朝を迎え、は寝不足の目を擦って起き出した。
疲れきって、何も考えたくないと思った瞬間、寝落ちていたのだ。これも逃避の一種かもしれない。
どうして大喬が居たのだろう。
どうして周瑜が居たのだろう。
秘すべき閨での出来事を、よりにもよってあの二人に見られてしまった。
その上、周瑜とは一線を超えるという最悪の事態を招いてしまっている。
周瑜の『礼』の意味をは測りかねていたが、いわゆる『筆おろし』を済ませて女(小喬だろうが)を抱く度胸が出来たとでもいうことなのだろうか。
それはそれで最低だし、そうでなくても最低だ。
いっそ夢であったなら、と思う。
どれだけ記憶が鮮烈でも、こうして一人朝の冷たい空気の満ちた室に居ると、本当に夢だったような気になるから不思議だ。
夢でなくとも、夢だと思うことにしようか。
そんな風にも思う。
少なくとも周瑜に限って言えば、と関係したことを周囲に知られたいとは思わないだろう。
つまり、さえ口を噤んでしまえば、周瑜との仲はなかったことになるのと等しい。
真実なかったことに出来れば一番なのだが、そこまで現実は甘くない。
せめて、酒でも飲んで前後不覚になっておくべきだった。
起きて尚くすまぬ記憶に、は溜息を吐いた。
とにかく、頭が重い。
激しい痒みに悩まされたせいか、眠ったのに寝た感じがしなかった。
ふと、あの痒みは何だったのかと考える。
今でこそ何も感じない(残滓の滲む肌の気持ち悪さは別として)ものの、昨夜の痒さは尋常ではなかった。
もしかして、性病だろうか。
はさっと青ざめた。
理由に心当たりがない訳がなく、いつなってもおかしいことではない。
書物が主な情報源の半端な知識は、を落ち着かせるよりは焦らせる方に効果を発揮する。
しかも性病は、伝染するのだ。
もしそうだったとして、を媒体に何人伝染してしまったのか、想像も付かない。
どうしよう。
そうでない可能性も考えられたが、の気質はそれ程悠長なものではない。
何となしではあるが、下腹が疼くのも気になった。
青ざめたまま牀に座り込み、改めて膝を割る。
怖々と恥部を覗き見るが、見慣れたものでもなく、何処がいいとも悪いとも判断が付かない。
一刻も早く医者に掛かるべきかもしれないが、現代においても少々敷居の高い分野だけに、外交の為に訪問した身の上もあって決心が付かなかった。
濡れ衣であろうことは重々承知だが、重ねて酷い目に遭っている分、呉の医者に対して幾許かの抵抗もある。
思い悩んでいる内に、時ばかりが過ぎた。
周瑜から出された隔離令が解かれず、呉の家人はの室に近寄ることが出来なかった。
が出歩くなり、声を掛けたら解いて良い、ということにはなっているものの、肝心のが室に閉じ籠りっぱなしだ。
いつも運び入れる朝の茶の湯も、それで運んでない。
昨夜の湯浴みの後片付けもしてなかった。
食事を一食二食抜くのは珍しくないこととはいえ、閉じ籠ったまま早くも昼を過ぎている。
いい加減、家人の者達も不安になって来ていたのだった。
病なり、急な事情で一人倒れられているのやも知れない。そうなったら、家人総員で責任問題となりかねない。
が侍女も連れておらず、また折角雇ったらしい家人とも早々に揉めたかしたのは周知の事実である。
責任を擦り付ける先がない以上、家人達にとってはの動向は死活問題に直結した。
死線と定められた柱の手前で、女達は手持無沙汰にうろうろと歩きまわる。
下手に近付いても責められかねないし、近付かなくてはの様子は分からない。
せめて顔でも出せばいいものを、と、筋違いの恨み事まで出てくる始末だ。
背後から聞こえる廊下の敷板を踏む音に、女達は一斉にぱっと振り返る。
そこに立つ人の姿に、一同の顔は明るく輝いた。
扉の向こうから声が掛かる。
は、はっと我に返って牀から降りた。
腰がやや頼りなく落ち掛けたが、何とか持ち直して扉に向かう。
今日の予定が瞬時に蘇り、血の気が引いた。
「すみません、すみません」
開ける前から頭を下げまくってしまう。
閂を外し、扉を細く開ける。
逆光に照らし出された呂蒙は、の顔を見て酷く驚いたようだ。
孫策に追い払われて丸一日以上、呂蒙と連絡を取って居なかった。
一泊含む送迎の手間まで掛けさせて、あんな風に追い払われたのを知っておきながら、何たる不義理だとも反省するが、孫策に叩かれたり孫堅に呼び出されたりと、の少ない容量がいっぱいいっぱいだったのだ。
とはいえ、本日予定の『勉強会』をぶっちぎってしまった理由にするには足りない。
昼を過ぎても汚れた夜着のままとあっては、尚のことだ。
「具合でも」
思わず中に入って来ようとする呂蒙に、は慌てて手を振って押し留める。
入られたら困る、近付かれても困る。
何せ、性病疑惑にかまけて身繕いさえしていない。
腿の付け根で粘付く残滓でさえそのままだったから、少々鼻が利く者であれば、すぐにでも気付いただろう。
とは言え、生憎呂蒙の察しはかなり悪い。
の様を異常と取って、眉間に皺を寄せると強引に押し入って来た。
「うわ」
は、何気なく肩に置かれた呂蒙の手に、静電気のような衝撃を覚えて声を上げた。
一瞬にして全身を駆け巡る感覚は、下腹に覚えていた疼きの正体を暴露する。
下腹ではない、子宮だ。
大きくたわんでうねるような、そんな筈はないのにそんな風に感じてしまう程に強く引き攣っているように感じる。
全身が一気に火照り、喉が異様に渇いた。
やばい、とは唇を噛んだ。
昨夜の、孫策の時と同じか、それ以上の欲求が膨れ上がっている。
肩を掴まれただけだ。
呂蒙が他にしたことはない。
それでここまで痛切に飢えるなど、自身も理解できないことだった。
あからさまに様子のおかしいに、呂蒙もようやく気が付いた。
「どうされた。何か、良くないものでも口に入れられたか」
その言葉に刺激され、の記憶は急激に遡る。
似たような状態になったことがある。
今の方が症状はずっと強いが、あの時もこんな風になった。
思い出せば、簡単な話だ。
――……伯符!!
