どうしたものだろう。
 浮気(?)最中に飛び込んできた孫策を前に、は言い訳する機さえ逃して戸惑うばかりだ。
 呂蒙もまた、ばつが悪いのか何なのか、物言いたげに口を開いては閉じるを繰り返す。
 微妙な空気に遅まきながら気付いたらしく、孫策はひょいと顔を上げた。
「お、呂蒙。どうした?」
 悪びれもせず素で問う孫策に、呂蒙は困惑したように唇を噛む。
 その、と、ちらりとに視線を送ると、呂蒙の視線を追ってを見遣る孫策は突然『あぁ』と大声を上げた。
「俺がやったんだ」
 何を勘違いしたのか、ややむっつりと、けれどきっぱりと認める。
 恐らく、の顔の痣を咎められたと思ったのだろう。
 勘違いにも程があるが、それだけ責任を感じている証なのかもしれない。
 孫策は、不意に閃いたようで、ポン、と手を打つ。
「呂蒙、お前、俺を殴れ」
「は?」
 呂蒙のみならずも驚いてしまう。
 何を言い出すやら、だ。
 しかし孫策は、二人の戸惑いも何のその、胸を張って同じ言葉を繰り返す。
「頭に血が上って、つい叩いちまった。けどよ、こいつがお返しに俺殴っても、こいつの力じゃ全然効きゃあしねぇだろ? だから呂蒙、お前が殴れ」
 義理固いと称賛するべきなのか、孫策の主張は、一見すれば正しいと思えなくもない。
 だが、事実を知るにしてみれば、そんなことをしてもらう訳にもさせてしまう訳にもいかなかった。
「ちょ、馬鹿、手を出しちゃったのは、私が先だったでしょうが!」
 故ない侮辱をしてきた孫策が悪いとは、思う。
 それでも、ぶつけられた言葉のすべてを完全に否定できる立場でないことは、自身も百も承知だ。だからこそ孫策一人が悪いとは言えないし、言ってはいけないと思う。
――ああ、ややこしいな。
 望んでこんな立場に立ったつもりは毛頭ないが、これまでとて敢然と拒絶してきた訳でもないから、自業自得だ。
 はここまできても、未だにこの現実を受け入れられていないようだった。
 突き詰めて考えない性質が良かったのか悪かったのか、正直判然としない。
 とにかくまずこの場を納めなければと、は思考に沈み掛ける自分を無理やり引き戻した。
「だいたい、呂蒙殿だって、あんたからそんなこと言われたって困るでしょうよ。臣下の立場も考えなさいって」
「そ、そっか?」
 イマイチぴんと来ない様子の孫策は、問い掛けるように呂蒙に視線を向ける。
 呂蒙も苦笑いして、小さく頷いた。
「……甘寧や凌統であれば、あるいは若殿のお言い付けに素直に従いましょうが……俺には、少々酷なご命令かと」
 それと聞いて、孫策も小さく頷く。
「じゃあ、甘寧に……」
 分かってないらしい。
 踵を返す孫策の腕にぶら下がり、必死で止める。
「あんた、さっき大喬殿がどうこうって言ってなかったっけ!?」
 大喬の名を聞いて、孫策の歩みはぴたりと止まる。
 現金なことだ。
 呆れて物も言えないに孫策は掴み掛らんばかりの勢いで、またも慌てふためき始めた。
「そうだ、、お前ちっと大喬に言ってやってくれよ、マジで困ってんだ!」
 そのまま引き摺って行こうとするもので、今度はの方が慌て出す。
 何せ、未だ夜着のままだ。足の間には男の放った残滓がこびり付いている。
 こんな状態で、外同然の屋敷の廊下を歩かされるなど、拷問にも等しい。
「ちょちょ、こ、こんな格好で行けるか、馬鹿っ!」
 あらん限りの力を込めて踏み止まった為、奥に留まって居た残滓がどろりと落ちてくる。
 熱い粘液が腿を滴り落ちて行く感触の気色悪さに、は思い切り顔を顰めた。
 ばしばしと腕を叩いたのも効を奏したか、割合早く(それでも扉に手が掛かってはいたのだが)に孫策の足が止まる。
 ほっとして、油断したのが悪かった。
「何だよ、早くしろよ」
 言うなり、孫策はの襟を勢い良く左右に割る。
 が固まるのへ、呂蒙が驚愕して漏らしたけったいな声が被さった。
「……あ、悪ぃ」
 孫策の詫びはに対してではなく、思わぬ目撃者となった呂蒙に向けられていた。
 何でやねんと突っ込みたいのはやまやまだが、見られたかもしれない胸を隠すのに精いっぱいで、それどころではない。
 呂蒙は顔を真っ赤にし、はぁとか否とか口中でごにょごにょ呟くと、逃げるように足早に立ち去って行った。
