日が暮れる頃、は湯浴みに勤しんでいた。
痛みはだいぶ薄まった。
力を込めて触ればやはり痛みはあるが、口を動かすだけで鈍痛が走るということはない。
これは『薬が効いて痛くなくなった』状態に該当するから、『いい』ことにしなければならないだろう。
言い訳がましく考えながら、は丹念に体を磨く。
馬鹿馬鹿しいとは思うのだが、よくよく考えるに『予告』してから致すことなど非常に珍しい。
風呂は好きで、贅沢なことらしいが毎日のように湯浴みさせてもらっている。
だから、突然押し掛けられても困ったことはあまりなかったし、入って居なければ、嫌だと拒絶することもある(通じた試しはほとんどないが)。
この後するのだと考えると、湯浴みの時間はどんどん延びて、出ようと思った時には湯はずいぶん冷めてしまっていた。
どれだけ丁寧に磨いていたか、思い知らされる。
赤面しつつ、粗方の水気だけ拭って取り合えず牀に向かった。
牀によじ登ると、コンパクトを取り出し、顔を覆う布を少し捲る。
痣は相変わらずだが、痛みはない。
渇いた薬が粉状になってボロボロ落ちるのが、何だか汚らしく感じられた。
拭ってしまっていいものだろうか。
躊躇こそしてみるものの、もうこんなに渇いてしまっているのだから構うまいと、手巾に水を浸して拭い取る。
痛みが若干蘇ったような気もするが、少しでも見た目を良くしておきたかった。
粉を拭い落とすと、正座した腿の上に粉が幾らか落ちているのに気付く。
払い落すと、ふと思い出してそっと裾を割った。
湯浴みでしっとり濡れた下腹部を覗き込む。
足を割ってより見えやすくすると、指を這わせて『形』を確かめた。
当帰曰く、『美味しそうな』形らしい。
いいか悪いかの判断など、に下せるものではないが、娼館勤めもしたことがある当帰が言うのであれば、そうなのだろう。
あれきり手入れは行われていないが、が触れる限りまだ陰毛が生えてくる兆しはない。
胸乳に似た柔らかい感触は、張りのない分、より一層強く感じられる。
ここに、後で孫策が、と考えると、秘裂がひくりと蠢いた。
恥ずかしくなりつつも、別の生き物のような反応に驚く。
自分の体ながら、何だか得体が知れなかった。
触り過ぎるのも何だと指を引っ込めると、既に指先を汚してしまっていた。
折角湯浴みしたのに、と残り湯で手を洗いに隣の間に戻る。
手を浸すが早いか否か、表で来訪を申し立てる声がした。
太史慈だった。
危うくたらいを引っ繰り返すところだ。
泡を食いながら服を着込み、適当に身繕いすると、駆け足で扉に向かう。
扉を開くと、外の冷気が一気に吹き込んできた。この室は、意外と保温が効くようだ。
「……申し訳ない」
の様から湯浴みの後と気付いたのだろう。
赤面して顔を逸らされて、まずいことをしただろうかとも焦る。
出た後であったし、声の調子から急用のように思えて勝手に慌てたのだが、閂を開く前に扉の前で用件を聞いてからにするべきだったかもしれない。
以後、気を付けよう。
前向きに考えることにして、改めて用向きを訊ねることにした。
「………………」
太史慈は、何事か考え込んで口を閉ざしてしまった。
何か言い難いことだろうかと首を傾げると、太史慈の指が伸びてくる。
が後退るより早く、の頬に触れていた。
「痛みは」
問われて、ようやく包帯を忘れたことに気が付く。
ぱっと顔が赤くなり、すぐさま両手で痣を隠した。
腫れは引いているようだが、青黒い痣は消えて居ない。
その醜い痕跡を太史慈に晒したことを、は恥じた。
うっかりにも程がある。
眉根を寄せて俯くに、却って太史慈の方が焦っていた。
「否、俺は、戦場ではしょっちゅう、そんな怪我は見ているから」
何を言いたいのか自分でも分からなくなり、太史慈は一度言葉を切った。
唾を飲み込み、ふっと息を吐くと、言いたいことを考え考え言葉を紡ぐ。
「……俺は、気にしない。だが、貴女が気にするのであれば、申し訳ないことをした。後程出直して来ようから、会っていただけるだろうか」
後程、と聞いて、ははっとする。
「あ、の、今日は……」
語尾を濁すに、太史慈も悟るところがある。
「……先約が、おありか」
太史慈の顔が厳めしく顰められる。
嫉妬を露にする太史慈など、見た者は少なかろう。
だが、見ないで済むものであれば見ないで済ませたい類のものだ。
当事者たるにしてみれば、その思いは格段に強まる。
「お。太史慈じゃねぇか」
これまた間の悪いことに、孫策が来てしまった。
気さくに手を掲げ、呑気に歩み寄って来る。
先約の相手を知られ、の動揺は激しい。
昼間の一件を孫策から聞かされていたは、一触即発ともなりかねない事態に青ざめた。
「お、包帯取ったのか。どれ、見せてみろよ」
孫策は状況を把握できないのか、どうでもいいことに気が付いてに向かってくる。
顔を覆うの手を、無造作に解こうとした孫策の手を、太史慈が掴む。
歪な三角を描く腕の交差に、孫策はきょとんと、はぎくりとして動きを止めた。
「……嫌がって居ります」
太史慈の敬語に、はしっくりしないものを感じた。
孫策に対して敬語なのは当然として、今の物言いだとの立ち位置はかなり微妙なものになるのではないだろうか。
