瞬間移動ばりの素早さで強引に引き込まれたは、最初、自分の身に何が起きたのか理解できなかった。
 日の光を拒むように閉ざされた室内に目が慣れなかったことも、幾らか影響していたこともあろう。
 窓を覆う木戸もそのまま、豪奢な装飾が施された分重たげな扉もまた、光を遮るのに十分な厚さを持っている。
 目を瞬かせながら辺りを見回し、薄暗さにも慣れた頃、見えぬ誰かに扉を開けられまいとでもするかのように両手で押さえる大喬の姿に気付いた。
 その横顔は頑なで、あからさまに強張って居る。
 扉の向こうには孫策が居ることを分かっているだろうに、想い人たる男を前にした初心な少女の様とは、とても思えない風情だ。
 その目が、ちらりとに向けられ、すぐに顔ごと逸らされる。
 は、あ、と胸を押さえた。
 無邪気で人懐こい少女に、これ程露骨に否定されたのは、実に初めてのことだった。
 常にと仲良くなろうと待ち構えていた子で、喧嘩をしてさえ真正面から向き合い、が逃げるのを許さない強情を見せたこともある。
 それだけに、単純な仕草はの胸に刺さった。
 大喬は、俯いて唇を噛んでいたが、不意にの手を取り奥へと進む。
 扉に閂が掛けられているのを盗み見て、大喬の本気を察した。
 来客用に置かれたものか、瀟洒な彫刻が施された卓の前に連れて行かれる。
 差し出した手で椅子を勧められ、は戸惑いながらも腰を下ろした。
 その背に、大喬のものと思しき肩掛けが掛けられる。
 優しい温もりと肌触りに包み込まれ、体が冷えて居たことを改めて感じた。
 冷え切った残り湯で大雑把に身を清めた後、身支度もそこそこに外廊下を歩いてきたのだから、冷えて居てもしょうがない。
 けれど、そうまでしてを頼り、その身を案じながらもここまで引っ張って来た孫策の焦燥を考えると、尻の座りが悪くなった。
 夫婦仲は良過ぎる程良い二人だったから、些細な喧嘩も重症に思える。
 何とかして仲直りさせなければと気負うが、肝心要の喧嘩の原因がおぼろげだった。
 昨日の今日だから、昨夜の情事が大なり小なり関係していることは、まず間違いない。
 そこからどうこじれて今に至るかが皆目見当も付かず、どう切り崩していくべきかをは悩んだ。
 その間に、一度の元から離れて居た大喬が戻って来た。
 手にした盆には、如何にも熱そうな白い湯気を立てる茶碗が並べられている。
 一つはの前に置かれ、もう一つはその近くに置かれる。
 盆を卓の端に置き、座った大喬の位置は、のすぐ横だった。
 ほっとする。
 まだ、近くに座ろうと思うくらいには、好意を抱いてくれているのだと思えた。
 安心して気持ちにゆとりが出来たせいか、こうして室に入れてくれたのも、孫策が『風邪か』と問い掛けたのを聞いて心配してくれてのことだろうと分かる。
 暖かい肩掛けも、熱い茶も、を労わってのことだろう。
 如何な大喬とて、嫌いな相手にここまではするまい。
 自信を得て、はよしと気合いを入れた。
「あの、大喬殿。ゆ、昨夜のことなんですけど」
 途端、大喬の肩がびくんと跳ね上がる。
 これで、間違いなく昨夜のことが孫策と拗れた原因だと思われた。
「……うん、あの……ご、ごめんなさい、あのー……嫌なもの、見せちゃって……」
 微妙な話題なので、自然と言葉が濁される。
 真剣に話をしようという感じでないな、と、は内心冷や汗ものだ。
 大喬は目尻に涙を浮かべながら、ふるふると首を横に振った。
 ぐっと噛み締めた唇は、逆に何か告白しようとして躊躇っている風に取れる。
 ので、は敢えて黙る。
 黙って、大喬が口を開くのを静かに待った。
 しばらく重苦しい空気が流れたが、大喬の目尻から涙が一滴零れ落ち、それをきっかけとしたのか固く閉ざされていた大喬の口が開いた。
「……私、怖くて……」
 怖い?