 相当深くまで襟を割られてしまったし、かなり際どいところまで見られてしまったに違いない。
 羞恥と怒りがないまぜになって、は孫策の二の腕を引っ叩く。
「いってぇ」
 さして痛くもなさげに振り返る孫策に、は更に憤る。
 べしべしと怒りに任せて叩き続ける手を取られ、間近に顔を合わせられる。
「……俺が来る前、お前、何してたんだよ」
 それを言われると弱い。
 一瞬青ざめただったが、すぐに別の怒りが込み上げてくる。
「馬鹿、あんたこそ、人に何飲ませたのよ!」
 孫策は、しばし本気で考え込んで居たようだったが、思い当たる節を見付け出して、あ、と小さく声を漏らした。
「あ、じゃないっ!!」
 怒り狂うにも、孫策は何故か照れたように頭を掻いて笑うばかりだ。
 気が抜けるったらない。
「……もーいい。あんたのせいだけど、あんたのお陰で回避したし。一応、そういうことにしておく」
 危うく呂蒙との一線を踏み越えるところだった。
 呉に来てからというもの、コンプリートの危機をひしひしと感じている。
 まさかの周瑜と過ちを犯したからには、本当に冗談事で済まなくなりつつあった。
 能力が他にない以上、『女の武器』を駆使するしかないのかもしれないが、肝心の駆使する目的が形を成さぬ程曖昧とあっては、話にもならない。
 セックスしたら世界が平和になると確約されているなら(馬鹿馬鹿しいが)まだしも、今のは単に尻が軽いというだけに過ぎなかった。
――戦争してるよりゃ、そりゃーいいのかもしんないけども、よぅ。
 某偉大な歌手の名言を脳裏に浮かべつつ、は一人やさぐれた。
 その肩が、剥かれる。
 今度は腰まで、一気に剥かれた。
 みぎゃ、と形容し難い悲鳴を上げて飛び上るを、孫策は不思議そうに見ている。
「早くしろよ」
 何ちゅー我がままな男だ、と憤慨するも、無意識とは言えあくまで我を貫き通す孫策に通じる筈もない。
 帯を解こうとする手をばしばしと叩いて撃退すると、外に蹴り出して閂を掛けてやった。

 着替える間に盥の始末を孫策にやらせ、立場をなくした家人が悲鳴を上げる場面もあったが、滞りなく身支度を整えたと孫策は、連れ立って大喬の室に向かっていた。
 急いでいて、身を清めるのに盥の湯(疾っくに水になっていたが)を使ったせいか、体が冷え切って時々くしゃみが飛び出す。
「大丈夫か」
 その度、孫策が心配してを覗き込んでくる。
 本気で心配しているのが見て取れるが、元はと言えば孫策のせいだ。
 人のペースを掻き乱しまくっても、まったく意に介そうともしない癖に、具合が悪いと見るや本気で心配してくる。
 時には命を投げ出すのも厭わぬ豪胆振りを見せ、部下思い弟思いと、他者に向ける信頼はどうにも開けっ広げで屈託がない。
 殴られたり罵られたり、考えてみればずいぶん酷いことをされているのに、嫌えないのはそんな性分のせいだろうか。
 思い返すに、も孫策に対しては気軽に文句も言うし、怒鳴ったり叩いたりはしょっちゅうだ。
 好き、と感じるのは、そんな気楽さからかもしれない。
 能力の差は埋め難くとも、孫策は常にに真正面で向き合おうとする。
 口先だけでなく、体を張ってを守ろうとし、時にはの為にと自分の恋心さえ切り捨てようとするのだ。
 そんな情熱に飲まれて、大喬を説得してくれ等という阿呆な申し出にうかうか乗ってしまった。
 妾同然の女に、何であれ正妻を説得させようなどという馬鹿は早々居るまい。
 少なくとも、の世界では有り得ない話だ。
 一夫一妻制が常識と化した人間と、一夫多妻制が常識の人間とでは、埋め難い巨大な溝がある。
 倫理というものは生まれた瞬間(ひょっとしたら生まれる前から既に)刷り込まれる、覆し難い行動原理だ。
 家庭という小さなものから国や世界といった大きなものまで、多種多様で、けれど相手が違う倫理観に従って動いているからと安易に許容するのは難しい。
 犬を見て、可愛いと思うか怖いと思うか、はたまた旨そうだと思うかは、それこそその場に居合わせてみないと分からない。可愛いと思った人間が、旨そうだと思う人間に対して怖気を感じるのは、これはもう致し方ない話だと言い切れよう。
