街に入ると、馬車に乗せられたは至極目立った。
 呂蒙という名の知れた将に護衛されていたからかもしれないが、道行く人々がの方を振り返るのが恥ずかしくてしょうがない。
 着替えるまでもないと思っていたから、常の蜀の文官装束だ。
 ところどころに墨がはねているような恰好をしているので、こっそり嘲笑を受けているのではないかとうろたえる。被害妄想も甚だしいが、未だに注目されるのに慣れないには、見知らぬ人々の好奇心に満ちた視線が大層しんどかった。
 甘寧達に連れられて街に出入りしていた時とは、どうも違う道から入ってきたようだ。
 立派な門をくぐった時、こんな門があったのかと初めて知ったぐらいだった。
 たぶん、甘寧達が使っていたのは街の人が普段使う抜け道のような道だったのだろう。
 気のせいかいつもの宿から離れていく感じがして、は辺りを見回す。
 広い大通りをまっすぐ行っているのだが、店の看板一つ取ってもどうにも見覚えがない。
「呂蒙殿」
 が馬車から身を乗り出すと、すぐに呂蒙が馬を寄せてくる。
「何処に向かって居られます?」
 呂蒙は一瞬口を噤んだが、すぐにの問いの意味を察してくれた。
「一度、今宵の宿所となる役所に寄ろうかと思っているのだが……何か」
 が街に降りる理由を、呂蒙は詳しく知らないでいた。
 てっきり、買い物か何かだと思っていたのだ。
 凌統からそんな話も聞いていたし、家人とはいえ他人に物を頼むのが苦手であることも、出入りの商人を未だ持たないことも知り置いている。
 だからこそ買い物だと断じていた。
 市場に出向くにはやや遅い時間だ。
 昼をそれなり回っているから、市場に入ることは出来てもほぼ店仕舞に近い状態だろう。良い品は売り切れていてもおかしくない。
 ならば明日の朝一の方がと考えて宿所に向かっていたのだが、の様子ではどうもそうではない。
 確認しておくべきだったと、内心恥じた。
 改めて予定を訊ねると、は人に会うつもりだと打ち明けた。
「人に?」
 に呉の知人があるとは思いも寄らず、呂蒙は目を瞬かせた。
 相手が装束を扱う商人であると聞き及び、ああ、と納得する。
 見慣れぬ装束を着ているを見掛けたことがある。地味目だが、に良く似合っていた。
 何でも、街に降りた時に買い入れたという話で、城の女官達も気に掛けている店があるとかいう話だった。
 であれば、時間はあまり気にしないでいい。市場は方々から品物を持ち寄って来る者達の商いの場であり、店を構えて商売する者達は、市場の閉まる時間より遅く開けているのが通例だった。
 その分割高なものだから、呂蒙は何となくは市場に向かうのだと決めてかかっていた。
 よく考えれば失礼な話である。
「……行かれるというのであれば、構うまいが」
 馬の腹を軽く蹴り上げ、先導する騎兵に何事か指示を出す。
 二人ばかりがそのまま駆けていき、呂蒙はまたの側に戻ってきた。
「このまま、向かわれるか」
「出来れば……」
 寄るだけ寄って、今日明日で時間が取れるか確認してからと思っていた。本来は先に訪問の約定をしておくのが筋だが、呂蒙の迎えは予想外に早過ぎた。
 出掛ける時に言っておけば良かったと思うものの、何だかんだでどたばたしてしまい、頭がそこまで回らなかったのだ。
 一応は商売人である当帰のことだ、忙しくしているやもしれない。
 今回はその為だけに街に降りたのだから、の方はいつでも構わないのだ。待てと言われれば待とうし、夜と言われれば夜、朝と言われれば朝にと考えていた。
 呂蒙の指示を受けた騎兵はすぐに戻ってきて、こっくりと頷いて見せる。
 当帰の店が見付かったのだろう。
 馬車は通りの中途で進路を変えた。ごとごとと揺られながら、は胸の内で仲直りの場面を幾度も妄想する。
 とにかくまず謝って、創作のことは何とか認めてもらって、お城に上がるのは控えめになってもいい、自分が街に降りてくるよう交渉して……と、話し合うべき事柄を幾つか確認する。
 得体の知れない不安で胸がざわめき、は自然に無口になった。
 当帰の店は、角を曲がってすぐの所にあったらしい。
 馬車がごとんと大きく揺れると、もう目の前が当帰の店だった。
 裏側から回ってきたようだが、してみると当帰の店は大通りからかなり離れた場所にあるようだ。
 人の流れを考えるとあまりいい位置に建っているとは思えないが、それでも人通りがそこそこあるのは、偏に当帰の商いの腕によるものやもしれない。
 先導の兵士が馬を降り、店の中へと入って行く。
 しばらくして、当帰がひょいと顔を出した。