痛み止めだと思っていた。
しかし、痛み止めだという言葉は一切聞いてない。が勝手にそう思い込んだだけだ。
容量も出鱈目に飲まされたあの薬、あれは、媚薬だったのだ。
本当に痛み止めだったのかもしれないが、少なくとも孫策は痛み止めだと口にしていない。
だが、孫策の気質であれば、それならそうと言うだろう。
これは痛み止めだ、よく効くから云々、それくらいは言って、だから飲んでおけときっぱり言い切ると思う。
言わずに置いたのは、言いたくなかったからに相違ない。
一錠飲ませ、効き目が薄いと見た上で、あの量を飲ませたのだ。
そう考えると、筋が通る。これこそ正解であると思われた。
とは言え、如何に解を導き出したところで現状に変化がある訳ではない。
皮膚の上をムカデが這いずり回っているような錯覚を覚える程、得体の知れない欲望がを急き立てている。
相手が呂蒙だからでなく、そこに呂蒙が居るから強請ってしまいそうな自分に吐き気を覚え、は腕に爪を立てて堪えた。
昨日の今日である。
周瑜と『過ち』を犯した翌日に、相手を呂蒙に変えて同じことを繰り返す訳には行かなかった。
堪えれば、耐え切れる。
体の中に生まれる波の合間を見て、は引き攣りながらも笑みを作った。
「具合、悪いみたいで」
これで呂蒙は帰るだろう。
体調が悪いと言っている者を、無理に引き止めるような性悪な性質ではない男だ。
言い切ったことで半ば安堵したは、緩みきった気持ちのままに呂蒙の強張った顔を目の当たりにした。
ざっと風が沸き立ち、思わず目を閉じる。
「ふぁっ」
抱き込まれ、止める間もなくあられもない声を上げてしまう。
膝ががくがくと揺れ、今すぐにでも落ちてしまいそうだ。
呂蒙の体臭が鼻を突く。
嫌な匂いではない。濃い、男の匂いだった。
本当に飢えているかのように、涎が口中に溢れ出す。
即座に全身が反応する。
今受け容れろと言われても、まったく問題ない程に昂って居た。
呂蒙にしがみ付くようにするしか、体勢を保てない。
それでも崩れ落ちそうになるの尻を、呂蒙の手が鷲掴みに掴んだ。
「!!」
声にもならない。
それだけで、軽く達していた。
やばい、やばい、どうしよう、どうなるんだろう。
どうにもならない混乱だけが凄まじい渦を作り、の思考を占める。
涙で滲んだ視界に、呂蒙のやけに男臭い飢えた表情が映り、ああ、こんな顔もするのかと場違いな感動を覚えた。
その顔が、迫って来る。
誘っちゃった、その気にさせちゃったと茶化す気持ちの傍ら、もうどうなってもいいからこのまま気持ち良くなってしまいたいという自暴自棄な気持ちが複雑に揺れている。
落とされようとする唇に、は薄く唇を開いた。
「」
冷めた。
一瞬で、も呂蒙も、バケツ一杯の冷や水を浴びせかけられたかのように正気に戻った。
扉の向こうから俯いた頭を突っ込んでいるのは、間違いなく孫策だった。
孫策は、顔も上げずにの手を掴むと、ぐいぐいと引き寄せる。
叱られる、怒鳴られる、打ち殺される。
生きた心地もしないを手元に引き寄せると、孫策は矢庭に顔を上げた。
「頼む、大喬、説得してくれっ!!」
何のことやら分からない。
分からないが、両手でしっかと握られていても、呂蒙に感じた衝動を一切感じられずに居る。
驚愕が薬の効能を、引いては性欲をも制するらしいということを、はぼんやり実感していた。