護衛の選考が済むまで、街には降りられない。
そうなると、以前から埋めていた分はともかく、それ以外の予定が入れられなくなった。
誰が護衛してくれるかは分からないが、その人にも予定や都合がある筈だ。
ならば、なるべくその相手の予定に合わせられるようにしたい。街に降りたいという申し出は、の私事の都合に過ぎないからだ。
元より庭の見物だの茶の相伴だのと私的な付き合いばかりだったが、『呉の重鎮連と懇意になる』ことこそ仕事と定められているにとって、折角届いた誘いの手紙を断わる等ということは、酷く後ろめたい心持ちにさせられる。
絶好の機会、好意をむざむざふいにしてしまうのが惜しくて堪らない。
せめてと一つ一つ丁寧に詫び状を返していたが、それも一日二日の間で終わってしまった。
決してが詫び状を書き飽きたからではなく、が街へ下りる為、予定を空ける為に誘いに乗れないでいることが早くも噂になったらしかった。
誘いの書簡が見事なまでにぴたりと止んで、その早さも切りの良さもを憂鬱にさせた。
断わりを入れる心苦しさがなくなった代わり、誰からも無視されているような孤独に苛まれる。
ここ最近、食事や湯を届けてくれる家人以外での室を訪れる者はなかった。
孫堅が『告知』して以来、の室を訪れる者はかなり限定されている。
すなわちの室を訪れるのは口説きにいくのと同義であり、口説き落とせる自信がない者や孫権のように慰み半分の者共と同列に並ぶのを快く思わない者は皆、の室を避けるようになっていたからだ。
更にその件で大喬がかなり不機嫌に陥っているとか、下級兵士がその気になって勇み足をしたらしいなどということが噂になって、余計に遠巻きに見守られていることをは知らずに居る。
知ったところで腹を立てるのが精々だったろうが、それでも一人室に籠る寂しさは例えようもない。
折悪しく、呂蒙も職務が立て込んでおり、の為に時間を割いては居られなくなっていていた。
勉学の方も独学にならざるを得ないが、それでは進むものも進まない。読み飛ばしの文章が、頭に入ることはまずないからだ。
やることは他にもないではない。
例えば、尚香の居る蜀に宛てて『物語』を記した竹簡を作らなくてはならなかった。
だがそれも、当帰と激しく諍った後では手も付かない。
訪問と創作を除けば、が出来る仕事も憂さ晴らしもまったくと言っていい程残らなかった。
当帰と仲直りしてからと思っていたのだが、あまりの暇さに根負けし、は訪問伺いの文をしたためていた。
「大姐、こちらへどうぞ」
にこにこ笑いながら大喬が席を勧める。
今日は日差しが暖かで、時期こそ遅いがまさに小春日を思わせた。
戸を大きく開け放った室に、卓と椅子を並べてある。暖かな日差しを楽しみながらお喋りを楽しもうという趣向のようだが、は少し困っていた。
面会願いに話があると記したのは、こんな開放的な場所でしていい話ではなかったからだ。
の不安を見てとったか、小喬はにっこりと微笑んだ。
「だーいじょうぶ、ちゃんっっっと人払い、してあるかんね!」
二人で全部するからと、侍女や家人の諸々は屋敷の外に出してあるという。
確かに、屋敷の周りには警護の者が居たようだったが、余程の大声を出さぬ限りは筒抜けになる心配もない中庭に面した室である。
出迎えてくれたのはそう言えば二喬の二人のみで、他に人の気配もない。
思いもよらぬ程に大仰に迎えてくれたようで、けれどはやはり戸惑った。
自分のことでそこまでしてくれなくても、とどうしても卑屈に考えてしまうのだが、二喬にはその辺も含めてすべてお見通しのようだ。
「違うの、あたし達もね、他の人には聞かれたくなかったから」
「皆さん良くして下さいますけど、だからこそ聞かれたくない話もありますから」
顔を見合わせて頷き合う二喬の姿に、こんな時代でも一応プライバシーは重要なのだと思った。
が腰掛けると、大喬がお茶を、小喬が膝掛けを用意してくれる。
至れり尽くせりで何だかくすぐったい。
自分達の分も用意すると、二喬は膝を寄せるようにしてを挟んで腰掛けた。
「当帰さん……いえ、文無さんでしたね。話は、小喬から聞きました」
大喬が切り出すと、小喬の目がそれと分かる程に潤む。
は慌てて口を挟んだ。
「あの、それ、前言撤回したいんです」
仲直りをする為に街に降りる希望を出している旨を説明すると、小喬の顔がぱっと明るくなった。
「良かったぁ、ずっとずっと気になってたの〜」
本当に泣き出してしまいそうな鼻声で喜ぶ小喬に、も思わずもらい泣きしてしまいそうだ。
「……すいません、小喬殿も、嫌でしたよね。何か、巻き込まれちゃったみたいでしたもんね」
「そんなことないけど……うぅん、少し、うぅん、やっぱりすっごく、あたしのせいだって思っちゃってたかな」
大喬がたしなめるも、そんな素直な小喬は可愛らしく思えた。
ふと、周瑜のことを思い出す。
小喬なら周瑜に相応しい、お似合いだと思いつつも、治療と称して『悪さ』を仕掛けた記憶が忘れるなとばかりに大きく過ぎり、を自己嫌悪の底へと追いやった。
の異変に気が付いた二喬に、は正直に打ち明けることも出来ず、苦笑いでお茶を濁す。
「えぇとー……その、仲直りをするに当たって、お二人に申し訳ないことが……」
話題の転換がてら本題を切り出すと、二喬はすぐに察したようだ。
