大喬の室を出ると、廊下の端でしゃがみ込んでいた孫策がぴょんと飛び上った。
 何事か期待に満ちた目をきらきらと輝かせ、無言での言葉を待っている。
 大好きなご主人待ってる犬みたいだな、とは内心酷いことを考えるが、否定するにはあまりにもぴったり過ぎる言葉だった。
「何」
 不機嫌にぼそっと呟くと、孫策の目がくるりと動く。
「あ? だからよ」
 分かっているだろう的な含みを感じ、は苛っとしたものを感じる。
 この『察してくれ』が原因で、幾度騒ぎを起こしただろう。
 性格もあるから即座に改善できることではないが、孫策自身にせめても『気を付けよう』と自戒してもらわなければ困る。
 ひょっとしたら、本人も内心ではそう考えて幾らか反省しているのかもしれないが、傍から見ていてこれ程清々しく気にされていないように見えるのも、若干問題があって然るべしだと思われて苦い。
 こめかみをごりごり掻いて、内部のもやもやがもたらす居心地悪い痒みを鎮めると、は孫策の耳を引っ張り寄せた。
 近くなる顔と顔の距離に、何故か孫策の顔が嬉しげに緩んだ気がする。
――馬鹿め。
 内心で悪態吐きつつ、は孫策が最も望まないであろう言葉を吹き込んだ。
「大喬殿と直接話し合いなさい」
 案の定、裏切られたと言いたげに眉を顰めた孫策に、は声を顰めて話を続ける。
 何せ大喬本人の室の前だ。
 悪口でないにせよ、己の居ない時に自分の話を目の前でされて、良い気持ちなものではなかろう。
「事情は、聞いた。あんたが慌てたのも、無理ないと思う」
 だろ、とほっとしたように笑みを浮かべる孫策に、はただ白い目を向ける。
「でもね、私はあんたからどうまとめて欲しいって、肝心のとこ聞いてないから」
 頼む頼むで引っ張り出されて、結局孫策自身がどうしたいのかを聞いていない。
 それでは、例えがどれだけ優秀だったとしても、動きようがない。
 第一、自分は決して優秀ではないと自覚しているのだから、そも前提からしてどうにもしようがない訳だ。
 それでもまだ了承し難いと言わんばかりの孫策を無視し、ちらっと背後を見遣る。
 げ。
 そこに、不安そうに二人を見詰める大喬の姿があった。
 某野球漫画のおねーちゃんよろしく、扉の影からじっと見詰めている。
 見送りはいいからと強く言い聞かせたものの、やはり礼儀として見送りに来てくれたものか、はたまた話し込む気配を察して様子を伺いに来たものかは分からない。
 どちらにせよ、あまり嬉しくない状況には違いなかった。
 夫と愛人(?)がひそひそ話をしているのも、やはり気分のいいものではあるまい。
 は慌てて立ち上がると、孫策の肩を押し大喬の方へと押し遣った。
 孫策のガタイと筋力からすれば、如きの腕押しなど屁でもなかろうが、渦中の人たる大喬の姿を見て、慌てて小走りに歩み寄って行った。
 何とはなしに寂しいものを感じながら、しかしは一歩二歩と後ろに下がる。
 気付いた大喬が引き止めたげに目と口を開いたが、は素知らぬ振りでくるりと背を向けた。
「後は、二人で話して、ね」
 敵前逃亡よろしく駆け出すを、幸い二人が追って来ることはなかった。
 そのことにも寂しいものを感じつつ、これは仕方のないことだと胸元を押さえた。
 ぎゅっと拳を押し付けると、熱を帯びた鈍い痛みと共に冷たい何かが奥へと広がって行く。
 嫉妬しているのだと他人事のように考えながら、は目線をきっと上げた。
 鼻の奥がつんとして、不意に泣き出してしまいそうになったのだ。
 孫策のことも大喬のことも好きだ。
 愛情とは違うかもしれないが、本気で腹を立てる程度には好ましく思っている。
――それって、相当好きってことだよねぇ。
 思えば、『そういう仲』になった人達の中で、孫策程激しくやりあっている男は居ない。
 本気で別れようと(例え大喬という確固たる理由があったにせよ)したを許さなかったのも、何だかんだで結局別れられずによりを戻しているのも、孫策だった。
