強張った顔で見上げていたかと思えば、転瞬身を翻してすたすたと歩き出す。
 体格から生じる歩幅の差は、が如何に急ぎ歩こうが埋めるに至らない。
 それでも、露骨に太史慈を避ける様子のに心穏やかでいられるものでもなかった。
「……殿」
 思わず追い掛けながら声掛けるが、は振り向きもしなかった。
 わずかも振り向かない顔の線に、太史慈を嫌悪してはばからない強固な念を感じる。
「その……殿」
 気持ちばかりが焦る太史慈の声には、らしくもなく焦りの色が滲んでいる。
 しかしは振り返らない。
 どころか、太史慈を振り切ろうと躍起になって足を進めているのが分かる。
 何かあったのだろうかと察しようとしても、生憎思い付く事柄がなかった。
 心当たりがないではないが、それを耳にする可能性は無きに等しい。
 あの周瑜が、本人に直々に伝えることは考えられなかった。
 部下を通して、というのはあまりに馬鹿げているし、書簡で通達するような真似をわざわざするとも思えない。
 粋人で鳴らした周瑜であれば、その辺りは十二分に心得ていておかしくない筈だった。
 そもそも周瑜が、どういう理由からにせよのこのこと顔を出しにくるからいけない。
 わざわざ分かりやすいように戸まで開け放ってやった。
 自分が居る、訪ねて来ている、邪魔をしてくれるな……と意思表示のつもりでしたことだが、周瑜と思しき気配は何故か暗闇に身を潜めたまま、顔を出しもしなければ出直そうと引く気配もない。
 への仕置き半分、周瑜への威嚇半分でしたことだったが、行為に溺れて、気が付いた時には周瑜の気配は消えていた。
 念の為、扉を閉めるついでに暗闇に目を向けてみたが、太史慈の力量が落ちたというのでなければ、確かに誰も居なかったと言い切れる。
 相手が周瑜だと思ったのは、直感に近い判断だったものの、違っていたとは思わない。
 あれは、まず間違いなく周瑜の気配だった。
 あの周瑜が、を害するつもりはあっても手出しをするようには思えない。
 よしんば手を出すとするならば、それは己の『才』をふんだんに披露しての『策略』としてであろうと思う。
 つまり、周瑜はいよいよ孫呉に差し障りある対象としてを除外する動きに出たのだろうと太史慈は考えていた。
 周瑜本人、あるいはが聞いたら唖然呆然として白目を剥くだろうが、太史慈が知り得る周瑜像はあくまで『粋人中の粋人』であって、よもや女の味も知らぬとは決して考え及ばぬところだった。
 酒の勢いもあり、己にしては立場も弁えぬ大胆なことをしてしまったという悔恨こそあるが、周瑜に対して同性としての警戒は強まりこそすれ弱まりはしない。
 あの顔、あの肢体をして文武に優れ、王佐の才と賞される男である。
 一客将として常に控えねばならぬ立場にある太史慈とは、雲泥の差があると言っても良い。
 だからこそ、むやみに先走り示威するが如くの真似をしてしまったのだとも言える。
 相手が周瑜でさえなければ……最早言い訳だが……太史慈も、もう少しまともな対応を取るよう努力しただろう。
 が太史慈を無視する理由は、ならば他になければ話が通じない。
 扉を開けたことを怒っていたのは知っているが、牀に移って懇々と話す内に解れた筈だ。
 二度目はなるべく優しく、も楽しめるように気遣ったつもりであったし、見送りさせる為に起こした時も、眠さにぐずついていた様子はあっても腹を立てている風ではなかった。
 八つ当たりだろうか、と思うも、の態度は如実に太史慈に向けての怒りを呈している。
 太史慈は、やはり自分に対して怒っている、と思わざるを得なかった。
 堂々巡りし続けて答えを得られずにいる太史慈は、時折の名を呼ぶ以上は何も言わない。
 けれど、忠犬が主に付き添うが如くぴったりと着いて来ていて、を酷く苛々させていた。
 どんなに急いでも、太史慈が離れることはない。
 急いでいる様子もないということにコンパスの差を嫌という程知らしめられて、それもまた無性に腹立たしい。
 別に太史慈以上のガタイが欲しいとは思わないが、何と言うか、自分が実に容易い存在だと突き付けられているようで堪らなくなる。
 周瑜から教えられたことを太史慈に言う訳にはいかない。
 『忘れてしまった』筈のことを愚痴る訳にはいかないのだ。
