呂蒙が室に戻ると、ちょうどが扉から出て来ようとするところだった。
 考えるだに、当たり前だがここは呂蒙の室ではない。
 は呉の客人として丁重に扱わなければならない存在であり、如何に学びの師と教え子の間柄にあろうと、机を離れたところではそれ相応の対応を求められるべきひとであった。
 それだのにのこのこと直行して戻ってきた己を、呂蒙は恥じ入ってしまう。
 あまりに気安い。
 一旦戻って来るのが当然としても、まず報告の心持ちで居らなければ嘘だ。
 わずかな間に悔恨していて、の様子に気付くのが遅れた。
 何やら顔が赤い。
 更に、どうにももじもじとして落着きがない。
 はっと思い当たる。
 突然の訪問がある前、二人は互いに熱を高め合っていた。その残滓は、今も呂蒙の内底にある。
 忘れ掛けていた熱が再燃し、を責め立てているのやも知れない。
 尊ぶべき客人であり、慈しむべき教え子であり、欲して止まない女であった。
 求められれば応じぬ訳にもいかない、むしろこちらの方から求めたいと希う女なのだ。
「な……何か」
 愚鈍と自らを罵りながらも、問い返してしまう。
 求めている、とは思っても、求められることに越したことはない。否、求めて欲しいと希ってしまう。
 誰しもが持つ自然な要望だった。
 の目が誘うように伏せられる。
「……こんなこと言うの、アレなんですが……」
 言い淀む声がもどかしい。
 ごきゅ。
 呂蒙は、己が喉元が鳴らす音の大きさに、更に煽られ血を沸き立たせた。
 意を決したようなが、軽く顎を引いて呂蒙に向き直る。
「お酒、呑みたいんですけど。いいですか?」
 いいも悪いも。
 あまりと言うにもあまりな思い違いに、勝手な期待が厚かましくさえ思え、呂蒙は笑みを浮かべて取り繕った。

 勢い、二人で向き合って杯を交わしている。
 他の者はいざ知らず、呂蒙がと差しで呑むのは珍しい。
 宴の席でもまずないことで、これを幸いと言っていいものかどうか、迷いどころであった。
 と言うのも、の酒があまりに早く、良く取り繕っても自棄酒としか思えない。
 呂蒙が居ようが居まいが構わないとばかりに一人杯を干していく。
 正直、女が一人で酒をあおっている姿など、到底見栄えの良いものではない。
 悪ふざけを好む孫策甘寧辺りであればまだしも、世の男と早々変わらない感性の持ち主たる呂蒙であれば、そう思ってしまっても致仕方のないことと言えた。
 それでも、思ってしまう自分に自己嫌悪してしまうのが呂蒙という男だった。今更ではあるが、酒瓶をこちらに引き寄せておけば良かったなどと愚図愚図思い悩んでいる。
 どちらが男で女か分からない。
 やがて、酒瓶を逆さに振っても雀の涙程も酒が残っていない段になって、ようやくは口を開いた。
「……吐いても、いいですかね」
 すわ、と呂蒙が慌てるが、は至って平静で戻す様子もない。
 椅子を斜めに傾けてゆらゆらと揺らしている様はあばずれそのものだったが、緊急の事態でないと分かって呂蒙は腰を下ろした。
 それを了承と受け止めたか、はぁっと深い溜息を吐くと、とろんと濁った眼を呂蒙に向ける。
 せめて淡くも笑みを浮かべて居れば違ったろうが、の眉間には深い皺が刻まれて、ご機嫌とは程遠い面持ちをしていた。
 酒のもたらす高揚感も、この時のを浮かせるには至らなかったらしい。
 母親にでも叱り付けられるようで、こちらは少し酔いの回りつつある呂蒙は背筋を正した。
「ホントにこれでいいんですかね」
 前置きも解説もない。
 いきなり切り出されても、何のことやら量りかねた。
 は構わず言葉を綴っていく。
