宿として用意された役所に着いてから、は室に閉じ籠った。
 事情を知らない役所の人間には、馬車の揺れで気分を悪くしたようだと取り繕い、同行した部下達には緘口令を敷いた。
 やや大袈裟かと思ったが、不明な事情に二喬が絡んでいる以上、用心するに越したことはないと思われたのだ。
 とにかく、しばらくそっとしておくのが良かろうと、敢えて放置することにした。
 しかし、が食事に手を付けない、医師を呼んだ方が良いのではないかと申し出を受けて、呂蒙は直接出向かざるを得なかった。

殿」
 見張りも下げた戸口の前で、中に籠っているだろうに声掛ける。
 返事こそなかったが、呂蒙がしばらく立ち尽くしていると戸口に気配が近付いてきた。
 戸板を挟んで黙しているに、呂蒙は得も言われぬ戸惑いを覚える。
 口を聞くのも億劫なのだろうが、当帰との諍いに呂蒙は関わり合いない筈だった。
 関わり合いになりたくないとなどと言うつもりはないが、せめて自分は味方だと認識だけはしていて欲しい。
「……その、食事を召し上がらんとか」
 当たり障りのない切り出しに、工夫のないと自身を詰る。
 もうほんのわずかでいい、親身になっていると分かるような、心憎い声掛けの一つも出来ないものかと腹立たしくなった。
「すみません……何か、食べる気になれなくて」
 ぼそぼそとした声は陰鬱で、だが単純に不貞腐れているというのとも異なる印象を受ける。
 無性に不安に駆られて、呂蒙は戸口に手を触れた。
 冷たさがじんわりと伝わる。
 意味もなく焦りに拍車が掛かった。
「ここを、開けていただくことは出来んだろうか」
 顔を見てどうなるものではないと分かっていても、声だけで交わされる会話に落ち着けるものでもない。見たいと思うと矢も楯も堪らず、是が非でも顔を見なければと言う気になってくる。
「それは」
 短くも明確な拒絶の意志を感じて、呂蒙は更に躍起になる。
「開けていただきたい」
 扉の向こうでがうろたえているのが分かる。
 じりじりと後退りしている気配さえ感じて、呂蒙は眉を顰めた。
「……開けていただけないのであれば、こちらから破ってよろしいか」
 乱暴な申し出に、が息を飲んでいる。
 嘘か真か判じかねているに違いない、と呂蒙は察した。
「そこを、退いていただきたい」
 決して嘘でない証拠にと行動に移ろうとする呂蒙に、慌ただしく待ったが掛けられた。
 扉が細く開き、俯いたが扉の隙間から見える。
 伏せられ見えない表情に、何ともやるせない気持ちにさせられる。
 衝動的に詳細を問い詰めてしまいそうになるのを、呂蒙は固く拳を握って耐えた。
「詳しいことを、俺は知らん」
 訥々と洩らす呂蒙の言葉を、はただじっと聞いているようだった。
「だが、貴女がそのように萎れて居られるならば、俺は、あの女に何らかの処分を下さざるを得ん」
 が弾かれたように顔を上げる。
 呂蒙の目が丸く見開かれ、それと気付いたはばっと顔を押さえた。
「……だから!」
 だから嫌だったのに、と口の端を曲げたの目は赤く厚ぼったく腫れ上がり、暗がりで見た日にはどんな豪胆な者もぎょっとするような顔になっていた。

 冷たい井戸水を運び込ませると、濡らした布を固く絞ってに渡す。
 目元を押さえているの表情は伺えないが、呂蒙が案じたよりは元気なようで、ほっとした。
「すぐ、腫れちゃうんです……でも、ここ水が置いてなくて」
 家人を呼べばと思ったが、慣れ親しんだ城内の家人でさえろくに使おうとしないが、初めてくる場所の家人に用を頼める訳もない。
 食事時には人も来ようが、は食事そのものを断ってしまっていたし、寝る前になれば運び込まれるだろう水差しも、が引き籠っている上に呂蒙から一人にさせておくよう命が下りていて、どうにもならなかったのだろう。
 親切に気を配ろうとすると、いつもこうだ。
 呂蒙が頭を掻くと、は温くなったらしい布を水に浸した。
「俺が」