 この呉に置いて、に求められる倫理は『選択しても良いが、基本誰であろうと受け容れること』という非常に荒唐無稽なものだったが、に一応でも選択権が与えられている分、まだマシなのやもしれなかった。
 それでも、どうしても抵抗はある。
 人間には嫉妬の感情がある筈だ。
 感情という原始的な根幹を無視して、一人の人間を共有などできるものだろうか。
 それは、共有できる程度にしか思い入れがない、つまり恋とは異なる、単なる性欲対象として見られているに過ぎないのではないか。
 この一点のみではないものの、の疑問の大本はそこに終結する。
 悩むのは、理解しようとするからだ。
 以前、友人から言われた言葉を思い出す。
 人間は、知りたがる生き物だ。分からないものに出会えば、まず理解しようとする。
 その理解が正しかろうと間違って居ようと、ある程度こうだと理解したつもりになれば、そこで思考を止める。理解したと思うからだ。
 例え理解できずとも、理解しようと努力したことを評価して、人は満足するものだ。
――あんたはそこんとこが、ちょい、しつこい。
 そう言った友人の顔が、何故か唐突に思い出された。
 ずいぶん戻って居ない。
 不思議なもので、忙しさに紛れて忘れていた望郷の思いが突然吹き出してくる。
 今の今まで特に何の感傷もなかったのに、何故なのだろう。
 帰りたい、とまでは行かず、その理由もまたよく分からない。未だ長い夢でも見ているような感覚で居るのだろうか。
 前述の友人曰く、は変に斑のある鈍さを備えているらしかった。良くもあり、悪くもありだが、とにかくそうだと言う。
 自覚はないが、彼女が言うのであればそうなのだろう。
 珍しく気の合う、本当に友達だと思える子だった。
 気が付くと、孫策が足を止めての顔を覗き込んでいた。
「具合でも悪いか?」
 の病弱なことは周知のことで、孫策が心配するのも無理はない。
 ただ、国のことを思い出していたなどとうっかり漏らすと、後々面倒に巻き込まれそうだ。
 何処のどういう、と詳細を訊ねられれば、ボロが出るに決まって居る。
 なので、は曖昧に笑って誤魔化した。
 病気と言われれば、その可能性がない訳ではない。
 但し、風邪ではなく性病だが。
 不安を覚えた矢先に呂蒙と怪しい空気になってしまったことだし、いい加減に本気で用心しなければならなかった。
 真実その系の病気だったとして、感染させてしまったらと、考えただけでもぞっとする。
「……つーか、大喬殿って」
 そもそも何を説き伏せればいいのか聞いていない。
 問おうとするを遮って、孫策は目の前にある扉をがんがんと叩き始めた。
「おーい、大喬! 居るんだろ! なぁ、も連れて来たからよ!」
 手順というものを知らないらしい。
 頭痛を覚えて頭を抱えるが、これが孫策と言われれば納得せざるを得ない。
 早々に諦めて、何をごねているのかだけでも教えろと言いに孫策の耳に指を伸ばすと、扉がきしりと音を立て、細い隙間から大喬が顔を見せた。
「大喬」
 孫策が喜色満面で扉を開こうとすると、大喬は怯えたように身を竦め、孫策の動きを封じてしまう。
 心底惚れて居て、大喬が嫌がることは一切出来ないのだと知らしめられる。
 今更ではあるが、胸が痛むのを知らぬ振りも出来ない。
 これだ、とはしみじみ思う。
 こういう痛みが、孫策達にはないのだろうか。
 太史慈の告白を聞くに、大なり小なり、この手の痛みは感じているだろうと推測は出来る。
 もう一段階、この不快な痛みから逃れるべく、諦めるとか何とかしようとは思わないのだろうか。
 その気配が感じられないことこそ、がどうにも引っ掛かることだった。
「……どうした、
 またもや思索に耽って居たらしく、孫策が覗き込んでいる。
「やっぱ、風邪引いたのか?」
 と、孫策の言葉が終るか終らないかでの体は宙に浮いた。
 ぱたんと音がして、孫策が扉に向き直った時には既に固く閉じられた後だった。
 唖然として、しばらく間を空けた後に、ようやく大喬がを引っ張りこんだのだと覚る。
 愛する嫁と想い人に華麗に置き去りにされた孫策は、こじ開けて中に入るべきか大人しく待つかで葛藤し、犬のようにぐるぐるとその場を歩き回っていた。

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