 思いも寄らぬ言葉に、は首を傾げる。
 大喬は、自分の言葉に驚いたかのように再び黙したが、やがて再び口を開いた。
「……私、昨夜、大姐のところに伺って……あの……孫策様が、また大姐のところに行かれたようでしたから、心配になって……」
 一度唇を噛んで話を切ると、大喬は大きく首を振った。
「……いえ、私、やきもちを焼きました。孫策様がまた、大姐のところに行ってしまわれたって思って……私、孫策様が大姐と何をしているか分かってて、何だか悔しくて、悲しくて、行っては駄目って分かっていたのに、ひょっとしたらそうじゃないんじゃないかって……私が行ったら、孫策様と大姐はただお茶を飲んでおしゃべりしているだけで、どうしたのって大姐に笑われるんじゃないかとか、色んなこと考えて、行かないように、行っちゃ駄目って考えてたのに、どうしても足が言うことを聞かなくて、ちょっとだけ、ちょっと覗いて、孫策様と大姐が喧嘩してたらお止めするだけだからって言い訳して、大姐のお部屋の前に押し掛けて……私、恥ずかしいです……」
 顔を真っ赤にして目尻に涙を溜め震えている様は、ならずとも抱き締めてしまいたくなる可憐さだった。
 支えてあげなくてはすぐにも倒れてしまうのではないかと思わせて、勢い任せの衝動に駆られる。
「良かった」
 は、思わずそんな言葉を口にした。
 大喬もぱっと顔を上げてを凝視している。
 意識して漏れた言葉ではなかったが故に、も動揺を隠せない。
 けれど、説明せずには居られない雰囲気に、頭の中を整理しつつ続けた。
「……いやあの……私、ここのとこずっと、何と言うか、何か皆、嫉妬とかってしないなぁって思って。何と言うか、嫉妬しないって、それ結局別に本気とかじゃないんじゃないのって……好きな人の共有なんて、普通出来ないじゃないですか。普通は嫉妬するんだから。でも、それしないってことは、本気で好きってことじゃないって証拠で、だから、何と言うか……」
 やはり上手く説明できない。
 えーと、と繰り返し繰り返し、黙して待つ大喬が納得できるような説明を探す。
「……私、ひょっとしたらこれが当たり前なのかなって考えたりしたんですよ。ほら、妾とかいる訳で、奥さん以外の女の人とも……だから。でも、今、大喬殿が嫉妬してるみたいで、だから、やっぱり私と同じように感じるんだ、ちゃんと嫉妬するんだって、安心しました。で、良かった、と」
 は、自身の説明に自らも納得するものを感じていた。
 当たり前に嫉妬する筈の状況でしない、としたら、この世界の人間はとは完全に異質の存在だ。
 理解しようとして理解できるものでなく、恐らく本当の意味で孤独を感じることになるだろう。
 生まれ育つ中で育んできたものすべてを打ち棄てて、一からやり直せる程強くはない。
 誰にもの孤独を理解出来ぬまま、一人きりの世界で生きて行くのは恐怖だった。
 大喬は、分かったような分からないような、複雑な顔をしていた。
 実際、体験してみなければこの孤独は分からないかもしれない。
 言葉は通じる、けれど、生活習慣から思想から、日常の当たり前が一切合切違う世界にただ一人置かれるなど、なかなかあることではないのだ。
 雪を知らない人間が雪国に赴き、吹雪を見てはしゃぐ様を土地の者は理解できまい。
 の孤独は、そうした類のものに近かった。
 大喬が即座に理解出来ずとも、仕方がないと言えよう。
「……大姐は、凄いです」
 ぽつりと呟く大喬に、今度はが凝視する。
「嫉妬されて、安心なんて、私はそんな風には考えられません」
 そうではない。
 が慌ててフォローを入れようとするのを、大喬はくすりと笑って遮った。
「ごめんなさい、私の話、まだ途中なんです」
 そうだったのかと慌てて謝罪するに、大喬は愛らしい笑みを漏らした。
「いえ、大姐のお陰で、私、正直にお話しすることが出来そうです」
 先程とは打って変わり、気を緩めたゆったりした表情だった。
 大喬は一度座り直して楽な体勢を取ると、一呼吸置いて口を開いた。
「……私、大姐のお部屋に伺って……不思議とどなたもいらっしゃらなくて、それで引き止めてもらうことも出来なくて、まっすぐ大姐のお部屋に伺ってしまったんですけど……着いてすぐ、中から大姐の悲鳴が聞こえて、私思わず中に入ってしまったんです。それも、静かに。……大姐が危ない目に遭っているかもしれないと思った筈なのに、おかしいですよね」
 今にして考えれば、中で何が起こっているのか察していたのかもしれない、と大喬は自分自身の行動を振り返って評した。
「中に入って……閂は、掛かってなかったんです。奥の方から物音がしていて、孫策様と大姐の声がして。……そうして、奥をこっそり伺ったら、あの…………」
 大喬が恥ずかしそうに顔を伏せる。
 は沈没寸前だった。