 慌てて申し出るが、は軽く首を振って布を絞っている。
 卓の上に跳ねた水が呂蒙の心をも重く濡らすようで、鬱々とした。
 二人ともに口を開かず、冬の静けさと相まって空気が重く凝っていく。
 先に切り出したのは、の方だった。
「……上手く、出来ないんです」
 は、と息を飲む呂蒙を、は素知らぬ振りでいるようだった。
 もっとも、目を塞いでいるからの視界には真実誰も映っていない訳だが。
 の独白は淡々と続く。
「文官の仕事を、なんて言われたって、私、ほとんど何も知りません。何をやるかもあんまり分かってない状態で、文官になる前に普通やっておかなきゃならない勉強だって、今教えてもらっているような有様だし。だから、物凄く、自信ないです」
 唯一、これなら、これだけはと自信を持っていた『物語を紡ぐ』という仕事でさえ、文官のやる仕事ではないと切り捨てられてしまった。
「それは」
 呂蒙が口を挟もうとすると、は首を振って諌める。
「……分かってます、知らなかったんだろうって、私だって思います。でも、それとこれとは別なんです。私はこれも仕事なんだって言って、分かって欲しかったけど、分かってもらえなくて」
 ならば悪いのは当帰ではないか。
 呂蒙の言いたいところをは敏く感じ取ったのか、その口元に笑みが浮く。
 苦笑いだった。
「……私の説明じゃ、分からないんだろうな、もっと、諸葛亮様や龐統様とかだったら、きっともっと上手く出来るんだろうなって思って、そうしたらどんどん自分が嫌になって、情けなくなって、そしたら涙が出てきちゃって、それも情けなくて、悔しくて」
 自分が無価値に思えて来た。
 無価値ならばまだいい、周りの足を引っ張るだけなのではないか。
 そう考えたら、消えたくなった。
 一切合切、影も残さず消えたくなったと言う。
 呂蒙の胃の腑を、冷たいものがひやりと撫でていく。
「何を」
 絶句してしまって、それ以上が言えない。
 程愛されている女を、呂蒙は見たことがない。
 かつて、いざこざに巻き込まれて責め立てられたことはあったが、それはずっと前の話だ。
 今は皆、どういう形であれの気を引こうと躍起になっていると言っていい。
 その寵愛を得ようと必死になっている男も少なくないと、それどころか君主孫堅でさえ心惹かれていると分かるような立場にある女が、こんな泣き言を漏らそうとは夢にも思わない。
 何を馬鹿な、と吐き捨てたくなった。
 それを言うなら、俺の方が余程。
 胸の内に沸き上がった言葉に、呂蒙ははっと我に返った。
「……否、そう、か……そうだな……」
 が今思うことは、かつて呂蒙が感じ、今も尚目を逸らし続けている思いだった。
 公明正大、武にも学にも長け、決して思い上がることない謙虚な将と、人は言ってくれる。
 だがそれもすべて、呂蒙が抱える劣等感の裏返しによるものだ。
 公明正大なのは自分が不当に扱われたくないからこそ、武にも学にも励むのは、少しでも誰かに認められたいからこそで、それでも武でも学でも呂蒙に比すことも出来ない存在が幾らも居る。思い上がらないのではなく思い上がることが出来ないのだと、いったい幾人が分かってくれるのだろう。
 もそうであると仮定すれば、それは切ないまでに理解出来た。
 一度仮定してしまうと、それ以外には有り得ないと思い上がる。むしろ、そうであって欲しいと希っている自身の醜さに気付いていた。
 もしそうだとするならば、を誰より理解できるのは呂蒙だったからだ。
 呂蒙こそが、真にを理解し、守ることが出来る。
 胸の奥に忘れ去っていたつもりのものが、理由という格好の餌に釣られて顔を出すのを、嫌悪と共に覚った。
 呂蒙の想いとは裏腹に、勢いだけで抱き寄せると、から驚き以外の抵抗が伝わってくる。
「俺もだ」
 が抵抗する理由など何もない。呂蒙もまた、と同類なのだと告白する。
