遠くから聞こえてくるざわめきに、当帰は浅い眠りからの覚醒を余儀なくされた。
 眠っているようないないようなな状態だから、起きることは苦痛ではない。
 ただ、どうにもすべてが面倒だった。
 たった一人の人間と諍うことが、よもやこれ程の疲労を促すとは思いも寄らない。
 これまで商売敵とこじれることは幾度もあったと言うのに、どうしてなのか見当も付かない。
 否、と当帰は自嘲する。
 見当くらいは付いている。
 単に、認めたくないだけだ。
 素直にこちらの言うことを聞いてくれれば良かったのに、頑として言うことを聞こうとしない相手に焦れたのだ。
 お姐さんそっくりだというのに、中身はお姐さんと正反対だ。
 嘯き掛けて口を閉ざす。
 そっくりなんかじゃない、そっくりだと思い込みたいだけだ。
 情けなさに眩暈がする。
 凌統に、決して重ねて見ている訳ではない、罪滅ぼしのつもりであの子を支えてやりたいのだなどと、大口叩いていたのが嘘のようだ。
 凌統が呆れているのが目に浮かぶようで、当帰は居心地悪く肩をすくめる。
 誰が何と言おうと気にしたことなどない(少なくとも、決して気にして見せないようにしていた)と言うのに、あの子のこととなるとてんでいけない。
 まして本人相手に喚き散らすとなったら、途端に我を忘れて熱くなる。
 あの子がそうだと言うならやらせてやれば良かったのだ。
 それで痛い目に遭って泣きついてくるようなら、その時初めて滔々と言って聞かせて呑みこませてやれば良かった。
 万に一つも命に関わるようなことではなかった筈だ。
 そんじょそこらの性悪正妻相手ならともかく、音に聞こえた花の二喬の片割れが、何で己の地位を危ぶませるような真似をしてのけるだろう。
 そんな悪さを思い付く筈もない、いいとこのお嬢なのだということは、当帰の『鼻』も嗅ぎ分けていたというのに、けれども当帰は甘んじて納得しようとはしなかった。
 無為に騒いで二喬を罵り、あの美周郎相手に直談判という愚行までしてのけたのだ。
 あの子はどうもいけない、人の感情を変に掻き乱す。
 だからこそお歴々がこぞってあの子に夢中になるのだろうし、それを止めようとしたところでどうしようもない。
 ここは当帰こそが冷静に、何となれば体を張ってあの子を守ってやるべきだった。
 頭ごなしに叱りつけたら、きぱっと弾いてくる子だろうに、裏を返せば緩々と諭してやればぐずぐずと崩れもしように、どうしてあんな下手な真似をしてしまったろう。
 あの子はいけない、どうにもいけない。
 きっと何かがおかしいんだろう。
 それが分かったところで、今更過ぎて手の打ちようもない。
 当帰は夫に愚痴ったことなどなかったが、今回ばかりは幾らかうだうだと吐き捨てたような記憶があった。
 常の当帰ならば考えられないことで、やはりどうにも勝手が違ったものらしい。
 あの子はいけない、放っておけない。
――でも、どうしたらいいんだろうか?