 孫策が取らせたあの体位では、扉から進んできた大喬の目の前に結合部分が露にされた筈だ。
 他人のセックスなど、見ていて気持ちのいいものではない。AVとは訳が違う。
 そんなものをよりにもよって大喬に見せてしまったなど、あまりと言えばあんまりだ。
「あ」
 だから、『怖い』か。
 閃いて大喬を見遣ると、的中したのか大喬の顔がぱっと赤らむ。
 神聖な行為だと嘯く者も居るが、は決してそれだけとは思わない。
 本当に神聖なだけの行為だとして、ならば何故あれ程性行為を取り扱った本やら商品やらが持て囃されるのか。
 セックスは、人間の本能で行う行為であり、中でも最も背徳的な愉悦の強いものなのだ。
 淫靡で、人の欲望を掻き立てる、暗い性質を持つもの。
 そんなものを何の心構えもなく見せられて、未だ興味本位の範疇から出られずある程度は清らなイメージで捉えていただろう大喬に、刺激が強過ぎたことは想像に難くなかった。
 沈黙が落ちた。
「あの……」
 大喬が恐る恐る口を開く。
「あの、こんなことを申し上げたらいけないのかもしれませんが……」
 その申し出は、が目を剥くようなものだった。
 曰く、自分は孫策とそういうことをしなくてもいい、これからも一人でしてもらえないだろうか。
 唖然とするを見て、大喬は酷く恥じ入っていた。
 気持ちは分からないでもない。
 綺麗なものを想像していたのだろう行為を間近に見てみたら、どろどろのぐちょぐちょのねちょねちょなのだとこれ以上なく知らしめられたのだ。気持ち悪くて、とても同じことは出来ないと考えても、しょうがない。
 だが、孫策は納得するまいし、納得以前に目から鼻水垂らすのが今の時点で目に浮かぶ。
 孫策が大喬と致さないのは、あくまで大喬可愛さ故であり、二十歳になるまで我慢しているに過ぎない。大喬本人が今して下さいと懇願すれば、すぐにも応じて解禁するのは目に見えて居た。
 それに、もはい分かりましたと応じる訳にはいかない事情を抱えている。
 言うか言うまいか悩んで、言わずにおけないと結論が出た。
「……えぇと……実は……」
 が、今現在性病に罹患している恐れがあることを告白すると、大喬はぱちぱちとやや大袈裟に目を瞬かせた。
「え……え、大姐、お医者様には!?」
「イヤ、まだ……」
 の芳しくない返答に、大喬の眉が吊り上がる。
「駄目じゃないですか、大姐!」
 今すぐにでも医師を呼ぼうと立ち上がる大喬に、は慌てて止めに入る。
 医師に掛かるとなれば、まず例外なく男の医師だ。
 ここら辺は不思議なのだが、女の医師というものをは見たことがなく、これは思い込みでなく事実そうらしい。
 となれば、患部を診てもらうとなるとは見知らぬ男の前で御開帳、ということになる。
 それは嫌だ。
「でも、御病気なのでしょう?」
「……か、どうか、未だ分かんないんですって。痒かったのは昨日だけで、今日は何ともないし……第一、足開いて分かんなかったら、見せ損じゃないですか」
 ろくな理屈ではなかったが、医師の力の及ぶ範囲は未だ矮小なものに過ぎず、神と謳われる華佗のレベルですら、結果のみを比較するなら現代の医学レベルに及ばない。
 華佗が神なのは、現代医学で発達した機械や医療器具に頼らず結果を出すからであり、他の医師とは比ぶるべくもない技術を有しているからである。
 その華佗が仮にを診療してくれるとして、病の判定は未だしも治療法の持ち合わせがあるかと考えれば、甚だ心許ない。
 性病のほとんどが菌やウィルスが原因だったとは記憶している。
 如何な華佗とて、目に見えないそれらの治療まで出来るとは思えない。そも、取り扱ったことが在るかどうかも謎だ。
 治る算段があると確信できるなら未だしも、下手をすれば貴重なサンプル扱いされかねなかった。
 詳細は省いたものの、とにかく知らない男の人にこんなところを見せるのは嫌だと繰り返すを、大喬は珍しいものでも見るかのようにまじまじと見る。
「大姐でも、嫌なことや苦手なことって、あるんですね……」
 感動したのか溜息交じりに言われるが、あまり嬉しいことでもない。
 大喬からすれば、殴られても笑って許す、嫌々でも仕事だと取り組むの普段の在り方からして、例え多少恥ずかしかろうが病気となれば、当然何の問題もなく医師に掛かるものと思っていたものらしい。
「嫌なもんは、嫌です」
 むすっと唇を尖らせるを、何故か大喬は嬉しげに見ている。
 ひょっとして、大喬もまたが自分と同じように物を見、考えることを実感したのかもしれない。
 はふと、相手が自分と同じ時代に生きて居たとして、それが些細なことだとしても、人と人とが芯から分かり合うのは、本当に難しいことなのかもしれないと考えた。

← 戻る ・ 進む→

Cut INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →