体の奥底がぞわぞわして落ち着かない。
 他のひともこうなものか、それとも自分だけのことなのか、には判断が付かなかった。
 興味本位、または資料の目的でいわゆるアダルトものを見ることはあったが、途中で焦らされ甘い啼き声を上げる姿と自分とが未だに重ならないで居る。
 まして、行為の最中であればまだしも、夢から覚めるように現実に引き戻された今になって、未だ熱の残滓を持て余そうとは思いも寄らない。
 微かではあったが、確実に蠢いている飢餓には眉を寄せた。
「……やはり、ご気分が優れませなんだか」
 苦笑を滲ませているのは、かつて凌統の父に仕え、当帰の現夫である宿屋の主だ。
 は、彼の人の名前を未だに知らないで居た。
 だから、最初に名前を聞かされた時は、はていったい誰だったろうと小首を傾げてしまった。
 取り次いだ家人を責めるように睨め付ける呂蒙は、普段の温厚さが幸い(あるいは災い)して家人の良心を酷くいたぶっていたのだが、不機嫌の原因が余所に在る呂蒙が気付いた様子はない。
 呂蒙を取り巻く、特に下に就く者は、呂蒙も一人の男なのだということを失念しがちのようだった。
 父のように、また兄のように穏やかに情を込めて接してくれる姿に、ついつい呂蒙の『男』の部分を忘れてしまうのだろう。
 仕方がないとも言えたが、呂蒙がに手を出した事実は欠片も察せられるものでもなく、呂蒙の実は繊細な矜持を守る結果に繋がることとなった。
 さておき、が知らぬものを呂蒙が知る由もない。
 凌操健在であればまだしも、退役を許されてかなり経っている。呂蒙と言えどそこまで詳細を知らずとも、致し方がないと言えた。
 その点は、しかし宿の主が機転で補ってくれた。
 街の宿屋の主が会いたいと言ってまかり通る相手では、そもない。
 かつて凌操配下だった男と言ってくれれば良いと付け足して、それでも宿の主と思い出すことが出来たのだった。
 代わりに、当帰の夫でもあると思い出し、顔色を変えたから呂蒙が離れる道理もない。
 簡易な説明は受けたが、呂蒙もならば尚更と身構えていた。
 宿の主は、物固い二人の様子に動じなかった。あらかじめ、ある程度の予想を付けていたのかもしれない。
 面倒と思ったのか、手っ取り早くと考えたのか、宿の主はいきなり本題に入った。
「当帰のことですが」
 核心に触れられて、と呂蒙に緊張が走る。
 惨いことをと詰られるだろうか。
 申し訳ないと謝られるだろうか。
 想定はその二種に限られていたが、宿の主が口にしたのはそのどちらでもなかった。
「あれは、謝るのが下手な女です」
 は初めて、当帰がかつて凌統に漏らした『姐さん』との関わりを聞くことになる。
 ありがちな意地張りが、後悔しても取り返しのつかない事態に結び付いた因縁の深さに、は沈痛な思いに駆られた。
 呂蒙も、よりは幾分慣れてはいるものの、それでも良くある話と吐き捨てる程ではない。
 二人の苦々しい表情に、宿の主ははっきりとした苦笑を浮かべた。
「あの女が様に対して抱いている思いが、普通の雇われとは少しばかり違ってしまう理由を、ご理解いただけたでしょうか」
「しかし」
 口答えしたい訳ではないが、呂蒙は異論を唱えずには居られなかった。
 他国の文官であると娼婦を同列に並べるが如くの言葉に、得も言われぬ申し訳なさを感じたせいかもしれない。
 宿の主もそれは心得ていたようで、あくまで『あれ』が考えている話ですがと後付けを施した。
 自身は、当帰の口からその事実を聞かされているから気にしたものでもない。
 そもそも、当帰がに同乗してくれるようになった理由は、自分と『姐さん』が似ていることにある。自分の立場を娼婦と変わらぬものと(嫌々ながら)認識していることもあり、呂蒙の危惧はまったく見当違いだった。
「私は……でも、どうしたらいいんですか」
 謝りに行って、受け付けてもらえなかったのはこちらの方だ。