 口悪しく罵り捨てて、悪い噂を流してやるとまで言ってしまった。
 お頭に来ていたからだで済む話では疾うにない。
 頭が痛くなるまで悩み抜く当帰が答えを出す前に、室の扉がぱぁんと大仰に開かれた。
「……お母さんっ!」
 悩みの種が息せき切って立っている。
 剣呑な眼差しを当帰にじっと向けている。
 勢い負けて呆けてしまった当帰の耳に、の喉がごきゅっと鳴るのが変に響いた。
「お母さん、私、今日は一旦帰るけど、また来るからね! 今度はちゃんと先触れ出して、いついつ伺いますよって、ちゃんとして連絡するからね! 私、絶対このままにはしたくないから! お母さんの言うこと、聞くところは聞くつもりだけど、聞けないところは引いてもらうから! じゃあね、またね、ごめんね!」
 息継ぎもほとんどしないで喚き散らすの背後に、小娘共が青い顔して殺到する。
 どうやら、『誰も通すな』という当帰の命を忠実に守ろうとする小娘達と、是が非でも当帰に会って直に話すと意気込むの争いが、遠くに聞こえたざわめきの元であったらしかった。
 言うだけ言って気が済んだのか、力の抜けたが小娘共にずーるずーると引き摺られていく。
 同時に、開け広げられていた室の扉がすうっと吸い込まれるように閉ざされた。
 ぱた、という間の抜けた音が、今の騒ぎがあたかも夢の一幕であったかのように彩った。
 唖然茫然、遂に一言も発することなく終わった寸劇に、当帰はただ目を白黒とさせていた。

 引き摺り出されてきたの様に、呂蒙は顔を引き攣らせる。
 当帰の夫たる宿屋の主も、あまりな様子に苦笑いした。
「お前達、何と粗忽な振舞いを。この方が誰だか、知らぬ訳でもあるまいに」
 宿屋の主の苦言も何のその、小娘達は一様に頬を膨らませている。
 呉の領土にあるとは言っても、この店に限って言えば、主は当帰ただ一人であり、は主に仇なす不逞の輩でしかないようだ。
 は顔を赤く、目をまん丸にして不平の一つも洩らさない。
 あまりに気を張り過ぎていて、自分がどんな扱いを受けているかも分かっていないらしかった。
 今度は呂蒙が苦笑いして、小娘達の手からを奪い返す。
 軽く支えるようにして、大丈夫かと問い掛けた。
「…………へ」
 虚脱していたが、ようやく我に返ったように呂蒙を見上げる。
 ややもして、状況の整理が済んだか大きく大きく頷いた。
「だ、大丈夫。大丈夫ッス」
 あんまり大丈夫そうでもない。
 さりとて大事に至っているということもなく、呂蒙はひとまず安堵することにした。
 正気に戻ったは、宿の主と小娘達に無用に騒がせた詫びを述べ、深々と頭を下げながら当帰の店を後にした。

 一仕事終えた感がある。
 は深々と溜息を吐いた。
 数えてないから分からないが、もう何度となく溜息を吐いている。
 しばらく経つと体の中に疲労の塊が出来そうで、塊になる前の気体状態の疲れを吐き出している感じだ。
 勿論、疲労の状態に気体も液体もないから、これはの思い込みに過ぎない。
 それでも、しばらく経つと自然に深い溜息が漏れる。
 特に用がある訳でもないから、当帰との交渉が決裂した以上帰るより他にすることがない。
 けれど、このまま帰るのだけはどうしても嫌で、駄々をこねて当帰の店に寄ってもらったのだ。
 会わないでくれと請うた次の日に会いに来たを、宿の主は苦笑を以て出迎えてくれた。
 挨拶だけ、一言言うだけと、今にも突貫しそうなを、当の宿の主よりも当帰の下でこき使われているだろう小娘達が拒絶した。
 曰く、具合を悪くした当帰に、その原因たるが訪問しようなど厚かましいにも程があると言うことらしい。
 それは分かるが、分かっていないと押し問答になり、呂蒙と宿の主が割って入った隙を突いて、が本当に突貫かましたというのが事の顛末である。
 やってやったという気持ちとやってしまったという気持ちが半分ずつある。
 これを契機に当帰との縁が完全に切れた可能性は高い。
 当帰のみならず、その手下たる小娘達の機嫌をも綺麗に損ねたからには、次回の訪問はかなりの難易度となろう。
 ただ、どうしてもどうしても、このままにしておきたくなかった。
 人間関係にそれ程執着しないであっても、当帰との後味の悪い別れは到底堪え難い。
 を大切に思ってくれていることは分かっている。
 それだけに、このまま喧嘩別れで終わりにしたくなかった。
 今は疲労感が勝ってしまい、今後を憂う余裕はない。
 この突貫がどう作用するのかも分からなかった。
 とにかく、突拍子もない要望を素直に受け入れてくれた呂蒙に感謝するばかりだ。
 昨夜とて、汚ない酔い方をしたの愚痴を、黙って聞き容れた上に懇々と諭してくれても居る。
