着替え自体には、然したる時間が掛かった訳ではない。
 ただ、孫堅の室に着く迄の間に出会ってしまうかもしれない人目を如何にして避けるべきか、悩みあぐねて時間を無駄にしてしまった。
 妙案も思い浮かばず、仕方なく薄手の上着を頭から引っ被って出ることに落ち着く。
 気分は夜鷹である。
 ござでも巻いて持ち運べば完璧だ。
 立場的にはあまり変わりがない気がして、しかもそう思ってしまうことに何故か申し訳なくなって、は俯いて孫堅の室に向かった。
 とぼとぼ歩いていると、突然がっつりと抑え込まれて驚いてしまう。
 はっと顔を上げると、同じく驚いた顔の太史慈が居た。
 の肩には太史慈のごつい手が置かれている。
 冷静になって状況を鑑みるに、下を向いて歩いていたが正面から来る太史慈に気付きもせずに突っ込み、慌てた太史慈がを取り押さえて激突を避けた、というところだろう。
 かなり妥当とは思われたが、太史慈がを引き寄せるに辺り、外聞はかなり悪くなった。
「如何なされたのか!」
 驚愕から怒気へと表情を変えた太史慈に射竦められ、は顔を顰める。
 悪意からではなく、太史慈が押さえたところに鈍い痛みを感じたからだった。
 一番痛いのは顔だが、肩もまた昨夜打ち付けた箇所である。飛び上がる程ではないにせよ、力を入れて押されれば、当然それなり痛い。
 太史慈もそれと気付いたか、慌てて手を離し一歩退いた。
 申し訳ないような、しかし抑え難い怒りのせいか、眉間に皺が寄って居る。
 今の太史慈に下手な言い逃れは通じそうになく、またそのせいで揉め事になる恐れはかなりあり、は仕方なく事情を説明することにした。
「……昨夜、伯符とちょっと喧嘩しちゃって。あ、でも、すぐ仲直りしましたから」
 太史慈はどことなく疑わしげな眼差しをに向けるが、が力んで見返すのを察したのか、小さな溜息と共に怒気を解いた。
「痛むのだろうか」
 さりげなく腕を伸ばし、手のひらをの頬の形にかたどる。
 広げた指先から太史慈の体温を感じた。
 元々の熱が高いのだろうが、不思議と心地よい。
 これがオーラという奴なのかなと、何となく思った。
「触ったり、動かさなければそんなには。ただ、ちょっと痣になってて、包帯取れなくて」
 太史慈の目が瞬く。
 少し悲しげな目は、仲間を案じる犬の目に似ていた。
 紛れもなく人間である太史慈にそんなことを考えるのは失礼かもしれなかったが、その分親近感めいたものが沸く。
「……大丈夫ですよ?」
 努めて笑みを浮かべると、ようやく納得がいったか太史慈の手が離れて行く。
 冷やされた空気が押し寄せて、実感もひとしおだった。感じる温かさに傷が癒される感覚があった分、何だか名残惜しい気がする。
「あ」
 孫堅のところに向かうところだった。
 太史慈に詫びてその場を辞すと、太史慈も別段詮索することなく、を見送る。
 しばしその場に留まりを見送っていた太史慈は、何か決意したように唇を引き結び、廊下の角を曲がって行った。

 が孫堅の室に辿り着くと、相変わらず衛兵は居なかった。
 大概慣れて、扉の前で声を張り上げる。
 すぐに孫堅の応えがあった。
 自分で扉を開けて、中に入る。
 孫堅は執務机に肘を突き、苦笑いしてを出迎えた。
「……もう少し、色気のある訪問の仕方は出来んのか」
「どんなんが色気がある訪問なのか、分かりませんもん」
 語尾を伸ばして最後に『ん』でも付ければいいのだろうか。だが、そんなことをやった暁には確実に吹き出す自信がある。
「少なくとも、声を張り上げて『すいません』の連呼はないな」
 しかも、最後の『ん』を端折っていた。
 が内心『すいませー』と謝るも、孫堅はそんなの胸の内など見通しているが如く深々と溜息を吐く。
 太史慈といい孫堅といい、人に向かって堂々と溜息を吐き過ぎるのではなかろうか。
 孫堅は立ち上がると、を手招いていつもの隣室に向かう。
 ひょっとして、食事を共にという誘いだったのだろうか。
 だとすれば、今のには少々厳しい。咀嚼することを考えると、それだけで顔が痛くなる気がした。
 追わずに終えられるものなら是非そうしたいが、そうもいかないのは自明の理だ。渋々孫堅の後を追う。
