「えっと」
 何をどう切り出そうか、は惑っていた。
 当帰の顔は不機嫌そのもので、の話を聞いてくれているのかすら怪しい。
 けれど、忙しい最中に時間を取ってくれたというから、急いで話をしなければならなかった。
 仕方なく、は姿勢を正して気合を入れる。
 誠心誠意で当たれば、きっと何とかなる。
「この間のこと、ごめんなさい」
 とりあえずということで頭を下げると、当帰はちろりと視線を向ける。
「何を、謝っておいでですか」
「……いや……この間、喧嘩したこと……を……」
 謝ることと言えばそれしかない。
 察しが付きそうなものだが、当帰は譲らなかった。
「喧嘩した、何をお詫びいただいてるんでしょうね。生憎、学のないあたしにはさっぱり分からない」
 学はこの際関係ないだろう。
 呂蒙が居ることもあり、あまり詳細を口に出したくない。
 自然と口が重くなっていくだったが、ここで黙ってしまっては話が進まないのが目に見えていた。
「……折角、気を遣って注意してくれたのに、素直に従えなくてごめんなさい」
 もう一度頭を下げると、当帰は膝の上で握り締めていた拳を卓の上に置き直した。
 それが、ほんの少しではあるが当帰が心を開いてくれた証に見えて、もわずかに気が緩み笑みが滲む。
「何を笑ってらっしゃるんです」
 が、途端にぴしゃりとやられて口籠った。
 当帰は深々と溜息を吐き、卓に出した指を合わせて固く組み直す。
「……お詫びに来て下さったと言うことは、こないだのことは、こちらが全部正しかった、様に非があったってことを、お認めいただけるんですね。そうなんですね」
 全部、とは何処から何処までのことだろう。
 ふとがそんなことを考えている間に、当帰は一人合点していった。
「そうでしょうとも。お分かりいただくも何も、本当にそうなんだもの。誰が聞いたって、おかしいと思いますよ。あたしはね、様の為を思って言ってるんです。そりゃあ、今までは様のことを考えてくれるようなお人が側に居られなかったんだろうから、分からないでも無理はありませんけど、でも、それにしたってあんまりだもの。そうでしょう、様、あたしが言った通りでしょう?」
 まくし立てられ、は無意識に肩をすくめた。
 それが頷いたように見えたものか、当帰は大きく頷き、組んだ手を落ち着きなくわやわや蠢かす。
「……それじゃ、この話はこれで仕舞にいたしましょう」
 待ち焦がれていた言葉を口にする当帰に、の顔は一瞬ほころんだ。
「勿論、もうあの二喬様にはお近付きにならないって、お約束して下さいますよね」
 す、と音を立てて血の気が引く。
 喜びに相好を崩すと信じていたものか、青ざめるの表情に当帰の片眉が吊り上がった。
「……なんだ、すべて納得して、それでお詫びに来て下さったって訳じゃないんですか」
 いっそ清々しい程の冷たい声音に、は胸の辺りに凍て付くものを感じていた。
「謝りに、は、来た、つもりです、けど」
「けど?」
 言葉尻を素早く捕らえる当帰に、は眩暈を覚える。
 その鋭さは、本当に心の底からが悪い、自分は悪くない、が詫びて何もかもを言う通りにすべきだ、そうでなくてはおかしいという当帰の強い自我を感じさせる。
 が詫びたかった己の非とは、立場を弁えず世間の好機に晒されるような弱みを自ら作ろうとしていたことだった。
 確かに、他国の文官という立場で猥褻な文書(そういう意図でないにせよ)を作成していたのはまずいと思う。その点はまったく当帰の言う通りで、全面的にが悪い。
 けれど、だから二喬に近付くな、仲良くするなと言う当帰の言葉は、そのの職務を阻むものに外ならない。
 決して承諾できない話で、それをするなと言われればが呉に居る意味がなくなる。
 文官の立場を弁える為に与えられた職務を放棄せよとは、いったいどんな矛盾だ。
「……二喬のお二方と縁を切るような真似は出来ません」
 がたん、と大きな音が響く。
 当帰が蹴った椅子は、床の上を跳ねて滑っていった。
「……なら、お話はここまでですわね」
 強張った顔は、もう何も聞かない、受け付けないと雄弁に語っている。
 それでも、今ここで決裂すれば二度はないと分かっていた。
 は泣きたい気持ちを堪えながら、傍らに置いておいた竹簡を取り上げる。
「お願いだから話を聞いて下さい、二喬とはちゃんと話を付けて、ちゃんと、ほら、書き直して、それでいいって」
 当帰が憎む程嫌悪を示した『諸悪の根源』を広げる。
 物語は書き直し、すっかり問題のないようにした、それでも当帰のお眼鏡に叶わないならもう一度書き直すから、だから頼むから納得してくれと諭したかった。
 の舌は怯えと興奮で上手く回ってくれようとはしない。
 それでとにかく現物を見せようと躍起になった。
 これだけ努力したのだということを認めて欲しかったのだ。
「こんなもの」
 当帰の手がむんずと竹簡を掴み、の手の中から勢い良く引き抜く。
 次の瞬間、竹簡は壁に勢い良く叩き付けられて爆ぜていた。
 呆然とする。
 そうするしかなかった。
 苦労してまとめた物語は、竹簡と共に粉砕してしまった。
 それを目の前で見届けてしまった。
 の時が止まり、ただ立ち尽くす。
