食事が済むとすぐ、は解放された。
何を言われた訳でもないが、扉まで孫堅が見送りに来てくれたことに若干の違和感は感じる。
気さくに応じてくれる風ではあるが、根幹は君主としての矜持を保つ男だ。程度の相手を見送るような、言ってしまえば女々しい行動をしそうにないという印象が強い。
けれど、今日の孫堅は見送りに出て来た。
が廊下を曲がりその姿が見えなくなるまで見送っていたのを、はこっそり盗み見ている。
孫堅が心を乱すと、恐ろしいまでに人が変わることはも体験済みだ。
滅多になるものではないと聞いて居ても、その周期が確固たるものでない以上安心は出来ない。
とは言え、どうもあの時の孫堅とも違うように感じなくもない。
虎の本質を剥き出しにする、と言うよりは、抗いがたい事実に苦悩する哲学者という趣があった。
哲学者に親しい知り合いはないから、正直まったくの想像でしかない。
それでも『当たらずとも遠からず』の確信はある。
ただ、根拠は何もない。
あるとすれば、一度は肌を合わせた相手だからという無意味な思い込みだけだった。
第一、孫堅程の百戦錬磨であれば、わざわざあんな明け透けなことを口にするとも思えない。
の性格から言って、『俺にしておけ』等と言われてうんと頷く由もない。
現に自身、『そんなこと言われて、はい是非になんて』と言い返している。
対して、『まぁ、そうだろうな』と返されたのであるから、孫堅もが納得する訳がないと見越していたことにならないだろうか。
ひょっとして、孫堅が孫策を煽った頃には既におかしくなりつつあって、それを思いだしたからこそ敢えて口に出してに反抗させたかったのかも、と取れなくもない。
実の息子に対して遣り過ぎたと自責の念に囚われて、と考えれば、あながちおかしくはないように思える。
しかし、それもまた孫堅のイメージではない。
孫堅ならば、やってしまったことはやってしまった、と開き直り、即座に事後の対応策を講じるのではないか。
それでこそ孫堅に似つかわしい行動だったし、そう考えれば他に相応しい行動は思い付かない。
とにかく、わざわざ自分のしたことを反省して譲歩するような性質にはどうしても思えなかった。
では、どういうことなのか。
思考は最初の地点に還るが、結局堂々巡りで輪になるばかりだ。
がこれといった答えを得られるより前に、自室前まで辿り着いて居た。
扉を開けると、何とはなしに人の気配を感じる。
おや、と首を傾げつつ、恐る恐る奥に向かう。
命を狙われたことも一度や二度ではなく、呉に居るからと言って(否、呉に居るからこそ)油断してはならない。
本当に用心するのであれば、ここで室に入らず人を呼ぶというのが正しい在り方と思われるのだが、その点の神経はどうにも太く、挙句ねじ曲がっているらしかった。
そっと足を忍ばせて寝室を覗くと、牀の上にでんと構えた孫策が端からこちらを窺っている。
が幾ら注意しても、戦に感覚を研ぎ澄まされた孫策を欺くことなど不可能だろう。
恐らく、扉を開けた時点で疾っくに覚っていたに違いない、胡坐を掻いて座る孫策は、口をへの字に曲げて如何にも機嫌が悪かった。
一瞬嫌な既視感に襲われるが、昨日のような刺々しい殺気は感じられず、単に不貞腐れている風に見える。
立ちすくむに焦れたか、来い来いと無言で手招いてきた。
危険はなさそうだと判断出来たが、行き辛い。
よくよく見ると、孫策の頬の辺りが赤くなっている。
誰かと喧嘩でもしたのかと思うが、喧嘩を祭りと勘違いしている節のある双璧の一人(もう一人は勿論甘寧だ)が喧嘩如きで不機嫌になるとも思えない。
動かぬに、『来い来い』の手の動きが気のせいか雑になる。
これはヤバイとそろそろと近寄れば、孫策は無言で座れと促す。
座るしかなかった。
牀の端で縮こまるようにして座るを睨め付けながら、孫策は胡坐を掻いた足の膝に手を置く。
戦国武将然(いや武将なのだが)とした威圧感に、は遂に首まで縮めた。
「お前、大喬に何言った」
あ。
縮こまって居た首がすわっと伸びる。
疑問が一気に氷解した思いだった。
「え、ちょ、マジで?」
「何が『マジで』だよ、馬鹿」
孫策は、痛みを堪えるかのように赤くなった頬を擦る。
「大喬が、お前んとこ行くっつって戻って来たかと思ったら、いきなりビンタくれてよ……言うに事欠いてお前、『大姐に頼まれました』、だぜ!?」
は呆気に取られる思いだ。
ナンボナンボでも、大喬が孫策に手を上げるなど完璧に想定の範囲外だ。
冗談のつもりで言ったことだし、まさか実行するとは思わない。
「え、うわ。ごめん」
半ば呆然と謝るが、孫策の怒りは未だ晴れない。
「お前、とにかくメシ食って、しょうがねぇから仕事しに行ってよ……そしたら、今度は太史慈とばったり出くわして、お前、太史慈何したと思う」
仕事はしょうがなくてすることではないだろうと突っ込みたかったが、太史慈が何をしたという点に付いてはさっぱり分からない。
何も思い付かないのを表情から読み取ったか、孫策は如何にも我慢ならんと言った態で牀をバンと叩く。
「土下座だ、土下座! 廊下の真ん真ん中でお前、いきなり土下座くれやがったんだよ! びっくりすんだろーが!!」
それはびっくりだ。
びっくりどころではない、驚天動地レベルの話だった。
「え、何で」