 豪奢な調度がを出迎え、席に着くと同時に奥から侍女達が現われる。
 手にした皿や鍋を並べると、そのまま無言で立ち去って行った。
 の前には、白いスープだけが置かれていた。
 箸ではなく匙が添えられ、いただきますをしてからスープを掬う。
 よくよく見ればスープではなく、良く煮込まれた粥だった。重湯に近い。
 噛まずに済むように、気を使ってくれたのだろうか。
 それにしても、ここまで煮込むのには手間暇が掛かったことだろう。
 例えが来るのが遅かったとはいえ、そんな程度でここまで煮込めるものだろうか。
 不意に思い付いたことがあり、は匙を下ろす。
 孫堅をちら見すると、視線に気が付いたかこちらを向いた。
「別に、覗いていた訳ではない。安心するがいい」
 安心できねぇ。
 覗き見していたのでなければ、この用意周到さは何なのだ。
 孫堅の朝食はと別メニューだった。つまり、この粥はの為に用意されたものに相違ないのだ。
 粥に沁みた出汁加減といい、どう考えても夜も明けきらぬ内から準備したとしか思えず、の嫌な考えを裏付けする。
 孫堅は動じず、巧みな箸裁きで朝食を平らげていた。
 器用にも、食べながら話してくれる。
「俺は、ただお前が痛い目に遭うだろうことを予見していただけだ。まさか、そこまで酷いことになるとは考えて居なかったがな。まぁ大方、足でも滑らせて壁か床にでもぶつけたかしたのだろう」
 大方合っているのが非常に腹立たしい。
 第一、予見していたのなら助けてくれても良かったではないか。
「予見していたからこそ、放置した。大体、お前は何故俺がそんな予見が出来たのか、疑いもせんのか」
 はたと我に返る。
 素直に白状して、孫堅だったら何でもアリだと思うところがあった。
 黄巾の奇跡とほぼ同ランクのノリである。
「……えーと……」
 さすがにそれを言うのは失礼だと分かるから、どう言ったらいいものか悩む。
 孫堅はさっさと食事を終えたらしく、箸を置くと空いた器をざっと横に押し退けた。
 両肘を突くと顎を乗せる。
 これから尋問にでも入るのかという趣に、も匙を置いた。
 孫堅はしばらくの間無言で、をじっと見詰めていた。
 何か言いたげな、刺すような強い視線に、居心地悪さを感じてしまう。
 唐突に孫堅は肘を外した。
「すまん」
 胸を張って、大威張りでの宣言だった。頭すら下げて居ない。
 の目が丸くなる。
 あまりの威風堂々振りに、孫堅の言った言葉の意味が理解しかねた。
 孫堅は孫堅で、『言った』と言わんばかりに気を抜き、手を叩いて侍女を呼び付けている。
 食後の茶を命じている間も、はぽかんとして孫堅を見詰め続けた。
 侍女が空いた皿を片付け、淹れたての熱い茶を出して下がるまで、は固まったままだった。
 孫堅が茶を啜り、旨そうに細い息を吐き出すに及び、ようやく我に返る。
「……あのぅ」
 ん、と人懐こい笑みを浮かべてを見遣る孫堅は、既に寛ぎモードだった。
「……今のって……」
 どういう、とぼそぼそ口の中で呟くだったが、孫堅は不思議そうに軽く首を傾げて見せる。
 腹立たしいが、何か可愛かった。
 チョイ悪たらいうのは、孫堅のような男を言うのだろう。
 話が逸れた。
 が黙ったのをいいことに、また寛ぎモードに戻ろうとする孫堅に、は猛然と食って掛かる。
「イヤ、だから、今のってどーいう意味なんですか!? 私には、何か、昨夜の伯符の謎行動の原因が孫堅様にあると自白なさったように聞こえたんですが!?」
「? ああ」
 どっちだ。
 肯定ともただの相の手とも取れる答えに、は指をわきわき蠢かす。
 孫堅は訝しげにを見ていたが、ふっと考え込むように目を揺らし、をちら見した。
「……まさか、気が付いてなかったのか?」
「だから」
 何がだ。
 孫堅の口元にあからさまに『しまった』的な苦笑いが浮かんでいる。
 さすがにも見逃さない。
 黙って居れば良かったと、孫堅はそんな風に考えたに違いなかった。
 の視線が険しくなったのを見届けて、孫堅も遂に覚悟を決めたか、苦笑はそのまま告白する。