「物語のことですね」
当帰が怒り狂った原因は既に露見している。
が自らの立場を省みず、猥書の作成に手を染めたからだ。
仲直りをしようとなれば、当然その非を改めなくてはならない。二喬に読ませると約束した『How To本』の作成は、是が非でも打ち切らなくてはならない訳である。
「……やっぱり、ちょっとザンネンだなぁ……」
「小喬」
め、と大喬のたしなめが入る。
小喬は首を縮込めはするが、尖った唇が不満の色を濃く現わしていた。
「分かってるもん、ちゃんと諦めるったらぁ!」
投げ遣りに答える小喬の様に、はくすぐったいものを感じていた。
小喬が駄々をこねるのは、偏にあの物語を気に入り楽しんでくれていた証と言えた。
書けなくなるのはもうどうしようもないが、そこまで気に入ってくれていたことに関しては、創作者として心躍らずには居られない。
楽しかった、面白かったの類の言葉は、何より嬉しいご褒美だった。
「そのことなんですけど」
良ければ、と前置きしてしまうのは自信がないからか、あるいは勿体ぶりたい自惚れの印か。
どうにも分からなかったが、の心臓はどきどきと激しく脈打っている。
自意識過剰でスベったらイタイと思いつつ、恐る恐る『提案』を打ち明けた。
「……そういう、教える部分はなしで……普通に、ただのお話としてなら書いても大丈夫かな、と思うんですけども、どうでしょう」
間が空いた。
二喬はそれぞれ黙りこくっている。
腹の底に苦いものが込み上げた。
「あ、あ、読みたくなかったら、別に」
顔が勝手に熱くなる。
さぞ赤くなっているだろうと想像すると、二重に恥ずかしくなった。
に釣られたように二喬も慌て出し、無意味に椅子を蹴って立ち上がる。
「いえ、そんな、読みたいです、でも」
「そうだよ、だって、いいのかなって思って、だからね」
「あ、でも、ホントに別に、読みたくなかったら別に」
そんなそんなの応酬になり、三人は三様にあわあわと手や腕を振り回す。
「いえ、本当に、読ませていただけるなら喜んで」
「あ、いやホントに、そんな無理に読まなくていいから」
「よ、読みたいよ、読みたいけど、でもぉ」
傍から見ていたらまるでファミレスの会計を争う奥方達のような、むず痒くなるか胸糞悪くなるかの幼稚な遣り取りだった。
だが、本人達は至って真面目に遣っている。人払いがされていて、ある意味まったく正解だったと思われた。
しばらく揉めに揉め、誰かが場を制することもなく息切れと自然の間合いが沈黙をもたらす。
一瞬空いた感の空気に、三人は一斉に顔を赤く染め上げて俯いた。
は俯きながら、何をやっているんだろうと一人激しく身悶える。
こんな、身内とも言えない馴れ合いの褒め殺しをは最も苦手としていた。
面白くないのに面白いと言い、何も感じるものがないのにわざとらしく騒いでみせる人が嫌いだ。褒めたのだから褒めろと露骨に強請られると鳥肌が立つ。
かつて厭っていた遣り取りを、何も今ここで再現しなくてもいいだろう。
何よりも、『読みたいと言って欲しい』空気を醸し出してしまったのは他ならぬ自身だった。
二喬相手にイヤラシイ誘い受けなんかをかましてしまってと、は深海の底に埋没する勢いで落ち込んでいた。
「……あの、さぁ、大姐」
小喬が遠慮がちに口を開く。
「あたし、大姐がここに来る前にね、お手紙もらってからね、お姉ちゃんと何度も話し合ったんだよ。大姐があたし達の為に嫌な思いしちゃって、嫌だね、悲しいねって。だから、あたし達、もう我がまま言わないようにしようって決めたの」
ね、と振られた大喬が、力強く頷く。
「小喬の言う通りです。私達が我慢すればいいわねって、何度も何度も確認しあって。大姐に、続きは諦めます、もう気にしないで下さいってちゃんと言おうねって約束して……指切りもして」
大喬はに向けて小指を立てる。
指切りは、が教えた誓いの立て方だった。
「それはやっぱり読みたいですけど、ちゃんと諦めてちゃんと言おうねって意気込んでいたら、大姐の方から続き書いてもいいって仰って下さって、私達とてもびっくりしてしまって。絶対に諦めなきゃって思っていたから、まさか大姐がそんなこと仰って下さるなんて夢にも思わなくて、だから私達」
「ホンットにびっくりしちゃって、詰まっちゃって口が聞けなくなっちゃったの。だから、だからね大姐」
書いてくれるなら、本当の本当に読みたい。
二喬はそう口を揃え、をじっと見詰める。
「……あ……えっと……」
口籠るの顔はこれ以上なく赤く、眼は火照りの為か潤んでいる。
「……読んで、くれるなら……」
途端、読みたいと力強い要望が左右同時に返ってくる。
「書きます」
はぐっと握り拳を握った。
「よ、読みたいって、言ってくれるんなら……ホントに読んでもらえるなら、私、頑張って楽しんでもらえるもの、書きます、頑張ります!」
わっと歓声が上がり、拍手が響き渡る。
手を打っているのは大喬と小喬の二人に過ぎなかったが、にとっては千にも万にも等しい程の大喝采だった。
自分の描く物語を、これ程楽しみにしてくれる人がいる。
嬉しくて、誇らしくて、は心の底から礼を言いたい心境だった。
顔が焼けるように熱く、むやみやたらと喉が渇く。
大喬が淹れてくれた茶をがぶりと飲み込むと、何故だか目の端から涙が零れ落ちた。