「何でって、お前」
返す刀で食って掛かろうとした孫策が、不意に口を閉ざす。
面白くない、とモロに顔に出しているのを見て、の感は鋭く冴えた。
「もしかして」
冴えるというか、極当たり前の論理の帰結ではある。
青ざめるに、孫策は鼻を鳴らす。
「……俺は別に、お前が良ければそれでいいけどよ」
けど、愉快にはなり得ない。
それはそうだろう、腹心の友と見込んだ男が、自分の留守中に『女』に手を付けたと分かって浮かれて居られる程の馬鹿でもなかろう。
孫策は、それでも太史慈とのことを責めているのではないらしかった。
「前にも言ったしな。それはいい、いいけどよ、だけど、まさか俺がお前に手を上げたのを太史慈が自分のせいだと思ってるなんて、思ってもみねぇじゃねぇか!」
堪えられない、とでも言いたげに盛大に顔を顰める孫策に、はどう応じていいか分からない。
太史慈には直接、孫策と喧嘩をした旨伝えたものの、もう仲直りしたことも説明したし、何でそれで太史慈のせいで喧嘩になったと思われるのか。
しかも、孫策の話はそれで終わりではなかった。
土下座する太史慈を蹴倒すように空き部屋に押し込み、喧嘩はあくまで二人の間のことで、太史慈のせいではない、関係したことも今知ったと言い聞かせると、一応それで納得したらしい。
ところが、今度は好いた女に手を上げるとは言語道断、と、それはもう明後日の方向に怒り始めたそうだ。
孫策がそのつもりなら、自分もそのつもりで当たらせていただくと、意味不明ながらえらい剣幕で立ち去って行ったという。
反論する余地もなく一人取り残された孫策は、立て続けの災難に当たりどころもなく、向かっ腹を立てながらの室に直行し、の留守を勝手に預かっていたという次第だ。
――何だそれ。
は渋面を浮かべながら黙り込む。
災難続きの孫策を怒るつもりもないが、かと言って素直過ぎる大喬や実直過ぎる太史慈に怒るのも違う気がする。
自分が悪いと下手に出る殊勝さは、残念ながら持ち合わせなかった。
敢えて挙げれば、こんななぁなぁな関係で良いと流してきた全員が悪いのだ。
むっつりと黙りこくるに、孫策がそろそろと手を伸ばしてくる。
「……なぁ」
はっとして、慌てて孫策の手を叩く。
痛みなどほとんど感じぬくせに、わざとらしく痛がって見せるのが小憎たらしい。
「時間考えなさいって。顔だって、何か腫れて来たし、痛いし」
赤面しつつもぶつぶつ文句垂れると、孫策は改まった顔での横に来た。
「痛ぇか?」
「痛ぇよ」
即答するの顔に、孫策の手が伸びる。
無言で押し退けようとするが、孫策は止めようとしない。
「やだ」
ただでさえ美人とは言い難い顔をしているのに、痣や腫れでどんな化け物顔になっているか知れない。
それでも孫策は手を止めない。
の痣を隠す包帯を、さっと取ってしまった。
「やだって!」
怒鳴り、押し退けようとするを柔らかく押し留め、胸に抱き締める。
優しく髪を撫でられて、むず痒さに悶えた。
取り成すように、あくまでゆっくりとの顔を自分に向けさせると、醜く痣になっているだろう箇所に掠るように唇を押し付けてくる。
痛覚を刺激するまでには至らない細やかな仕草は、孫策の常の奔放さとはまるで掛け離れているものだった。
気持ち良いのは良いが、同時に困った生理現象も生じる。
今さっき断ったばかりだというのに、孫策に抱かれたいと思い始めていた。
唇を離した孫策が、無邪気に微笑みかけてくる。
一度断ったものを、今更『してくれ』とは到底言えない。
「」
名を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。
孫策の目に意味ありげなものを感じて、落ち着かなくなった。
したいと言ったらするのが孫策だ。
して、くれるだろうか。
退廃的な期待に熱くなる体を持て余しながら、は孫策の言葉を待った。
「いい薬持ってきたから、塗ってやんな」
にっかりと笑うと、腰に吊るした袋から何やら小さな陶器を取り出す。
中には軟膏のような粘る塊が入れてあった。
気が抜けて肩を落とすにも気が付かない風で、デタラメな鼻歌などを歌いながらぺたぺたと塗りたくっている。
ねっとりとした感触は不愉快だが、薬の持つ独特の冷たさは、熱を帯びた肌に心地良い。冷気に痛みが吸い取られるようだった。
目に沁みる感じもなく、瞑ってさえ居れば問題はなさそうだ。
存分に薬を塗った孫策は、包帯を丁寧に巻き直すと、その上から再度口付ける。
「夜になって、薬が効いて痛くなくなってたら、いっか?」
間近に覗きこまれ、無意味に照れる。
「……いいよ」
もしそうであれば、逆らう理由もない。
孫策は嬉しそうな笑みを浮かべ、よし、と小さく拳を突き上げた。
そんなにしたいものだろうか。とて、したいと言われればしたい方だけれども。
何だかんだで孫策に抱かれることは嫌いではなかった。
相性がいいのかもしれない。
孫策は袋の中から黄色い紙包みを取り出し、そこから手のひらに小さな丸薬を乗せる。
「これも飲んどけよ」
「……分かった」
こちらは飲み薬らしい。
水を取りに行こうしたは、孫策に腕を取られて引き止められる。
振り返った先で孫策が丸薬を自らの口の中に放り込んでいるのが見える。
理解して屈み込むと、重なった唇を通して丸薬が喉の奥へと転がり込んだ。