 あ、とは笑みを浮かべるが、それもすぐに掻き消える。
 当帰の顔は酷く強張り、を決して歓待していないのが良く見て取れた。
 未だそれ程に怒っているのだと思うと、の気持ちは暗く沈み込む。
 の気持ちを察することなく、当帰は慇懃に礼を見せた。
 深々と頭を下げながら、朗々と口上を吐き捨てる。
「わざわざのお出で、痛み入りましてございます。相申し訳ございませんが、手前共、本日は有難いことに真に多忙を承りまして、すぐにお相手すること叶いませぬ。……しばらく奥にてお待ちいただきたく存じ上げますが、よろしゅうございましょうか?」
 他人行儀も他人行儀、あまりに余所余所しい当帰には唇を噛み締めた。
 怒っているかもしれないとは思っていたが、ここまで激怒しているとまでは思っていなかった。時間は当帰の気を緩ませる役には立たなかったらしい。
 それだけのことをしてしまったのかとも思うも、なりに傷付けられていたから、無性に悔しく、また切なくなる。
 対して、呂蒙もまた当帰の態度を不快に感じていた。
 当帰と聞いても思い浮かぶ顔はなかったが、いざこうして目の当たりにすれば、これは周瑜に無礼を働いた女だとすぐに分かる。
 先日周瑜のところに押し掛けたと噂は、呂蒙の耳にもしっかり届いていた。
 騒ぎを起こした後は城に上がっていなかったらしいが、それは当然だと呂蒙は憤慨したものだ。
 周瑜は多忙の上に多忙な身の上の、呉の重鎮である。
 決して呉の武官文官が劣っているとは言わないが、一線画す存在の周瑜にどうしても職務が集中しがちなのだ。
 その彼の下に、礼も弁えず怒鳴りこんだと聞いている。
 呂蒙には何の関係もない話ではあるが、我が事のように腹を立てていたから、何故がわざわざ会いに来たのか理解できない。
 まして、当帰(文無)はが雇い入れた人間である。
 呼び付ければ済む話を、わざわざ伺いに赴く理由も分からなかった。
 しかも当帰のこの態度は、慇懃であっても丁重とは言い難い。
 むしろ慇懃無礼を露骨に示して居て、実に不愉快だった。
 鈍いと評判のも、それはさすがに感じ取れているようで、眉間に皺を寄せて唇を噛んでいる。
 何事があったのかと訊ねてみたいが、公衆の面前で聞けるものでもない。
「……待たせてもらっても、大丈夫ですか」
 の声がわずかに震えているのを、呂蒙ははっきりと聞いていた。
 あからさまではない、隠そうとして隠しきれなかったような波間に水滴が落ちるような分かり難い声の揺れだ。当帰に届いたようには思えず、事実当帰の顔は酷く不機嫌に歪んだだけだった。
「どうぞ。ただ、本当に忙しいもんですから、ちっと時間が掛かってしまうかもしれませんが」
 お茶なりお出ししましょうよ、と言い残し、当帰は店の中へと戻って行った。
 入れ違いに娘が一人飛び出して、ひょいと頭を下げる。
「どうぞ、こちらへ」
 店の裏手に回ろうとする娘に、呂蒙は苦い顔を見せた。
 馬に乗って居る者が居るからだと思うことにしても、あんまりな扱いだと思った。
 確かに、馬なり馬車なりを軒先から入れろなどという無体を押し通すつもりはない。
 けれど通常の話と言うなら、を馬車から降ろし店の正面から案内するのが、客を迎える主として適切な行動だろう。
 それを、自分はとっとと店に戻り、案内は年若の小娘一人に任せて知らない振りとは何事か。
 客をもてなす態度としては、商い人のそれとも友人知人を迎える者としても甚だ無礼な話だった。
 に怒った様子がないので、呂蒙が怒り狂うのもおかしな話だから怒るに怒れない。
 苦虫噛み潰して堪えるのだが、当のにしてみれば、当帰の振舞いが無礼だと思ってもみない。代わりの者が案内してくれるということで不都合もなく、忙しい人間がわざわざ案内せずともいいと割り切っている。
 ここの辺りは、1800年という歳月が生んだ埋め難い感覚の差なのだろう。
 呂蒙一人で熱くなっているのだが、は当帰の態度に気を取られてしまい、気が付くことが出来なかったのだった。

 退屈を紛らわせる。
 一口に言っても、なかなかの難題だ。
 昔、如何にして退屈な時間を消化するかを課題として与えられたという話があった。
 『課題として与えられている』と最初から理解していればともかく、そうでなければ非常に辛い。
 何故なら、『課題』として与えられて居ればいつかは終わると希望が持てるが、そうでなければ終わることも知らずひたすら退屈を耐え忍ばねばならない。
 小さいようで、その差は大きい。
 の場合、『後程』という保証は与えられた。
 けれど、その『後程』がいつになるかは皆目見当が付かない。
