは顔も合わせてやんねぇと高飛車に決意し、廊下を足音も高くだかだかと歩く。
 流されやすい自分でも、今度という今度は流されてやらん。
 決意を踏み固めるかのように力強く廊下の床板を踏みしめた足が、びたっと止まった。
「…………」
「…………?」
 太史慈が、いぶかしげにを見下ろしている。
 こういうタイミングで会ってしまうのが、太史慈の最たる短所と思わなくもなかった。

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