 当帰はし、ばらく肩で息を吐いて散らばった竹簡の破片を見詰めていたが、一つ深呼吸してから改めてに向き直る。
「貴女のお仕事は、こんなことではないでしょう、様」
 いいえ。
 ゆるゆると首を振るを、当帰の舌打ちが容赦なく打った。
「蜀の文官ってぇのは、こんな卑しい真似をするのが仕事だって仰るんですか」
 当帰の言葉には棘があった。
 そんなつもりではないだろうし、実際、物語を紡ぐなど文官の仕事と似ても似つかぬものと言っていい。
 だがしかし、である。
 はそれしか出来ないのだ。
 それしか出来ないものを、それがいいからと言って呼ばれているのだ。
 もしもがそれをしないのであれば、に価値はないと言っていい。
 知らないから、当帰は言ってしまったのだろう。言ってしまえるのだろう。
 当帰が悪い訳ではない。
 ならば、悪いのは自分か。
 文官らしい仕事をこなせもせず、あまつさえ世の常識すら持ち合わせのない自分が悪いのか。
 そうだとしたら、辛過ぎる。
 好んでこの世界に来た訳ではない、けれど仕事が欲しいと望んだのはで、しかし無能同然のを欲したのは孫堅ら呉の一族であり、それでもが文官として任に就いていることに変わりはない。
 やはり自分が悪いのか。
 出口のない自虐の渦は、の内をずたずたに切り付けていく。
 ぼろぼろと涙を零すに、再び当帰の舌打ちが浴びせられた。
「……泣くなんて」
 当帰の言葉はそこで途切れたが、の頭は勝手に後の語句を書き連ねた。
 卑怯、姑息、ずるい、逃げだ、意気地なし、無責任、その場しのぎ、うんざり、傍迷惑、云々。
 いずれもを責める言葉という点では変わりなかったが、当帰の胸の内にのみある正解とも大同小異だったろう。
 悲しみではなく、純然とした悔しさが溢れ返っての涙を止めさせない。
 話を聞いてくれようともしない、頭ごなしに否定と命令だけ与えられる、与えさせてしまう自分の弱さが憎かった。
 こんな時、諸葛亮であれば相手に付け入る隙も与えず華麗に言い包めるに違いない。
 龐統であれば、相手の言葉を受け流しつつ自分の意見を組み込んでしまうに決まっている。
 情けない程悔しかった。
 何の力も知恵もない自分の無力さが、分かってくれない当帰の非情さが、ただただ悔しかった。
殿」
 当帰でない声が、明瞭に、かつ重く響く。
「このような無礼者を相手になされる必要はない。もう、お戻りになった方が良かろう」
 の肩をそっと抱く手の温もりに、は尚刺激され泣きじゃくる。
 無礼とか、そんなことではない。
 分かって欲しくて、分かってくれると信じていたことが甘過ぎる程甘かったのだと思い知らされて、そんな甘い自分が情けなくて泣いているのだ。
 違う違うと首を振るが、置かれた手はしっかりとしていて、決して振り解かれはしなかった。
「人が話している最中に割って入るのが、無礼でないとでも仰るんですか」
 殺気を秘めた当帰の声に、呂蒙は静かに目を向けた。
「話をしている?」
 呂蒙の声は淡々として、何らの感情も感じられない。
 だからこそ威圧めいた畏怖を感じさせる。
 当帰ですら黙った。
「違うな。お前はただ、抵抗も言い訳も出来ぬ者を打ち据えているだけだ。しかも、打ち据えている相手は仮にもお前の主ときている」
「私は、主と思えばこそ」
 昂然と言い返そうとした当帰を、呂蒙は眼光のみで黙らせる。
 押さえていたらしい殺気が解かれていくのが感じられて、も涙を止めた。
「では、お前が言う『誰か』とやらに聞いてみるか」
 誰かとやらでなくとも、今まさに呂蒙が二人のやり取りに立ち会っていた。
 聞いて、見て、当帰の為しようがあまりにあまりだと立腹して、割って入ったまでだ。
「これは、私と様の問題ですよ!」
 叫び上げるも、呂蒙を微塵も動揺させるに至らない。
 表情からは激していると察することも出来ないのだが、その全身からまるで湯気が立つように怒気が発せられているのを、目で見えずとも肌で感じる。
 置かれた手が異様に熱く、怒りが呂蒙の体温を直接押し上げていることが知れた。
「当事者同士の問題と言うならば、確かに俺は部外者だ。だが」
 傍目からして、当事者という対等なものとして見受けることは出来なかった。
 そも、元より主従関係の立場にあって対等であってはならないものを、対等なのだと声高に叫ぶ当帰を理解しかねる。
「俺は、殿を守る任を与えられてここに居る。己の仕事を全うすべきだと、お前は今殿に申したではないか」
 俺は俺の任を全うする、それを咎められるいわれはない。
 きっぱりと言い捨て、呂蒙はを連れて室を後にした。
 後に残された当帰は、立ちすくんで二人を見送り、声を掛けることもなかった。
 また、が当帰を振り返ることもなかった。

 馬車に戻る頃、は再び泣き出していた。
 呂蒙はその涙の意図を覚ることが出来ず、苦い思いを胸に抱いたままにを馬車へ乗せる。無言で防寒具として乗せていた肩掛けを取り、の頭から被せてやるのが精一杯だった。
 声を殺して泣きじゃくるの、泣き顔を晒すまいときつく布を掴む指が白くて、それも呂蒙を苦々しくさせた。

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