「ホントに、ホントのホントにこれでいいのかなって。全然何にも、それこそひとっつも解決しないで、距離置いて、それでいいのかな。……その方が、楽。これは、ホントに間違いなく、そう。でも、ホントにそれでいいのかな。公績帰って来るまで待ってて、後始末頼んで、成り行き任せにしちゃおうって、つまりそういうことなんでしょ? それで、ホントにいいの? ホントに、私はそれでいいの?」
 当帰とのことを言っているらしいが、話し掛けている相手は呂蒙ではなく、自身のようだった。
 どう対応していいか分からず、呂蒙は渋い顔をしてを見守る。
「お母さんって呼んでいいって言われた時、私ホントに喜んだ。絶対、あの時私、喜んだ。なのに、今になってそんなの単なる遊びって、言い訳しててホントにいいの? だって、私喜んだのに。お母さんだって、喜んでた。娘だよって、私が辛い時も、馬鹿だねって言ってたけど、でも、味方になってくれて、しょうがないねって、私のこと認めてくれてたのに、私は全部そうしてくれないって、これだけどうして駄目なのって、何で許してあげないんだろう。大喬殿とも仲良いから? でも、だからごり押しして、認めろって喚くだけしかしてなくって、諸葛亮様みたいに頭が良くないからとか決めつけて、ホントに、ホントにないの? 時間置いて、公績に頼るしか、私に出来る事ってないの? ちゃんと、探した? 考えた? 逃げてるだけじゃないの? 一回二回駄目だったから、もう駄目だって? それで、諦められる? お母さんって、私にとってそれだけの人? そんなものでしかないの? だったら何で、初めから距離置かないの? 思わせ振りに喜んで、はしゃいだりして、受け入れておいて都合が悪くなったら破棄するの? 勝手に? それで、いいの? いいと思ってるの?」
 吐いてもいいか、の言葉の真意を、呂蒙はようやく覚った。
 胸の内に鬱積した澱を、は今尽く吐き出そうとしているのだ。
 聞いているだけでも目が回りそうな、絶え間ない怒涛の『一人言』だった。
 長々と続く自問自答の中身は、ほとんど自傷に近い。罵り、吐き捨て、追い詰めるだけの言葉の羅列だ。
 酔っているからで済ませるにはあまりに凄絶な状況で、呂蒙の額に汗が滲む。
 もしも赤の他人に同じ言葉を向けられれば、凹むどころでは済むまい。自身へ向けているからこそ熾烈なのだろうが、逆に、という人間は常にここまで自身を罵って生きているのだろうかという危惧を覚えた。
 人間は、誰しも自分に甘いものだ。
 呂蒙とて、自らの未熟を恥じて激することもある。
 けれど、それは自分を叱咤することで激励し、与えられた試練に立ち向かうまでの言わば作法のようなものだ。
 ここまで痛烈に、執拗に自分を追い込むことは、ない。
 の場合、あたかも同じ人間が二人居て、お互いに向かい合わせて罵声を浴びせ合っているようにも見える。
 お前は駄目だ、足りない、欠けている、駄目な奴だ。
 如何に脳なしで思慮が浅いかを滔々と、嫌みたらしい問い掛けの形で追い詰めていた。
「もっと方法はなかったの? 全部悪いのは相手だって決めつけて、それは、確かに楽。楽だけど、卑怯。ちゃんと聞いた? お母さんの気持ち、考えてること、ホントにちゃんと聞いてたの? 嫌だから、頭に来るからって聞き流してたんじゃないの? そういうの、伝わっちゃって、それで腹を立てられたとかいう可能性は? 全然ないってことはないよね。過剰に期待しちゃって、何でもしてくれる筈、応えてくれる筈って、勝手に決め付けて負担掛けて、それで嫌がられたんじゃないの? うぅん、お母さん、むきになる人だ。責任感強くて、ちゃんとしてないことが嫌いな人だ。だから、一生懸命間違いを直そうってしてくれてたってことは? あるんじゃない? だって、この時代で、家族の絆ってすごく大事で、私みたいに、遊びで考えたりなんて全然しないのかもしれない……してる方が、おかしくない? だって、みんな精一杯生きてて、そうでなきゃ生きてけなくて、一番考え方甘いのは私で、だったら私の方が悪いってことなんじゃない? 認めたくなくて、相手が悪い、酷いって決め付けて、いいから私に譲ってよって何でもない振りしてさりげなくアピールとかしてんじゃない? それって、ずるくない? 卑怯じゃない? そうじゃない?」