 正直、当帰の反応は嫌悪からくる拒絶としか思えず、今にして何を言っても跳ね除けられただろうと断言できる。
 が謝ろうが謝るまいが、許さぬ心構えで居るものをどうやって説き伏せろというのか。
 それこそ臥龍鳳雛の才長けた舌技を要するに違いないと思う。
 ぼそぼそと言い訳めいた言葉を、宿の主は途切れさすことなく最後まで根気よく聞いてくれた。
「確かに、当帰は許すつもりはなかったと思います」
 反論が来るかと思ったが、予想はあっさり覆された。
 かと言って、宿の主が女房の不始末を恥じ入る様子もない。
 何が何だか分からず、は困り果てて宿の主を見詰めた。
「よろしいですか、様」
 宿の主は、まるでこの機を待っていたとばかりに悠然と口を開く。
「大切に慕う方と諍った後、その方が名ばかり存じ上げているに過ぎぬ将軍様を、兵をも携えてのご同道の上で突然訪問なさったら、様は驚きませぬか」
 ぽかん、と口を開いて黙り込むに、宿の主は懇々と言葉を繋げていく。
「何事か、どういうつもりかと勘繰ったりはなさいませぬか。これはようこそと歓待できるものでしょうか。ちょうど目も回らんばかりに忙しい頃合い、詫びたいと思う気持ちもあれど、どうしても外せない用事を抱えていたら如何でしょうか。そういう時ばかりへまをしてしまうことは、ありませぬか。長らく待たせた相手にようよう会いに行って、自分の家人がろくでもないもてなしをしていたと知ったら、顔から火が出るほど恥ずかしく、また情けない思いになりはしませぬか」
 当帰の立場で物を言っている。
 すぐに分かったが、腹が立つことなど有り得なかった。
 が当帰の立場であれば、当たり前に切れていておかしくない状態だった。
 仲違いした友達が、上司なり教師なり、とにかく『上』の人間同伴で自宅にやってきたら、もとにかく警戒して刺々しくなるだろう。
 何の前触れもないのである。
 凌統が遠征していることは知っていても、面識のない呂蒙がやって来ることは、当帰にとってまったくの想定外に違いなかった。
 加えて、例えばが修羅場中、締切まで後数時間の状態での訪問だとしたら、お茶出しておいてと頼んだ相手が来客を家にも通さず、寒風吹き荒ぶ軒先で茶を飲ませていたとしたらと、想像するだに空恐ろしい。
 ようやく自分がしたことに気が付いて、は顔を真っ赤に染めた。
 呂蒙も同じ気持ちだ。
 極々小者という認識があるだけに、当帰の、そしての心持ちが痛い程に分かる。
 事の原因の一つが自分の同席に在ることが、尚更呂蒙を責め立てていた。
 もっと勝手にするべきだった。
 主の気が回らないと不平を溜める前に、さっさと窓板を下ろしてしまえば良かったのだ。
 文句を言われたなら言い返してやれば良い。
 このような寒々しい室に放置して、貴様の主は何を考えていると詰ってやれば、小娘のことだ、自らの失態に青ざめて詫びを入れたやも知れない。無礼と怒り狂うなら、それこそ行儀を知らないと詰問して遣って良かった。
 下手な矜持にこだわった結果がこれでは、を守るなど大言壮語も甚だしい。
 畏まる二人を前に、宿の主は苦笑を崩さなかった。
「……そう、改まって下さいますな。うちのに、非がなかった訳では決してない。ないどころか、どうしようもない馬鹿なことをしでかしたと聞いて居ります。ですが……」
 ここで話は冒頭に戻った。
 当帰は、謝るのが下手な女なのだ。
 それこそ、大切だった『姐さん』を失うまで大切だと気付けなかった、失う瞬間まで謝れなかった筋金入りの謝り下手だ。
 成長がないのは威張れたことではなかったけれど、謝り難い状況であったことも加味して欲しいと宿の主は頭を下げた。
「しかし」
 呂蒙も、いい加減にしつこいと自覚している。
 が、それでも当帰の態度は常軌を逸していたと思う。
「あれは」
 宿の主は却って申し訳なさそうに、上目遣いに呂蒙を見遣った。
「……あれは、様の母親のつもりで居りますからな」
