朝、目が覚めると顔が熱かった。
 触ると痛い。
 欠伸をしても痛い。
 動かさなければ熱いだけで、痛くはないようだ。
 殴られた跡は二日目の方が酷い、ということも、はこちらに来てから学んだ。
 出来れば、覚えたくなかった。
 そうは言っても、さすがに何度も繰り返していることだし、嫌でも何でも覚えてしまう。
 なるべく優しく扱ってくれてはいるらしいが、カッとなったらどうなるか分からないというのが、こちらの住人の共通項目らしい。
 加えて、ここでのは稀に見る運動音痴に属するようだ。拳を受け留めやめさせるどころか、避けることもままならない。
 相乗効果も兼ねてか、結果的には被害を被る訳だ。
 何度殴られたか、数えようとして止めた。
 虚しくなる。
 何が虚しいかと言えば、数えるのが嫌になるくらい殴られているのに嫌いになれない自分が嫌だ。
 こういうのを、依存症とでも言うのだろうか。
 痛い目に遭っても遭っても、懲りないことこの上ない。
 が起き上ると同時に、の室に踊り込んできた人が居る。
 大喬だ。
 思わず、扉をぶち破って来たのかと思う程、エライ勢いだった。
「大姐……!!」
 入って来るなり、両手で口を覆う。
 見えている目元は真っ青で、かなりの衝撃を受けていると思しい。
「あ、あの、大姐、あの……」
 見る間に涙が溢れ、線を描いて滴り落ちる。
 美少女は泣いても絵になるが、非美少女はそうもいかない。
 大喬の泣き顔を見る度、そんなことを考える。
 何故泣いているか迄は想像が追い付かない辺り、は未だ寝ぼけているようだ。
「ごめんなさい、大姐」
 わっと泣き臥す大喬の声に、はようやく覚醒した。
「……え、ちょ、大喬殿!?」
 何が何だか、とにかく落ち着かせようと置き上がる。
 途端、つきんと小さな痛みが脳に響いた。
 小さくても鋭い痛みに、思わず顔を顰める。
 大喬もはっと我に返り、慌ててを寝かし付けに掛かった。
「申し訳ありません、大姐。私、びっくりしてそのまま走って来てしまって、だから」
 何がだからなのか、さっぱり分からない。
 大喬もずいぶん慌てているようで、説明するのが難しいらしい。
「えーと……大喬殿、落ち着いて、あの、とりあえず深呼吸」
 も釣られて慌ててしまうのだが、とにかく深呼吸を勧めると、大喬は素直に深呼吸を繰り返した。
「……はぁ……お、落ち着きました」
 仕切り直しで頭を下げる大喬に、も襟元を正して正座する。
 大喬はと面と向かうと、突然土下座した。
「すみません、大姐!! そ、孫策様が、大変なことを……!!」
 あぁ。
 爽やかな覚醒が、一気に冷たい心持ちに変わる。
 こればかりはにもどうにも出来なかった。
 努めて平静を装いながら、詳細を教えてくれるよう話し掛ける。
「あの、孫策様が、朝ご飯を一緒に食べようと誘って下さって。それで、大姐もお誘いしましょうってお願いしたら、孫策様、急に難しい顔をして黙り込んでしまって……あの、それで孫策様に白状していただいたら、昨夜大姐を叩いてしまわれたのだって……私、それを聞いたら居ても立っても居られなくって……!」
 大喬は、本当にいい子だ。
 がもし大喬の立場だったら、まずちょっとばかり胸がすいたような気持ちになっていただろう。
 同情するのはそれからで、事情を聞くにしても、多少の野次馬根性が混じるのは否めなかったと思われる。
 こういう時、は少し卑屈な気持ちになる。
 大喬のような子を正妻にして、何でにちょっかいを掛ける気になったものか。
 いい加減うじうじしていると自覚はするが、こればかりは半永久的にループしそうだ。
「……ん、そっか。でも、伯符とは昨夜の内に喧嘩して仲直りもちゃんとしてるから、大丈夫。どうしても大喬殿の気が済まないんでしたら、私の代わりに伯符にビンタの一発もしてやって下さい」
 そう言って笑うと、大喬はぎょっとしたように目を見開く。
 ちょっと意地悪が過ぎたかとも思うが、この程度はガス抜きということで許していただきたいところではある。
 切ろうとしても切ってくれない関係は、有難くもあり鬱陶しくもあった。
 微妙な関係は、蜀と呉が蜜月を続ける間はこれからも続くのだろう。
 ならば、それを永遠に続けるのがの務めであり、願いでもあった。
「……大姐? 痛むのですか?」
 痛いのは痛い。
 だから、曖昧に笑って誤魔化した。
 朝食を、と誘ってもらったが、顔の痛みもあるので辞退した。
 孫策も気にするだろうし、昨夜孫策を一人占めしていたのはの方だ。
 敢えて口に出すと、大喬もどこかほっとしたような感じがある。
 顔に出ていた訳ではないが、やはり二人の時間を望むのは当然だろう。
 ただでさえ、大喬は未だ『手付かず』なのだ。それが孫策の愛情深さ故と言っても、大喬とて完全には納得できまい。
 立ち去り間際、大喬は思い出したように振り返った。
「……扉の閂、どうしましょう。家人の皆様が御用を承りに来られるかもしれませんし、このまま開けておきましょうか」
