心強い『ファン』の声援を受けて、は一気に物語を進めた。
吐き出すように書いては多くを手直しし、気に入らなければ容赦なく削るので、書いた字数に比べれば進行は甚だ遅い。
だが、勢いとは恐ろしいもので、ほぼ一気に書き終えることができた。
読み返せばかなりありがちな話になってしまったが、創作に慣れていないだろう二喬が取っ掛かりとして読むにはこれぐらいで良いだろう。
は自身の判断を若干不安に思いながらも、オチに向かって筆を走らせた。
分かり難いところはないかと読み手である二喬のことを考えながら書いていく。
同人は萌えを吐き出すものと考えていたから、実際読み手のことを考えて書いたことはほとんどない。相手を慮っての見直し作業は、意外に新鮮だった。
お年頃の二喬には、残酷描写はきつかろうと戦の無残な描写はなるべく控え、『一面焼け野原』とか『収穫を待つばかりの作物が、今は見る影もなく』と暈かした。
話の筋もご都合主義が多々見られたが、別に現実の厳しさを叩きつけようとも思わないからそれでいいと踏ん切りを付ける。
とにかく二喬が、なるべく引っかかりを覚えずに楽しんで読めればいいのだ。
読み手に媚びるのと読みやすいように心配りをするのはまったく別物なのだと、ここに来て初めて気が付いた。
書きたいものを書きながら、尚且つ相手を踏まえて練り上げる。
独りよがりもおべっか使いも良くないが、今のはその辺ちょうど釣り合いが取れていると感じられていた。
筆の軽さが自信に繋がり、は浮かれたような速度で書き連ねていった。
後少しで終わらせられるようかという段になり、誰かが訪ねてきた声が聞こえてくる。
今ちょうどノッてるのに、と苛立つが、出ない訳にも行かずは渋々筆を置いた。
扉を開けると、そこに立っていたのは呂蒙だった。
「お待たせした」
へ、と間抜けな声を上げるに、呂蒙もまた不思議そうにを見遣る。
「……あれ、今日、勉強の日でしたっけ」
呂蒙多忙に付き、勉強会はしばし取り止めとなっていた筈だ。
ひょっとして、原稿にかまけて誰かが伝言してくれたのを聞き流してしまったかとうろたえた。
しかし、呂蒙はますます不思議そうな表情を浮かべる。
「何を仰っておられるのか分からんが、学問を教えに来た訳ではない」
勉強ならばが呂蒙を訪ねるのが常である。
それは、教えを請う者こそ教えてもらう相手を訪ねるのが筋だという呂蒙の考えを表したことでもあり、言われてみればその通りだった。勉強を教わる時は、何か事情がない限りはの方から呂蒙を訪ねている。
では、どうして呂蒙がと振り出しに戻ってしまう。
呂蒙も忙しい身の上であり、基本的に用事もなく出歩くのを厭う性格だ。
さすがに散歩ぐらいはしていそうだが、将がむやみに一人で出歩けば至急の連絡も取れまいし、何かあった時に困ると考えてしまうらしい。
要するに、馬鹿が付くほど真面目なのだ。
馬鹿と言っても愛すべき『馬鹿』であり、だからこそ呂蒙は皆に慕われている。
その呂蒙がわざわざに会いに来た理由を、は思い付けずにいた。
ただ、例えば、恋愛感情を持っている相手に不意に会いたくなる、などということは、極普通によくあることではないか。
「……えっと……」
顔が赤くなる。
呂蒙に好かれていることを、は決して忘れていない。
この世界に来てから、好きだ好きだと言われ過ぎて、どうにも本気だと受け取れずに居る。
急過ぎる。
また、多過ぎる。
非現実に過ぎて、未だに何処かで認められずに居る。
その中では、呂蒙の気持ちは割合信じられる方だった。
物固く生真面目な呂蒙が、生半な遊び心や対抗心で告白する筈がないと思える。
だから、も呂蒙の気持ちだけは、それなり素直に受け止めることが出来た。
頬を赤らめたに、呂蒙も釣られて赤くなる。
「……いや、その……な、何か」
まずいところに来合わせたかと慌てる呂蒙に、は勢い良く首を振った。
「いや、そうじゃないんですけど、あの、何の御用ですかね?」
探りを入れるのも憚られて、は率直に訊ねてみる。
会いたいと思って来てくれたのなら、相応に応対したい。
が、呂蒙の目は意外と言わんばかりに丸くなった。
「いや、街に降りたいと、そういう話ではなかったかと……少なくとも、俺はそう聞いているが」
今度は、の目が丸くなった。