 挙句に慣れない冗談まで飛ばして(と、は思っている)を元気付けようとしてくれた。
 その志が有難い。
 呂蒙がを好いてくれていることは、当の本人から既に告げられていたし、互いに口付けるところまで終えている。
 だが、呂蒙はその先を急がなかった。
 大切に手の中に抱え上げ、守っているつもりのようなところが呂蒙にはあった。
 とかく他の男達のようにがっついている(言葉は悪いが)様子もない。
 その点、呂蒙は確実に一線画していた。
 凌統もまた、を守ってくれているには違いないが、それは恋情ではなく同情を起点とした友情であるとは感じている。
 特別なことに変わりはないが、恋情を抱きながらもの気持ちを第一に考えてくれる呂蒙は、凌統とは別の意味で特別な存在に思えた。
 大切にされていると感じる。
 の能力や女の体云々ではなく、自身を好いてくれているのかもしれないと思うのである。
 視線を感じたのか、呂蒙が馬を寄せて来た。
 考えていた内容がアレだったせいもあり、は誤魔化すのに必死にならざるを得なかった。
「……あの……どうも、さっきは……後、昨日も……」
 要領を得ないに対し、呂蒙はあくまで平静だった。
 小さく頷くのみで、後は滲むような笑みを浮かべて馬を離す。
 見返りを気にしない様に、は思わず涙が出そうになるのを堪えた。
 呂蒙が着いて来てくれて良かったと、しみじみ思う。
 これが他の、例えば甘寧辺りだったら、悶着も一つや二つでは済まなかったろう。
 何気なく酷いことを考えながら、は呂蒙の背を目で追った。
 昨夜もそうだが、今日になってからの呂蒙は一段と優しくを扱ってくれている。
 口うるさく指示を出すのではなく、何と言うか、がしたいことをさりげなく補佐しようと心掛けているようなのだ。
 朝から引き籠った挙句に当帰の元へ行くと言い出したを、呂蒙が止めることはなかった。
 一応、先に当帰の夫である宿の主に許可を取ったらどうかと勧めてはくれたが、呂蒙が挟んだ口と言えばその程度のものでしかない。
 したいようにさせてくれ、その手助けは惜しまないと言いたげな、不思議な包容感がある。
 呂蒙がちらりと振り返るのに、の心臓も併せてぴくりと反応する。
 にこりと笑う呂蒙に、は無性に照れ臭く、かつ何だか奇妙にはしゃいでしまう。
 やっぱり好きだな、と思った途端、好きと言う言葉に反応して顔が赤くなった。

 城に戻ったのは、それなり遅くになってしまった。
 坂を登るという条件に加えて、が朝方長考という名の引き篭もりを敢行したのと、当初の予定になかった当帰の店へ寄り道したのがそれなり響いたのである。
 外出に際して、敢えて予定は空けてあった。
 問題ないと言えばなかったが、護衛を務めてくれた呂蒙の方がどうなのかまでは、が関知できるものではない。
 心配になって呂蒙を見遣ると、呂蒙はすすっと馬を寄せて来た。
「遅くなってしまったようだ。俺は別段構ったものではないが、もしも予定があったのだったら申し訳ないことをした」
 は慌ててふるふると首を振る。
 それを見届けて、呂蒙は肩を軽く揺らした。
「であれば良かった。疲れただろう、すぐに食事を用意させようから、今宵はゆっくり休むと良い」
 わざと『自分は大丈夫だ』と教えてくれたのだろう。
 呂蒙の細やかな心遣いに、は素直に感謝した。
 春花を置いて来ている上、執務に関してはほとんど一人で何とかしなければならない状態だ。
 些細であっても、痒いところに手が届くような呂蒙の気配りは身に沁みるばかりだった。
 内門を潜ると、何やら騒がしい。
 戻った一行を出迎えようと駆けて来た家人は、馬車から降りる為の踏み台を振り回しているような無作法ぶりだ。
「何だ」
 眉を顰める呂蒙に恐縮しつつ、家人は急ぎに拱手の礼を取る。
「孫策様が、つい今しがたお戻りになられました。殿の室にてお待ちになって居られます故、どうかお急ぎ下さいますよう」
 久しく聞かなかった名に、は驚いて目を見開く。
 演習だかに出ていたと聞いていたが、帰って来るのもまた急なものだ。
 家人に急き立てられるように馬車を降りたに続き、呂蒙も馬を降りてに同行する。
 を室に送るまでが呂蒙の責務だ。疎かにできたものではない。
 それにしても、孫策の帰還は呂蒙にとっても意外なものだ。
 少し長くなるやもしれぬとだけ教えられていて、詳しいことは耳に入っていない。
 それでも帰還の日付程度は、呂蒙が聞いていてもおかしくない筈の事柄だった。
 何故報告がなかったのだろうか。
 家人に不審な点はなかったが、妙な胸騒ぎを覚えて黙り込む呂蒙だった。

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