 これは『有限を知っている』ことになるのか『知らない』ことになるのか、果たしてどちらなのだろう。
 開け放たれた扉からは作り込まれた庭が見える。
 厳寒の中にも春の兆しが感じられるようだ。
 新芽や若葉は見えずとも、木の幹に心なしか瑞々しさがあり、霜柱で濡れた土は黒々として豊かに見える。
 無為な時間を過ごす心の慰めに、こうして開け放ってくれているのだろうと思う。
 屋根の日影が作る寒々しさは途方もなく、手元に置かれた炭だけでどうにもなろう筈もない。
 城から来たから着込んではいた。
 だから平気だと思われているのだろう。
 そうでも思わないと、この寒さに耐え切れそうもなかった。
 耐え切れなくなりつつあるのは、実はではなく呂蒙の方だったかもしれない。
 呂蒙自身は決して耐えられない寒さではないが、が青ざめて唇を震わせているのが我が事のように感じられて仕方がない。
 否、我が事であれば耐えられようものを、真っ白い息を広げた手に吐き出しているの様は、呂蒙には何とも言い難いものだった。
 手出しも出来ず開け放たれた戸の外からを見守っているのは、何とももどかしい。
 家人が一度茶を差し入れに来たが、それきり誰の気配もない。
 忙しいという言い訳の真の証と言われれば頷くしかなかったが、それでも放置に過ぎると思う。
 それなり熱かっただろう茶は、小振りの茶碗の中でみるみる冷めていった。
 がもらった茶も、たぶん似たり寄ったりだっただろう。それが証拠に、は一度か二度、茶碗を傾けて後は卓の上に戻してしまっていた。
 呂蒙の手の中に残された茶碗は、寒風に冷やされて氷のように冷たい。
 暖を取るどころか、却って手が冷えている有様だ。が下ろしたのも頷ける。
 それだけ寒い広々とした室に、は取り残されたようにぽつねんと座っていた。
 の体が弱いことは先刻承知の事実だったから、この状況は呂蒙を酷く苛立たせる。
 いっそ、別室で休憩している手下の兵を呼び集め、吹き抜けの風を防ぐ人壁にでもしてやろうか、等と埒もないことまで考えてしまう。
 もう少し、それこそ十数える間に文無(当帰)が現われなかったら、呂蒙は自ら苦情の申し入れに赴くつもりだった。
 物言いを付けるなど、苦手であることには違いない。
 が、こんな放置の仕様はあんまりだ。
 十の内、七まで数えたところで廊下の敷板がみしりと鳴って、冷たい空気が震えるようだ。
 ようやく仕事が終わったのか、文無がそこに立って呂蒙を睨め付けていた。
「御控えの間を、御用意させていた筈ですけれど」
「俺の任は、殿の護衛だ。気遣いは無用」
 そんなことより、早くに会ってやればいい。
 どれだけ待っていたことかと眉を顰めると、文無もまた眉を顰めて室の中へと足を踏み入れた。
「……お待たせして、申し訳ありませんわねぇ」
 は、既に立ち上がって文無を出迎えていた。
 雇い人風情に礼を尽くそうとするに、呂蒙は酷く刺々しい気持ちにさせられていた。
 非礼を働かれているのだ、呂蒙に一言言ってくれればどうとでもしてやるというのに、が呂蒙を頼ろうとする気配はない。
 勿論、そうしてくれとこの場で言えばは従おうが、それでは呂蒙の気が済まない。
 確たる理由はなくとも良い、から呂蒙を頼ってくれなければ動けないのだと断じていた。
 しかし、は呂蒙を振り返ることもない。
 罰が悪そうにわずかに俯き、時折上目遣いで文無を見上げているばかりだった。
「……御用は。御用があって、いらっしゃったんでしょう。御用を、仰って下さいまし」
 言葉自体はそうでもないが、どこかきつい、人を追い詰めるような口調だった。
「あの……」
 はまごつきながらも口を開く。
「明日の昼ぐらいまでは、こっちに居られると思うんで……もし、空いてる時間があれば教えて欲しいと思って」
 おずおずとした言葉に被せるように、文無は深々と溜息を吐く。
 沈黙が落ちた。
 気まずさに、はこりこりとこめかみを掻く。
「……今、ここで済ましちまいましょう。時間はそれ程ありませんが」
 よろしいですわね、と投げ遣りに確認を取る文無に、は慌てて頷いたようだ。
 呂蒙の位置からは、奥に座ったの顔が見えるのみだ。文無は、の真正面、呂蒙に背を見せる形で腰掛けていた。
 よって、文無の表情を呂蒙が窺い知ることは出来なかったが、の顔が不安でいっぱいになっていることから、恐らく相当嫌な顔になっているのだろうと踏んでいた。

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