勘違いして恥を掻いた上、更に書き上がるまで待っていてくれなどと厚かましいことも言えず、は後ろ髪引かれながら出立の支度に取り掛かった。大まかには用意していたが、書き掛けの竹簡も持っていこうと決めたからだ。
出来ればこの場で書き上げてしまいたかったが、どうせ筋も決まっている訳だし、後少しなのだから街に降りてからでもいい。どのみち、一晩泊まることになるだろうから、多少の時間は出来よう。
竹簡の表面に布を被せてそっと押すと、未だ濡れている墨の部分が布に吸い取られる。
そうして半ば無理やり乾かした竹簡を、風呂敷代わりの布に包んで携えた。筆や墨などの筆記用具も入れてある。
ノートにシャーペンだったらこれ程手間も掛からないのだろうが、現代から持ち込んだそれらをはけちけちして仕舞い込んでいる。なくなるものだからと言い訳しているが、使うことにこそ意味がある品だったから、ただ取っておいてもしようがない。
分かっていても使えないのが、にしても不思議だった。
支度を終えると、呂蒙に連れられて街を目指す。
今回は、馬に同乗ではなく馬車に乗せられた。
道も、甘寧や凌統が好んで使っている道とは少し違うようだ。
恐らく、こちらの道の方が本来使われる道なのだろう。緩やかな傾斜で、時折荷を積んだ牛車などとも擦れ違う。
傾斜のきついあの坂道は、とにかく急いで移動したいせっかちな連中が好んで使う道なのだろう。雨の中を駆け下りて、途中幾度滑って怖い思いをしたか、回数は思い出せずとも記憶は未だ薄れていない。
とは言え、は正直馬車が好きではない。
贅沢だとは思うが、固い板に腰掛けてがたがた揺す振られると痛くてしょうがないのだ。
同じ揺す振られるなら、馬の背の方が余程座り心地がいい。
しかし、それを呂蒙に言う訳にもいかなかった。
本人がどうであれ、は他国の文官として丁重に扱われるべき存在だ。
この場合、気軽に馬に同乗する甘寧や凌統がおかしいのであって、馬車に乗せて周囲を兵と共に警護する呂蒙の方が正しい筈だった。
ただ、個人的な好き嫌いで言うならば、やはり馬に同乗の方が有難い。
そして思考は堂々巡りとなる。
「ご気分でも」
馬車に馬を寄せて、呂蒙が声掛けてきた。
我がままと詰られるのが嫌で、は笑って誤魔化す。
本当に我がままを言えば、一人で馬に乗って街に降りたい。
それが叶う願いでないと分かっているから、は何も言わなかった。
「……でも、呂蒙殿、忙しかったんじゃないですか。わざわざすいません」
話は通じているものと迎えに来た呂蒙に意表を突かれ、その場ではろくに礼も言えていなかった。
どうも、の方はいつでも行けるからと聞かされていたようで、鵜呑みにした呂蒙は私的に前触れを立てようとも思わなかったらしい。
話は通じている、いつでもいいからなるべく早めに迎えに行けと言われたとあっては、致し方もない話だ。
周瑜にしては間の抜けた手配だが、そんな細々とした手配を要求する方が間違っているような気もする。
確かには今日明日の予定が空いていて、寝不足になるのも省みず創作に打ち込んでいたのもそのせいだった。いざとなれば昼寝しようと目論んでいた辺り、もいい加減気が抜けていると言わざるを得ないのだが、それは私的に反省すればいい話だと勝手を決め込む。
「いや、忙しかったのは、これの為だ。案じられることはない」
案じるなと言われて案じないで済ませられればいいのだが、それが出来ないのがなのだった。
今の今、個人的に反省すりゃいいなどと非常に自分勝手なことを考えていただけに、気分的にも恥の上塗りだ。
多忙なところにの護衛などという余計な仕事を引き受けて、それをこなす為に更に多忙にせざるを得なかったのだと聞かされて、落ち着き払っていられる程悠長な性格ではない。
申し訳なさが顔に出て、眉も口端も下がった実に情けない顔をしてしまう。
その顔がどうしようもなく笑いを誘い、呂蒙は必死に堪えながらもを気遣った。
「何、俺が喜んで引き受けたまでの話。気になさることはない」
言い捨て掛けて、部下の目があることを瞬時に思い出す。
「……その、周瑜殿が俺を見込んで頼んで下さった仕事だ。謹んでお引き受けこそすれ、断るなど考えも及ばぬ、ということだな」
誰も訊いてもいないのに一人で急き込んで付け足す呂蒙に、も顔を緩めた。