 拭い切れない劣等感に追われ、眠れない夜を過ごすことがある。自身の存在が瑣末に感じられてどうしようもなく焦り、周囲の者に浅ましい羨望の目を向け、それを認めるのも狂おしく、妬ましくて目を逸らす。
「俺は、そうだ」
 お前もだろう、とばかりに水を向ければ、一度は乾いたの眦にみるみる涙が溢れ出す。
 羞恥に焼かれ、ぱっと赤くなった顔を、呂蒙の胸に埋めて隠した。
 認めたも同然だった。
 腕の中に在る女が、かつては手の届かない存在だったとは思えない。
 これ程身近に感じる人間の存在を、呂蒙は知らなかった。
 俺が、俺こそが。
 そんな思いが呂蒙を大胆にさせた。
 頬に手を添えて上向かせ、口付ける。
 無骨な、手管も知らない口付けに、が徐々に応えていくのが堪らなく嬉しい。
 噛み締めていた歯がおずおずと開かれ、ちろりと差し出された舌が呂蒙のものと触れ合うと、はわずかに踵を浮かせて爪先立ちになる。
 求められている事実が、呂蒙の勢いを更に激しいものにした。
 呂蒙の腕が本格的にを戒め、その背を、腰を、強く抱く。
「……は」
 押されて反らされた背が唇の位置をずらし、熱を帯びた吐息が漏れ出た。
 それを引き摺り戻し、深々と唇を合わせる。
 口の端から飲みきれなかった唾液が糸を引いて滴り落ちても、二人共に構えない程に、熱く滾ってのめり込んでいった。
 それでも、熱が離れれば理性は蘇るものらしい。
「な、泣いた、から、ちょっと……」
 この期に及んで言い訳しようとするに、呂蒙は焦れたように唸り声を上げて口付けを落とす。
「でも……でも……」
 どうしても、ぐだぐだと泣き言が続く。
 も、自分が呂蒙に熱くなっているという自覚はある。
 あるが、既に何人もの男と、しかも呂蒙の上官や同僚、更には君主とも寝たことがある身だ。
 清廉とは言い難い体を、呂蒙のような潔白な男に抱かせて良いものかどうか、迷いがある。
 否、本当は、浅ましく飢えた自分の正体を、呂蒙に見せるのが怖かったのかもしれない。
 迷う心とは裏腹に、体は呂蒙の雄の印を欲して止まなかった。
 脳裏には呂蒙の雄の影を思い描き、それが自分の内でどう猛るのか妄想している自分も居る。
 早く早くと女の部分にせっつかれ、御しきれずにいる自分が酷く惨めだった。
「私、だって、他の人とも」
 不安に揺れながら放たれた言葉に、呂蒙の目が強張る。
 止められてしまうか、と体の内側が一際強く引き攣れた。
 何を不安に感じているのか分からなくなって、べそを掻くを、呂蒙は強く抱き締めた。
 の体に、呂蒙の雄の部分が押し付けられる。
 固く滾ったその熱さに、の泣き言は封じられた。
「……今、ここに居るのは、俺だ」
 不意に太史慈の声が蘇った。
――他の男が触れているものを、俺だけ諦めるなど。
 そういうものだろうか。
 呂蒙も、呂蒙でさえもそう思うものなのだろうか。
 じん、と痺れるような感覚が下腹から伝わり、を責め立てる。
 呂蒙がいいなら、いいではないか。
 捨て鉢でもなくあっさり呟く己の独白を聞いて、はぎょっとした。
 預かり知らぬところで動揺するを余所に、呂蒙は熱に浮かされるままを掻き抱く。
 最早の都合などに構って居られない程、呂蒙は滾り暴走しようとしていた。
 ひょいと抱き上げ、視界の端に映った寝台へと移動する。
 抱き上げられたも、もう抵抗する素振りもなく、細かに体を震わせている。愛いと思いこそすれ、よもや平静を失って固まっているとは思わないから、呂蒙はそのまま歩を進めた。
 後もう少し、二歩三歩でごと牀に身を投げ出し、狂おしい情動に流されようというところだった。
様、呂蒙様」
 鉄柱が空から降ってきたが如き衝撃が、二人を打った。
 取り繕う間も作れず唖然呆然と黙り込む二人に、廊下の使者は困惑したように、懸命に声掛けを続けている。
 呪われているのではないかと思った。

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