 顎に押しあてた拳がわなわなと震え、次第に白く血の気を失っていく。
 目は見開いたまま、虚空を睨め付けている。
 見る者が見れば、気が触れたと言われてもおかしくない。
 呂蒙は、痛々しいものを見たかのように目を瞑った。
「やめろ」
 の両目を、赤っぽい、温かいものが塞ぐ。
「やめろ、十分だ」
 呂蒙の厚い手が、の視界を遮った。片手で用を為す程に大きな手から、鍛錬で出来たと思しき固いマメの感触がした。
「……どうにも出来ないことがあるのは、知ってます。分かってるんです」
 でも、とは声を震わせる。
「出来ないからって投げ出したら、そしたら、私が居る意味って、何ですか」
 歯を食い縛るの口元から、ぎり、と耳障りな音が鳴り響く。
 呂蒙は苦笑を漏らした。
「……飛躍し過ぎだ」
 がここまで溜め込んでいたことを、呂蒙は知らずに居た。
 それだけ心許せる相手が少ないこともまた、今初めて本当に理解した。
 ひょっとしたら、蜀に戻っても同じことなのかもしれない。がこの『中原』において異端者であることは、誰もが認めるところだった。
 だからこそは認められ、求められる。
 それでも、そんな付加価値がの孤独を埋めるに至るとは思えない。
 却って追い詰められ、頑なな壁を築かざるを得なかったのではないか。
 そう考えれば、が見せる数多の表情にもそれぞれ理由があるのだと理解できた。
 一度は理解したと思っていたのに、には未だ呂蒙の知らざる面がある。
 仕方がないことだ。他人というものは、それ程容易く理解できるものではない。
 呂蒙は目隠しにしていた手を外すと、の髪をゆっくり撫でた。
「何もかも、一朝一夕に済ませられるものではない。それぐらい、お前にも分かるだろう」
 反論しようと口を開いたのは、刺々しい目付きで感じられた。
 その目にもすぐに迷いが生まれ、澱み、深く暗く沈んでいく。
「出来ないからと投げ出すことはない」
 呂蒙は細心の注意を払いながら、静かに言葉を探しつつ舌に乗せる。
「出来ないならば何故出来ないのか、今自分に何が出来るのか、考え道を探すことも出来る。……やれることに限りがあっても、皆無ではないなら諦めることもない」
 の表情が、教え子のそれに変わっていった。
 呂蒙の言葉に真摯に耳を傾け、発せられた言葉を噛み砕き、言わんとするところの尽くを理解しようとしている。
 先程までの痛々しい影が消え失せたことに、呂蒙はただただ安堵した。
 それにしても、引っ張り回してくれるものだ。
 呂蒙のみならず、呉の武将連は、否、ひょっとしたら蜀の武将達も、に力いっぱい振り回されている。
 手を離せばいいのだろうが、離したら最後、自分ももどこへ飛ばされるやら分からない。
 そんな不安感が、と自分達を引き寄せているのではなかろうか。
 他愛のない考えに、呂蒙は小さく嘆息し、ついで声もなく笑う。
「……すいません、悪い酔っ払い方して」
 平静を取り戻したらしく、妙に神妙な顔をするに、呂蒙の中で何かがぽとりと落ちた。
「……まったくだ、俺はてっきり、色気のある話をしてくれるかと思ったぞ」
 意表を突く呂蒙の軽口に、は度肝を抜かれて固まった。
 ぽっかり空いた間の空気に、呂蒙の方から冗談だぞと念押しされても、はしばらく固まったままだった。

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