 ある意味、『決してむげに捨てたりしない』という実績を重ねているとも言える。
 ただ、それも詰まるところは『他の男達』の手前、意地を張っているだけと取れなくもない。
 オークションと一緒で、最初はそれ程思い込みがなかったとしても、競売相手に刺激され少額ずつ積んでいく内に諦めが付かなくなっていく、あの心理だ。
 落札者の名誉を勝ちえた快楽は途方もないかもしれないが、現物が手元に転がり込んで来た時、果たして落札者の心境は如何なものだろうか。
 やっと手に入った、嬉しいと、その場では大喜びしたとしていつまでその気持ちが続くものだろう。
 鬱陶しいネガティブ思考は、遠い未来への先行投資だ。
 いざ誰かの手元に転がり込んで、飽きて見向きもされなくなった時の為の緩衝材だ。
 悲しい想像が現実のものとなった時、何の不安もなく浮かれたところから一気に叩き落されるよりは、それなり心構えができている分マシだと思われた。
 人の心が永遠に変わらないなど、信じられない。
 少なくとも、永遠を誓える価値が己にない自覚を、は持っていた。
 持て余していた。
 いつか、自分に自信が持てるようになったら、こんな不安はなくなるだろうか。
 せめても軽くなることを祈りながら、は一人、とぼとぼと廊下を歩いた。

 が呂蒙の元を訪れたのは、孫策達と別れてだいぶ経ってからのことだ。
 今更どの面下げてとも考えたのだが、これきりと済ませられる相手でもないし、何よりも自身が嫌だった。
 拒絶されるのであればしかたがない、そうでない可能性がわずかでもあれば……と、庭の散策を装い、だらだら歩いていた足を向けた次第だ。
 扉の前に立ったがどう声掛けようかと悩んでいる間に、向こう側から扉が開いた。
 を見遣る呂蒙は、実に複雑そうな面持ちをしている。
 昨日に引き続き今日もまた、という状況であるから、当たり前と言えば言えた。
 だが、直接対峙するにとっては、針のむしろも同然の立ち位置である。
 二日続けて呂蒙を追い払った形になっている。
 原因は両日共に孫策が担っていたが、それらの根本はにその責があるのだ。
 直接行動を起こしたのがでなくとも、責任の一端として心苦しくならない訳がない。
「あ、ここで」
 呂蒙は室内を指し示したのに気付き、は慌てて断わりを入れた。
 寄せられる眉間の皺に、珍しくも不機嫌に陥っていることを察し、は戸惑う。
 他の者ならいざ知らず、呂蒙が怒るなど相当なことだ。
 が城を抜け出して後、密かに戻って馬小屋に潜んでいた時に見せた怒りの表情は、にとって忘れられない記憶となっている。
 呂蒙はしばし沈黙を守ってを見ていたが、不意に手を伸ばしての手を捉えると、そのまま中に引き込んだ。
 あっと驚く間もない。
 扉が素早く閉ざされると、夕焼けの赤い光が遮られて暗い影が落ちる。
 一種異様な空気が満ちた。
「俺が」
 呂蒙が口を開く。
「……俺などが言うのも何だが。貴女は、……お前はもう少し、怒った方が良いのではないか」
 怒られるのではなく、怒れと言う。
 呂蒙の真意が読み取れず、は目を瞬かせた。
 その様を見ていた呂蒙の顔が、不意に疲れたように緩む。
「否……怒らねば、まずいだろう。俺は、お前に、その、無理強いをしたのだぞ。それを、わざわざ訪ねてきた上に何を申し訳なさそうにしている」
「イヤ、だって」
 申し訳なくなるに決まっている。
 当帰との面倒事に巻き込んでしまった挙句、礼もそこそこ追い払われたのを引き止めることも出来ず、今日は今日で勉強会を寝過すという馬鹿げた理由ですっぽかし、きちんと詫びる間もなくまた追っ払ってしまったのだ。
 これが申し訳なくなくて、何が申し訳ないのか。
 噛みながらもが説明すると、呂蒙は大袈裟に天を仰いでうめいた。
 このワカランチン、と嘆いているようで、思わず卑屈になりそうだった。
 覆った手のひらを外し、呂蒙は深々と溜息を吐く。
「……俺は、お前に、その、襲い掛かったのだぞ。何故怒らん」