何と言うか、太史慈の保護下にある人間であるように感じる。
些細なことだが、妙に気になった。
が自分の感じた違和感を検分していると、孫策がもう一方の手で太史慈の手を掴む。
極自然に外そうとしたのだろうが、太史慈は力を込めてそれを拒絶した。
およそ主君と仰ぐ人にするべき態度ではない。
孫策は、怒ることこそなかったが、不思議そうに太史慈を見遣る。
「今日の約束、俺にお譲りいただけまいか」
唐突な申し出に、孫策は元よりも唖然とする。
太史慈の目は本気だった。
「……今日は、駄目だ。今日以外、がお前にいいって言った日なら、俺はいつでも構わないぜ」
きっぱり断る孫策に、太史慈の目は鋭く細められる。
孫策は、いつも浮かべている気さくな笑みを打ち消して、真剣に太史慈の目を見返す。
「今日は俺がと約束して、がいいって言った日だ。昼間も言ったっけか、俺はお前とがどうこうなったって、怒りゃしねぇよ」
「ならば」
何故、を打ったのか。
孫策が言葉に詰まる。
とて、説明しろと言われれば困って口を噤んだだろう。
いわゆるDVと言われればそうかもしれないが、そうではないと思う。
が孫策を拒み、孫策がそれに腹を立ててを叩いた。
物事の流れのみで語るなら、それはDV以外の何物でもなかっただろう。
ただ、孫策はを支配したくて叩いたのではない。言うことを聞かせようとして、怯えさせようとして叩いたのでもない。
上手く言えなかったが、弾みとか勢いに近いものだとは認識していた。
そーゆーところが駄目なのかもしんない、と、自爆したのは余計だったが、とにかく恐らく太史慈が恐れているような理由から叩いたのではないということだけは、確かなのだ。
「仲直り、しましたから」
太史慈の手に手を添えて、は太史慈の目を見た。
「だから、太史慈殿が心配してくれるのは有難いけど、大丈夫ですから。ね」
落ち着くよう、とんとんと軽く叩く。
太史慈の目に暗い影が差した。
その手から力が抜けたのを確認して、孫策も自分の手を外す。
繁々と太史慈を見ていた孫策が、不意に口を開いた。
「……だから、がいいっつってんなら俺はいいって言ってんだろ?」
え、と太史慈との声がハモる。
「んー……俺の気のせいだったら、アレだけどよ……俺が帰ってきたからっつったって、お前がに触っちゃいけねぇって言ってる訳じゃねーんだからよ」
な、と太史慈の肩を叩く孫策に、太史慈は微妙な顔をした。
もまた微妙な顔をしてしまう。
目の前で浮気公認されたようなものだ。いいのだろうか。
「俺の了見が狭いのやもしれんが」
太史慈が困り顔で孫策を見る。
「……貴方は、それでいいのか。その……俺が、殿に、触れても」
「いい訳ねーだろ」
孫策は盛大に呆れ果てながら、即答する。
「いい訳ねーけど、仕方ねーだろ……大体、俺だって最初は割り込みのゴリ押しだったんだからな」
孫策がと出会った時、は既に他の男に想いを寄せられている身だった。
それでも構わないと名乗りを上げた孫策に、はそれならと一人の男を選び、そしてそれは孫策ではなかった。
孫策は、怒りに任せてを抱いた。
未だ男を知らなかったのだと、孫策はその時初めて知り、驚愕したものだ。
紆余曲折を経たが、未だの隣に居のは、偏に今のこの状態が僥倖との弱さ(優しさ)からなる奇跡だと孫策は考えている。
今までずっと考えていた、などと嘯くつもりは毛頭ない。
演習に出て、傍らにが居ないと実感した時、初めてつらつらと考えるようになった。
「それに、俺だって大喬が居る。にだけ、駄目だとは言えねぇよ」
軽く肩を竦める孫策に、太史慈は呆然とするばかりだ。
知らずに居たことと知りたかったこと、一度に解明されて頭が着いて行かないこともある。
何より、孫策の考えが突拍子もなさ過ぎて、どうとも言い難かった。
「まぁ、とにかく、お前は明日だ! もし俺に何か言いたいことがあんなら、今日の内に考えとけ! 殴りたきゃ、それも明日になってからな! じゃあな、太史慈! 明日な!」
陽気に、かつ強引に話を纏め、孫策はの手を引き室に籠もってしまった。
目の前で閉ざされた扉に向かい、太史慈は完全に毒気を抜かれて立ちすくむ。
戦場であれば確かに、男も女もない。
けれど、そうでないにも関わらず、自ら惚れた、力ない女に乱暴するような孫策を、決して許せないと意気込んでいた。
実は、直接に会って、いっそ求婚をと乗り込んできたのだが、太史慈の目論見はすべて崩れてしまった訳だ。
多分に、孫策の指摘した通り、もうに触れられなくなるかもしれぬと焦って居たところもあったのだろう。
今になって気付く。
そして、敵わんな、と改めて思った。
すっかり気が抜けて、太史慈は苦笑を浮かべながら廊下を戻る。
辺りは疾っくに暗くなっていて、未だ厳しい寒さが押し寄せんばかりだ。
そう言えば、護衛の兵の姿がとんと見えない。
姿はなくとも気配は感じるものだが、それもなかった。
孫策の来訪を知った周瑜が、気を利かせたのだろう。
知勇兼備の将の目を掻い潜って孫策を出し抜くには、余程の策が入用のようだ。
それでも、諦めようとはどうしてか思わない。
というひとの不可思議さを、太史慈は重ねて考えるのだった。