買い物に行った訳でもないし、持ち出した竹簡は『突発事故』により破損してしまって手元にない。
 行きよりも身軽くなって戻ってきたは、そのことに気付く間もなく自室に向かうことになった。
 単に演習に出ていただけの孫策が、いつ戻ってきたとて何の不思議もない。
 凌統の時もそうだが、自分は部外者なのだからどんなことでも立ち入ったことを聞いてはいけないという自制を心掛けている。
 呂蒙は、いつ頃帰る程度の情報は然したることでもないと言ってくれていたが、にとっては何が重要で何が重要でないかなど測りかねる。
 ならばいっそ何も聞かない方が得策と言うもので、だからは出来得る限り部外者の礼儀を守ろうと努力していたつもりだ。
 それでも、今回の孫策の帰還には色々不可思議に思うところが多い。
 具体的に何がとは言えなかったが、微細な違和感がの胸の内にこびり付いて離れようとはしなかった。
 ふと、同行している呂蒙を振り返ると、何かと無言で問い掛けてくる。
 表情が変わるのが一瞬遅れた為に、何事か考え込んでいたのが見て取れて、呂蒙も何がしかの違和感を覚えているようだと知れた。
 他の将と違って割合素直な性質である呂蒙だったからこそ、察することが出来る。周瑜や陸遜であったら、の意図は聡く見抜かれ上手に誤魔化されていたことだろう。
 今回の同行で受けた恩とは違う意味で、改めて呂蒙に感謝したくなった。
 しかし、何がおかしいのかまではさっぱり分からない。
 急げと急き立てるばかりの家人の後を、小走りに近い速度で着いていく。
 とにかく、まずは孫策に会うのが早かろうと思った。

 の室に辿り着くと、家人は中に向かって伺いを立てる。
 室の主なき今、護衛が居らぬのは当然として、当の主が自室に入るのに伺いを立てられるというのも奇妙な感じだ。
 恭しく扉を開けてもらい、が中に踏み込むと、果たして孫策がそこに居た。
 にっかと笑って、軽く手など掲げている。
 離れていた実感もないくらい、いつも通りの孫策だった。
「よぅ、呂蒙。今日の御供は、お前か?」
 適当に腰掛けていたらしい椅子からぴょいっと跳び降りると、孫策はと呂蒙の元とすたすた歩いてくる。
「ご苦労だったな。もう、いいぜ。それから、俺がいいって言うまで誰も近寄らせんな。いいな」
 言うなり、を引き寄せる。
 逆らいようもない力の強さはいつものことだが、何故か落ち着かない。
 肩に回された孫策の手のひらが異様に熱く感じられ、勢いで振り返った先に見えた呂蒙の顔は、酷く困惑しているように見える。
「はぁ、しかし」
「しかしもクソもねぇよ、俺がそうしろってんだからそうすりゃいい。……俺も帰ってきたばっかでいい加減落ち着かねぇんだ。分かるだろ?」
 な、と孫策が明るく笑うと、呂蒙は困惑したまま、それでも面目なさそうに顔を伏せた。
「……分かりました。だが、落ち着かれた後は家人をお呼びいただきたい。殿は、今しがた戻られたばかり。お疲れになって居られるだろうし」
「呂蒙」
 呂蒙の言葉が終わらぬ内に、孫策の一声が鋭く遮った。
「しつっこいぜ」
 途端に変わる空気に、は鳥肌が立った。
 怒っている。
 常に全開で感情を露にする孫策だったから、程度は分からぬまでも苛立っていることが知れる。
 何故だか理由も定かでないが、違和感は嫌な予感となって物の見事に的中したらしい。
 孫策の手が置かれた肩から、焦げ付くような悪寒が走る。
 それは、の本能が今の孫策に怯えている証だった。
 顔に出ているのだろう、呂蒙は心配げに、孫策は尚目をぎらつかせて、を見下ろす。
 数瞬の間があって、呂蒙は小さく溜息を吐くと、では、と拱手の礼を取って扉を閉ざした。
 固まったままで更に数瞬の間が空いた。
 唐突に動き出した孫策は、の体を軽々と小脇に抱え、室の奥へ向かう。
 たかだか一日半空けていた室の空気は滞り、不快な埃臭い匂いを漂わせている。
 火に油を注ぐように勢いを増す不安に、は表情一つ取り繕えずに居た。
 まるで塵のように投げ飛ばされた先は、ある程度予想していた通り牀の上だった。
 孫策が言った『落ち着かない』の意味は、鈍いでも容易に予想が付く。
 演習に参じていた間、女っ気がなかったせいで『溜まって』しまっている、と言いたいのだろう。
 けれど、分かることと納得することとは別物だ。
 にも譲れない一線がある。
 少なくとも、『自分』を欲していない男に許す肌は持ち合わせていない。
 それだけは守らなければ、本当に娼婦と変わらない。
 否、生活の糧を得る手段として身を売っている訳だから、娼婦の方がよほどマシだと言えた。
 せめても理由を見出して、心許ない矜持を保つことは出来る。
 男なんて馬鹿な生き物だ、女の自分が慰めてやらないと、あそこを腫らしてオタオタするばっかりだと嘲笑してやることも出来る。
 にはそれが出来ない。
 圧し掛かって来る男に対して敢然と抵抗することも出来ず、いつもいつもぐだぐだになる体を持て余して陥落するしかない。
 の矜持を守ろうとするならば、ただ『相手がどうしてもを抱きたいと希っている』という理由付けが必要不可欠なのだ。
 そうでなければ、あまりにも惨めだ。
 何とかして押し退けようと、半泣きになってもがく。