 太史慈の顔を見てうっかり口を開き掛けたは、己の未熟を呪いながらも逃げ出すしかなかった。
 どうしたのだろう、とでも、ぽかーんとして見送ってくれたらいいものを、太史慈が何で一緒に着いて来ているのか分からない。
 用がある風ではない。
 が逃げるから追い掛けて来ているとしか思えない。
 実際そうなのだろうし、そうと分かるからこそ却って止まれないのだが、太史慈が察してくれる気配は微塵もない。
 いっそ走って逃げたろかと考えてみたが、状況が改善されるとは思えず、ただ悪目立ちするだけ損だと算盤が弾かれる。
 惰性で勢い付く足を止めねば、止めねばと思うものの、それすら容易ではない。
 呉の居城は豪奢で、その佇まいに相応しくえらく広い。
 突き当たる壁は俯くには見えず、しかし視界の先に広がる板目は延々と続いて途切れることはなかった。
 いかん。
「……お」
 太史慈の小さな呻き声と、の腕に走った痛みはほぼ同時だった。
 歩きながら腕を振り上げたは、ちょうどそこにあった柱にラリアット食らわせる形で引っ掛かり、半回転して止まった。
 と言っても、ただでさえ生っ白い腕と頑丈な柱ではどちらが強いかなど一目瞭然であり、負った痛手は主に一人で負担する羽目になる。
 止まりはしたが、そのまま腕を押えてずるずるとへたり込むに、太史慈は二の句が継げない。
 何故がこんなことをしたのか、そこのところからしてさっぱり分からなかった。
 もっとも、の突拍子もない思考回路の在り方が、生真面目な太史慈に分かろう筈もないが。
「……その……殿……」
 言葉はないが、痛みに悶絶しているのは気配で分かる。
 よりにもよって二の腕の内側の柔らかいところを打ち付けたようだったから、痛みも並大抵ではないだろう。
 打ち身だけで済めば良いが、下手をすれば筋を痛めているかもしれない。
殿、医師殿の元へ……」
 行こう、と声掛けようとして、見下ろしていた背が突然すっくと伸び上がった。
 危うく顎を打ち掛けて、何とか逃れた太史慈に、涙目のがくるりと振り返る。
「しばらく、会いませんから」
 突然の『謁見禁止令』に太史慈は度肝を抜かれる。
 は腕を押えながらも、すたすたと歩き出した。
 今度は先程よりもずっとゆっくりとした足取りだ。
 だが、その分頑なな意志が見え隠れして、太史慈の気勢をこれでもかと挫く。
 太史慈はうろたえ、迷った末に結局の後を追う。
 職務が残っていない訳でもないが、こんな状態で引き下がれるような、器用な性分ではなかった。
 着いて来たのが分かったか、の襟首が微かに揺れる。
 それでも振り向かないのは、意地っ張りのらしいとも言えた。
 何人か、使いの途中と思しき文官や用向きを果たしているのだろう家人と擦れ違う。
 如何にも奇異な様に映っているだろうことなど、後回しにして考えないことにした。
 が意固地な性質であると、それも放って置けば置いただけ意固地になることを、太史慈はそれとなく察している。
 出陣前に揉めたりすれば遺恨を残すことに繋がりかねず、困ったひとだと眉根を顰めてしまう。
 困りながらも何故か嫌とは思えず、太史慈は我が事ながら呆れ返っていた。
 何故嫌ではないのだろうと意識が逸れて、ふと、の背中に目が留まる。
 ああ、と納得した。
 注意力散漫と言うか、酔った時の舌と同じで興味の対象があちらこちらに飛びがちなが、今は全身全霊で太史慈を意識している。
 例え顔を背け、目を伏せていても、太史慈の気配に鳥肌立ちそうな程意識しているの気配は、太史慈が探るまでもなく露骨に過ぎた。
 それが分かるから、嫌ではないのだ。
 の室に辿り着いたが、は扉に手を掛けたまま止まっている。
 太史慈が横に付けるように立っているので、困惑するの横顔が確と見て取れた。
「……仕事、お休みですか」
 顔も向けぬままに問い掛けるに、太史慈は緩み掛ける頬を引き締めて問い返す。
「理由をお聞かせ願いたい」
 それを知るまで、職務に戻るつもりはない。
 きっぱり言い放った太史慈に、は情けなさそうに眉を下げた。
「……理由って……」
 噛み締められた唇がすぼみ、突き出される。
 色を薄くしたその唇は、太史慈の視線を鮮やかに奪った。
――どうも、いかん。