「策を演習に差し向けたのは、俺だ」
 それは、だが、特におかしいことではなかった。
 父親であると同時に君主たる孫堅ならば、息子であると同時に配下でもある孫策に演習を命じたとて、何ら不思議はない。
 未だ分からずに居るに、孫堅は軽く首をすくめた。
「……演習でなくとも良かった。ただ、策に、お前が離れている間、がどう動くのか確かめてみてみよと命じただけの話だ」
 どうもはっきりしなかった。
 結局、孫堅は何を仕出かしたというのだろう。
 察しの悪いに、孫堅は口を閉ざした。
 どう言い包めたものか悩んだのかもしれなかったが、あまりの鈍さに手を焼いてか、遂に降参したようだ。
 軽く手を掲げて下ろす様は、欧米のそれに似ていた。
「お前を長いこと手離した場合、お前がおとなしく待っていてくれるものか試してみろ、と策を煽った。お前がしおらしく策を待ち、熱に焦がれて居られるかどうか、策が戻った時、待ちかねたお前が飛び付いてくれるものかどうか、確かめてみろ、とな。……だから、策が戻ればお前と何らかの揉め事を起こすだろうと踏んでいた、と、そういうことだ」
 しれっと言われた側のは、孫堅の話を呑み込むのにやたらと苦労させられた。
 噛み砕くまでもない内容ではあるが、突拍子のなさに脳の動きが極端に鈍ったのである。
 理解してみれば、ああ成程といった態である。
 理由はどうであれ、とにかくなるべく時間を空けて離れた時、が他の男とナニをするものか確かめてみろ、お前が思う程、とお前の繋がりは深くないぞ、と、孫堅は孫策を煽った訳だ。
 孫策は孫策で、孫堅の思い通りになる筈がないとばかりに綺麗に煽りに乗った。
 だから、孫策はあれ程性急にを求めたのだ。呂蒙さえ邪険に追い払うまで見境をなくしても、に応じさせなければならなかった。
 でなければ、本当に孫堅の言う通りになってしまう。
 親子でありながら恋敵である孫堅の言う通り、孫策が思う程は孫策を大事にはしていないことを認めなければならなくなる。
 孫堅は、そんな孫策をが甘んじて受け入れることはないと踏んでいた。
 ある程度の諍い(恐らくは暴力沙汰)が起こる可能性を察していながら、わざわざ孫策を煽った。
 謝罪は、その為だ。
「………………」
 状況整理を終え、一気に目尻が吊り上げたにも、孫堅は特に臆する様子はない。
 逆に、ようやく理解してくれたかと安堵しているように見えた。
 立ち上がり、の脇に回って行儀悪く卓に腰を下ろすと、粥の入った深皿と匙を手に取る。
 粥を掬った匙を、無言での口元に運ぶ。
 が睨め付けるも、早くしろとばかりに匙の先端で唇を押され、嫌々ながら口を開いた。
 粥を流し込むと、孫堅は思わぬ言葉を口にする。
「俺は、我が息子ながら策のことが良く分からん」
 驚いてあんぐりと開けた口に、ちょうど良いとばかりに粥が流し込まれる。
 咀嚼の必要もないが、何となく舌の上で味わってしまうを余所に、孫堅の話は続く。
「今回試してみて、一つ分かったことは、ある」
 何だ。
 目で問い掛けるのへ、また匙が運ばれる。
 自主的に喰い付く。
。お前、俺にしておくつもりはないか」
 噴いた。
 辛うじて孫堅とは逆の方に噴いたが、危ないところだった。
 げふげふ咽ていると、孫堅の手がの背を擦る。
 擦りながらも、話は続いていた。
「俺ならば、お前の目を他に向けさせたりはせん。お前が惑う間も、隙も、微塵たりとて与えはすまい……どうだ」
 言葉は恋情のそれとしか取れないのに、その言葉を口にする孫堅の顔は何処か沈んでいる。
「……そんなこと言われて、はい、是非に、なんて、言うと思いますか」
 真意が測りかねて、どう答えていいか分からない。
 はぐらかすくらいしかなかった。
 孫堅はの顔を見詰める。
 何か言いたそうにも、言えないと苦悩しているようにも見える。
「……まぁ、そうだろうな」
 同時に粥を乗せた匙を突き出され、は返事を封じられた。
 結局、孫堅が何を言いたいのか、分からないままに朝食は終わった。

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