 性欲処理をするのだとああも堂々と公言されて、生き恥晒す思いがした。
 幾ら呂蒙がその手の会話に疎くても、が分かったことを呂蒙が分からない道理がない。きっと今頃、複雑な思いに駆られていることだろう。
 どころか、孫策に蹂躙されているを想像しているやもしれなかった。
 したくなくても、きっと目に浮かんでしまうだろう。それが普通だ。
 孫策に蹂躙される屈辱だけならまだしも、呂蒙に度し難い妄想をさせてしまう屈辱にはどうしても堪えられない。
 が他の男達とどういうことをしているかを知りながら、それでも呂蒙はを好きだと言ってくれる。
 好きだと言って、守ってくれている。
 そんな呂蒙に嫌な思いをさせてしまうだろうこの状況が、吐き気がする程気持ち悪い。
 せめてもの手段として、は抵抗を止めようとはしなかった。
 大したものではなかったろうが、いつまでも諦めることなく抵抗を続けるの様に、孫策は徐々に意地になっていく。
 両手を片手で縫い止める程度、相手には楽勝だったが、剛健な手に組み敷かれて尚、は暴れるのを止めようとしない。
 弱い筈の耳朶も首筋も、濡れた舌を差し入れられてびくりと跳ねはするものの、抵抗自体は止まらなかった。
 何だよ、と孫策の苛立ちは増していく。
 いつもであれば、疾うに陥落している柔い体だった。
 適度なところで音を上げて、ホントに仕方ないなの憎まれ口一つで力を抜く筈が、未だ眉を険しく寄せて拒んでいる。
 自然に漏れた舌打ちに、の目が薄く開かれた。
 怯えている。
 涙が滲んで潤う睫毛が黒光りして、孫策の後ろ暗さを煽るばかりだ。
 孫策はの腿の辺りに跨ると、股間で猛る己のものをぐいぐいと強く押し付けた。
 熱く凝っているのが分かる筈だ。
 呂蒙に対して発した言葉は、何一つ偽りではない。
 これでもずいぶん堪えた方だ。演習中、堪え切れずに自慰に走ったこともある。
 妄想するのはいつも、組み敷いたの記憶だった。
 抱かれてよがって、啜り泣く姿で絶頂を迎え、何とも言えない情けなさに放心し掛けたこともある。
 孫策は、そうして堪えた。
 だからこそ、自分を受け入れようとしないに焦れる。
 本当に言われた通りなのかと、歯ぎしりしたいような口惜しさに身悶えする。
!」
 激情のままに襟を割く。
「やだっ!!」
 鋭い悲鳴が応じた。
 止めを刺された思いがした。
 決してそうはならないと信じて昂揚させてきた心をざっくり裂かれて、孫策は固まる。
 膝立ちのまま、ぴくりとも動けなくなった。
「……伯符?」
 さすがに異常に気が付いたが、恐る恐るながら問い掛ける。
 目と目が合った瞬間、孫策は牀から床へと飛び降りた。
「え、ちょ、伯符?」
 いきなりのことで着いていけないだったが、無理やり体を引き起こして孫策を追う。
 どうにかこうにか間に合って、扉の前で孫策に追い付いた。
 肘を捉えると、孫策の足が止まる。
 ほっとして、しかし慌てるままに声を荒げた。
「何! 何なの、全然分かんないんだけど!!」
 ゆっくりと振り返る孫策の目が、荒んでいる。
 いつぞや、凍えるような朝方に庭で見付けた時と同じような目をしていた。
 これは、また厄介なことになる。
 直感とも言えない不安に、は口をへの字に曲げた。
「……今日は、呂蒙だったのか?」
「は?」
 いきなり呂蒙の名を出され、の目が点になる。
 どうしてここで呂蒙の名が出るのか、見当がつかなかった。
 第一、先程『今日の御供はお前か』と、本人に直接確認したのは孫策だった。今更、今日だの明日だのと確認を取る必要があるのだろうか。
 強張っていた孫策の表情が緩む。
 自嘲に交じって、あからさまな落胆の深い影が見えた。
「……そうだよな。俺がいなくても、他の奴が居るもんな。お前が、男に飢えるわきゃねーよな。……親父と寝たのか? それとも権か? でなかったら……」
 立て続けに並べられる男の名前に、の肌は一気に粟立つ。
 今日は呂蒙だったのか、は、今日は呂蒙と寝るつもりだったのかという問い掛け(あるいは確認)だったのだ。
 なまじっか呂蒙への好意を感じていただけに、孫策の勘繰りはを甚く煽り立てた。
 天地神明に掛けて後ろ暗いところはないとは言いかねるだけに、尚更癇に障る物言いだった。
 敢えて付け足すならば、他の男に抱かれてやってくれと言い出したのは孫策の方だ。
 そんなことも忘れて、のみをのうのうと責める孫策の気が知れない。
 羞恥と憤りと歯痒さ悔しさが入り混じり、は思わず孫策の頬を叩いていた。
 力が入り過ぎていたせいか、ドラマで見るような痛快なビンタとはいかず、むしろ手のひら全体を叩き付けるようにしてしまい、上がった音も『ぺふん』とでも表すしかないような、非常に間の抜けた音だった。
 叩いた瞬間、それでもはっと我に返ったが、それを自覚する間もなくは宙を飛んでいた。
 返す刀で引っ叩き返した孫策は、言い方は悪いが人を殴ることには大層長じている。
 その孫策が、勢い任せに手加減もなく、脆弱と定評のあるを引っ叩けば吹っ飛びもする。
 派手な音を立てながら床に落ちたは、視界いっぱいに飛び散る火花と共に、意識を失くして闇に落ちた。

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