 機嫌を悪くしているの機嫌を、更に悪化させてしまいかねない衝動に駆られてしまう。
 太史慈は自身の欲求を適度にあしらいながら、改めてに問い掛けた。
「何を、お怒りなのか」
 せめて、それだけでも聞かせてもらわなければ納得がいかない。
 太史慈の言葉に、は何やら悩んでいるようだった。
「……扉」
 ようよう出てきたのは、あからさまに言い訳と思しき理由だった。
「扉を、開けてあんなことすんの……嫌です」
 太史慈の口元に苦笑が滲む。
 ちら、と見遣ったも、それに気が付いたのか慌てて顔を伏せる。
「嘘で納得できる程、器用な性質ではないのでな、俺は」
 は無言だ。
 渋い顔は、太史慈が自身の言葉通りの性質であると認めてのことだろう。
 それを否定できず、真に受けるまま要素に含めてごちゃごちゃ考えるから、の考えは複雑化していく。
 文官、軍師の類としてはお粗末な思考と言わざるを得まいが、太史慈はそんな裏表を作れないの資質が嫌いでなかった。
「……嘘を、吐かなきゃいけない時だってあるでしょう」
 嘘を嘘と認めた上で譲歩を乞うような対応は、文官が他国の将にしていいことではない。
 この場合、女が仲睦まじい男に甘え掛かっているようにしか思えず、太史慈はくすぐったさに耐え切れなくなり、つい顔を綻ばせた。
 がむっと眉を寄せて太史慈を睨め上げる。
 笑われた、からかわれたと思っているのだろう。
 大差はないが、絶対の差はあった。
「扉を開けたせいで、貴女が困るような事態に巻き込まれた、ということだろうか」
 の目が動揺に揺れたのを、太史慈は見逃さなかった。
「それで、扉を開けた俺に八つ当たりしたいのだと、そういうことだろうか?」
 は答えない。
 答えないが、不貞腐れて膨らませる頬が何よりの証と言えた。
 太史慈が声もなく笑うと、の頬はますます大きく膨らむ。
「何で、分かるんですか」
「貴女は顔に出易い」
 何度か繰り返した言葉を改めて繰り返すと、は戸惑い視線を床に落とす。
 すっかり見抜かれているものの、まだすべてという訳ではあるまい。
 周瑜のことを話すのは、どうしてもはばかられた。
「これ以上は、言えませんから」
 ぼろを出さない自信はなく、仕方なしには無様な防衛線を引いた。
 言えない、話せないと聞けば、興味本位で余計に探りを入れたくなるのが人間の性というものだろうが、は敢えてそれを口にした。
「……承知した」
 太史慈は、の見込み通りに承諾してくれる。
 それは、が太史慈の人柄に全幅の信頼を寄せてのことであり、やはり他国の将に対して有効とは言い難い愚策だった。
 いつでも通用する策ではない。
 自分は今、本当に危ない橋を渡っている状況に居るのだ、と何故か実感されて、急に心細くなる。
 一人で何とか出来ると、どうして思えたのだろう。こんなにも未熟で力のない自分が、蜀と呉を争いのない友好な関係に置いてみせるとは、大言壮語も甚だしいではないか。
「いつまで顔を出さずに居れば、許していただけるのだろうか」
 驚いたが顔を上げると、太史慈が苦く苦く笑っている。
「そのような顔をされては、さすがに厚かましくという訳にもいかん。……いつまで会わずにいれば、許されるのだろうか」
 は、思わぬ申し出に顔を赤らめた。
 顔色一つで下手に出られるとは思ってもみない。
 いったいどんな存在だと思われているのかと思ったら、矢鱈にうろたえてしまった。
「あ、……明日」
 言い捨ててそそくさと室に入り、戸を閉めた。
 戸板一枚隔てた太史慈の存在が、妙に大きく感じられる。がそこに居ると分かっているのか、なかなか立ち去ろうとはしない太史慈に、も動きが取れずその場に立ち尽くしてしまう。
 きし、と小さく扉が鳴る。
 太史慈が扉に手を添えたのだと分かり、は無駄に緊張した。
 入ってくるつもりはないのだろうが、恐らくここに太史慈の手が置かれていると音から判断できて、その位置を無意識に見つめ続ける。
 しばらくして遠ざかっていく足音に、ほっと安堵する思いだ。
 だが、すぐさま短過ぎる刑の執行期間言い渡しを思い出し、どうして自分はこんな誘い受けなことを言ってしまうのだと悶絶した。

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