 大喬としては何の気ない確認だったのだろう。
 だが、それは孫策が大喬の元に行くのに、を放置して出て行った証でもある。
 喉に力を込めて、何でもない振りをした。
「後で閉めておきますから」
 の言葉を、大喬は疑うこともせず頷き、足早に去って行った。
 扉が閉まるのを確認し、しばしの時間を置いて牀から降りる。
 何だか無性に泣きたくなる。
 そろそろ慣れたいものだ。
 奇妙な関係は、が全面的に諦めて受け容れるより他なくなっている。
 孫策も、大喬でさえも、が孫策の『第2の妻』となることを望んでいるのだ。
 自身、他の男(女も居る)と関係を持っているから、偉そうなことは言えそうもない。
 ひょっとしたら、他の男という逃げ口があるからこそ、二人の願いを受け容れられないのかもしれない。
 選ぶ道がなければ、唯々諾々と従ってしまいそうなところがにはあった。もう少し自分という存在を確立していると思っていたが、そうでもないらしい。
 あー、ヤダヤダ。
 自己嫌悪に慄きながら扉に手を掛ける。
「何だ、珍しく敏いな」
 あからさまな皮肉の中に、楽しげな響きが込められている。
 は、既に在室がばれているにも関わらず、開けようかどうしようか、本気で悩んでしまった。
 と言っても、君主相手に居留守を使う訳にもいかない。
 たっぷり間を開けて渋々ながら開くと、孫堅がいつもの笑みを浮かべて悠々と入り込んできた。
 一国の主なのだから、例え他人の屋敷であろうとこうして堂々上がり込んでも当たり前の話なのだろう。
 ましてここは孫堅の城の一角で、は『部屋を貸していただいている』身の上に過ぎない。
 態度がでかいのどうのの話は、むしろ気にするがおかしいのだろう。
 扉を抑える振りで戸板の影に隠れていたに、孫堅の目が向けられる。
 その孫堅の目が丸くなった。
 さっとの傍らに回り込むと、戸板から引き剥がすようにして抱え込む。
 仔細に確認するかのように、繁々との顔(正確には包帯を巻いた辺り)を覗き込み、恐る恐るの態で触れてきた。
 孫堅の指先が痛みの酷い箇所に触れたようで、ぴりっとした痛みが鼻の奥を突き抜ける。
 顔を顰めた途端、孫堅の指がすっと引く。
 すぐにまた、今度はもっと優しく、神経質に触れてきた。
 触れるか触れないかの指先に、は何故かいたたまれない気持ちにさせられる。
「思った以上に、酷いな」
 孫堅の声に度を超えた憐みを感じる。
 間近にある顔は痛ましく顰められ、というよりの受けた傷を凝視していた。
 違和感がある。
 確かに、の怪我(打撲というか打ち身ではあるが)は痛ましかったかもしれない。
 実際痛いし、巻かれた晒し布も大袈裟な程に広範囲に巻かれて、顔の半分を覆っている。
 だがこれは、打ち付けたところが広かった為にこうなったのであって、半分方は治療の為ではなくみっともない痣や腫れを隠す為のものと思われた。
 引っ叩かれた後で半回転して倒れ込んだものだから、二度同じところを打ち付けたことになり、痣もその分大きく鮮やかなものになってしまったらしかった。
 ただし、そのまま吹っ飛んで顔全体腫らすよりはまだこちらの方がマシとも言える。
 少なくとも、的にはそうだった。
 当のをして、自身をおちゃらかす程度に余裕があるのだ。
 大喬であればまだしも、修羅場を渡り歩いてきた孫堅が動揺するような怪我ではない。
 何かあるのだろうか。
 孫堅はひとしきり撫ぜると満足したのか、触れた時と同じようにそっと手を引いた。
「……未だ、着替えて居なかったのだな。着替えたら、俺の室に来てくれ」
 言われて、未だ夜着のままだったことを思い出す。
 慌てて襟元を押さえながら、微かに痛む顔のことも思い出した。
「あ、でも、この顔じゃ」
 幾らなんでも出歩き難い。
 孫堅は悪戯めいた笑みを浮かべ、小さく首を振った。
「お前が悪い訳ではなかろう。堂々と、それこそ見せびらかして居れば良い。策にも、いい薬だ」
 言いさし、ふと黙る。
 が首を傾げると、苦く笑って誤魔化した。
 孫堅が扉の外に出て行き、は小さく溜息を吐く。
 少々、孫堅らしくないように思われた。
 明らかに寝坊したが夜着のままで居たら、揶揄の一つも仕掛けてくるのが孫堅という男だろう。
 それを、何もなしでスルーしたのが、無性に引っ掛かってしょうがない。
「悪戯でもして欲しかったか」
 急に声掛けられ、冗談抜きで飛び上がる。
 戸口の向こうから、くつくつと笑う孫堅の声が聞こえ、遠ざかっていった。
 立ち去ったと思っていたら、ちゃっかり居残っていたようだ。
 その根性悪さと鋭い直感に、やっぱりいつもの孫堅だ、と、自分の温い洞察力が腹立たしくなる。
 本当に食えない男だ。
 はぷりぷり怒りながら、しかし頬を膨らませた途端に激痛が走り、半泣きになって着替えに向かうのだった。

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