 呂蒙の目が丸くなる。
 は困惑して俯いた。
 母だ娘だ恋人だという遊びは、多かれ少なかれ体験するような他愛のないものである。
 ただ、本気でやっている者は少ない。
 少なくとも、は本気でやっているつもりはなかった。あれはただの言葉遊びに過ぎず、宣言したからどうだというものではない。
 単なる仲良しの戯言程度だ。
 だが、思い返せばそれらおべんちゃらを本気で受け止める者がないではない。
 相手が言ったことをすべて鵜呑みにし、SならS、MならMと信じ込み、暴言をあの人サドだからで許したり、貴女はマゾなんだからいたぶられるのが好きでしょうと暴言を吐いたり、には信じ難い礼儀知らずが確かに居た。
 当帰がそのまま当てはまるとは言わないが、そういう類の人間が居ることは居るのだ。
 の沈黙をどう受け止めたのかは分からなかったが、宿の主は話を続けた。
「母と言っても、本当に子を育てた訳ではない。あれはその上、大切なものを失う痛みをこの上ない苦痛として覚え込んでしまった。一つを許す代わりにいま一つを許さず、そうしてくれなければ命に関わると思い込んでいる節がある。様」
 どうか、許してやって欲しい。そうして、しばらく距離を置いて欲しい。
 相反する願いに思えた。
 呆然とするに、宿の主はすぅっと顔を上げる。
 その目を、何処かで見たような気がした。
「あれは、不器用です。強がって見せようとして、それで人を傷付ける。商売人としても上手いものではなし、気が付いてもどうにもしようがないから、あれ自身も相応に敵が多い。あれは、貴女を守ろうとして貴女を傷付けてしまうでしょう。それはいただけない」
 どちらもどうにも出来ないことがある。
 善意であればいい、悪気がなければいいというものではないのだ。
 現実は、そんな容易いものではない。
「せめて凌統様が居られれば、あれの暴走も適当に止めていただけるのでしょうが」
 肝心要の凌統が留守とあっては、心許ないにも程がある。
 そも、宿の主が当帰の仕官を許したのも、まさか護衛役に任じられた凌統が飛ばされることはないと決めて掛かっていたからだった。
「期限は、凌統様がお戻りになるまで。……それこそ、その時改めて身の振り方を決めればいいだけと思いますが、如何でしょうな」
 当帰を惜しむ気持ちは、の内にも残っている。
 同時に、当帰が抉った傷がじんと痛むのも確かだった。
 頷くより、仕様がなかった。

 を室に残し、呂蒙が宿の主を見送った。
 薄暗い廊下の途中で、宿の主は深々と頭を下げた。
「呂蒙様にも、どうしようもないご無礼を申し上げたとか。詫びて済むことではありますまいが、私からも、お詫び申し上げます」
 背筋を伸ばした立ち居振る舞いに、間違いなく武の残滓を感じる。
 どうして凌操の元を辞したのか訊いてみたい気もしたが、呂蒙は堪えた。
「本来であれば、当人を連れてお詫びするべきところですが」
 には内密にと前置きして話すところによれば、当帰は呂蒙達が岐路に付いた後、それこそ身も世もない程に泣き崩れて手がつけられなくなり、今は医師に掛っているという。
 あんな当帰を見るのは、家人のみならず夫である宿の主も初めてで、途方に暮れて出向くのが遅くなったそうだ。
「……黙した方が良いことだろうか」
 に教えてやれば、幾らか気が晴れ、当帰との諍いを水に流そうと考えるやもしれない。
 けれど、宿の主は強く否定した。
「気に病み過ぎた様が、臥せてしまわれることこそ困りましょう。いずれ文でも書かせましょうから、その際はよしなに」
 快諾すると、宿の主は丁重に礼を述べてその場を辞した。
 立ち去る背を見送り、呂蒙は暗く沈んでいく。
 凌統が居れば、こうもこじれることはなかったのではないか。
 当たっていないとは、断じて言えなかった。

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