そう言えば、呂蒙の言葉遣いは何となくおかしい。
上からだったり親しげだったり、の立場故に使い分けが出来ずに居るのかもしれなかった。
蜀の文官としてなら敬わなければなるまいし、学問の師弟としてなら目下扱いせねばならない。そこら辺の微妙な使い分けは、呂蒙のような純朴な人柄には難しかろう。
からすれば、年を踏まえても目下の扱いで構わないと思うのだが、年下の周瑜に敬意を表して止まない呂蒙からすれば、それと断じられるのも困るのだろう。
気が付いているのかいないのか、とにかく呂蒙の言葉遣いは、一度気が付いてしまうと何とはなしに気に掛かる。
そうなると、今度は自分はどうだろうかと自省が始まる。
も正直、言葉遣いに関しては(それ以外は置いておくとして)丁寧とも礼儀正しいとも言い難い、むしろ粗雑と言っていい人間だ。
腹を立てればついつい言葉が荒くなるし、腹を立てなくともいわゆる牀の中ではタメ口になることの方が多かった(ように思う)。
頭の中が真っ白になった状態で、『です』の『ます』の言ってられるかとも思うのだが、この世には寵姫なる女性達が居る。ああいった方々が、事の最中にタメ口聞いている様など想像できない。
結局、人それぞれだと思う。
そうでなければならないと教えられ、自らを律している人も居るだろうし、そのことに対してが何かを言うつもりはない。
の立場は複雑で、むしろ粗雑な物言いが歓迎されるような風潮があった。
孫策に限って言えば、が横柄にタメ口叩くことを歓迎しているような節があるし、逆に敬語を使うと酷く不機嫌になる。
それが原因で喧嘩になることもあり、どうするのがいいのか測りかねているのがの現状だった。
仕事と私事は分けて考えたい性質だったから、出来るなら仕事関係は敬語で通す方が楽なのだが、それを許してくれないところだけは内心うんざりしている。
嫌がっているのを面白がっているのだろうか、と考えるが、まさかそこまで子供ではなかろうと切り捨てた。
実は当たらずとも遠からずだとが知れば、またも騒ぎになるやもしれない。
そして、そういった騒ぎを孫堅並びに一部の者が楽しみにしていることもまた、の知り及ぶところではなかった。
物思いに耽り始めたの横顔を、呂蒙はちらりと見遣り、馬車に寄せていた馬体を離す。
声を張り上げずに話をするには必要不可欠な距離だったが、御者の労苦を考えれば離れていた方が良い。
少なくとも、の方に話すつもりがないのであれば、が話し掛けてくれるのをひたすら待って未練がましく馬を寄せているなど、ただ惨めだ。
の立場の複雑さはよくよく理解しているが、それと己の恋情はまったく別の次元の話である。
特に呂蒙は、自身の評価を過剰なまでに低く見ていたから、の側に迂闊に近寄ることを避けていた。
甘寧のように気易くするのも一苦労で、気を回し過ぎているのだと分かっていてもなかなか思うようには行かずに居る。
も時には気を遣い、呂蒙を立ててくれることもあるにはあるが、基本鈍い性質なのは誰もが認める女だったから、何かに付けより上級の気遣いを要求してしまいたくなる。
人として自然な気持ちの揺れとも言えるが、呂蒙としては律しきれない己の欲を恥じるばかりだ。
己の惨めさに気が付かないで欲しいとひた隠しにするからこそ、が気付く筈もない。
分かっていながら矜持を守ることを優先してしまう業の深さに、呂蒙は溜息を吐くよりなかった。
「……で……あれ?」
馬車から身を乗り出して、が顔を出す。
「すいません、呂蒙殿」
考え事をしていたのに気付いたらしく、は恥ずかしそうに詫びて来た。
と、石でも踏んだか馬車が大きく揺れる。
体勢の悪さからの体が弾み、危うく馬車から放り出されそうになった。
「危ない」
咄嗟に手を伸ばした呂蒙に助けられ、は難を逃れた。
「す、すいません……」
「気を付けられよ」
厳めしく顔を作っても、方寸ではを助けられたことに浮き立ってしまう。
の深い信頼を感じ、尚且つ馬車の側に馬を寄せる口実を得て、呂蒙は我ながら情けなくなる程上機嫌になっていた。
何をどう言い訳しても、この日の為に熱を入れて仕事を詰めて来たことに変わりはない。
今日ばかりは他の誰でもない、己がに付き添い守るのだと、呂蒙は改めて意を固めた。