 それは。
 そうかも、しれない。
 が。
「……だけど、それは、別に……」
 嫌ではなかったのだ。
 薬の影響が多大に残っていたせいだったとしても、呂蒙をその気にさせた原因はにあるのだろうと思われた。
 事実、は呂蒙の腕に抱かれながら、誘ってしまった、その気にさせたと自覚さえしていた。
 今でもそう思っている。
 呂蒙は、呆れたような目でを見詰めた。
「……だから、男が調子に乗るのだ。お前はむしろ、そのことを自覚したほうがいい」
 もっともだ。
 正論故に黙り込むをどう捉えたか、呂蒙は繁々とを見詰める。
 捉えきれずに悩んでいるのかもしれない。
 どうであれ、自分を量るように見つめる視線が居心地いい筈もない。
 が首を竦めると、呂蒙はふっと軽い溜息を吐いた。
「……お前が、俺の娘か、せめて妹であったなら、良かったな」
 そうすれば、もう少し口を出してやれたものを、と呂蒙は続けた。
 に『常識』がないのは端から承知の話だった。
 当然誰かしら教育係を引き受ける必要があったのだが、蜀は呉の請願をあっさり呑んで応えてしまった。
 せめて、が心を許した誰かが付き添っていたのであれば未だしも、孫堅の希望かはたまた自身が暴走したのか、その大事な役どころを担う者が居ないままでいる。
 ようやく当帰という『教育係』を得られたと思ったら、その教育係本人が暴走してろくでもない騒ぎを起こしてしまう始末だ。
 怒るべきを怒らず、反省するべきでないところで反省してしまうの様は、傍から見れば滑稽でもあるが、度を過ぎて腹立たしくもなる。
 そこで話は始点に回帰し、堂々巡りとなるのだった。
 自分が、と名乗り出るのは容易である。
 事実、凌統は名乗りを上げ、の無知と暴走を上手く補填してきた。
 けれど、それは逆に危ういことでもあったのだと、凌統が不在になった時に暴露される。
 下手に上手く収まり過ぎていて、凌統の後任を務められる人物がいなくなってしまったのだ。
 一度安定したものを引っ繰り返された時、の動揺は周囲の者にもそれとして理解できる程明確なものだった。
 中原の常識を説くのが凌統でなければならない、とは、呂蒙は考えない。
 ただ、凌統『並』に信用を置かれる人物でなくてはならない、とは考える。
 それは簡単に用意できる『並』ではなかった。
 もしも呂蒙がその役に任じられるとすれば、が娘なり妹なりであることが前提になろう。
 真の意味での信頼を得るには、恋情は却って邪魔なものでしかない。
 凌統にはっきりと明言されていたことを、この数日になって急に思い出すようになっていた。
 だが、どうにもこの恋情は抑え難い。
 そもそも人の心が容易く扱えるのであれば、何もここまで苦労することもなかろう。
 だから、呂蒙は思わず無為な想定を描いてしまうのだ。
 娘、あるいは妹でさえあれば、血族でさえあれば、恋情を覚えることもなかったろうに……と。
 は呂蒙を見上げ、無感覚な目を向けて虚空に視線を投げた。
「……そうだったら、良かったかもしれないですねー」
 茫洋とした口振りには、例え望んだとしても叶うまいといったような諦観が滲んでいた。
 呂蒙の眉がきり、と引き攣る。
 もしも本心からそうしたいと望むのであれば、呂蒙はを抱き寄せたり、まして口付けを落とすなどしてはいけなかった。
 恐らく、一度でも恋情をもって触れた男を『家族』と見なすことが、にはどうしても出来ない話なのだろう。
 当然のような気もしたし、あまりに厳しいようにも思える。
 呂蒙とて、どうやってが張り巡らせる壁を越えていいのか分からない。
 あまりに厚く、また高く、そして柔軟でありながら強固な壁だった。
 壁を壁としてあしらいつつ、易々と壁の内側に入り込んだ凌統の手並に感嘆する。
 呉の、ひょっとしたら蜀に於いても、凌統以上にの信頼を得ることに成功した『男』は居らないのではないか。
 そんな風にさえ思った。
 どう攻略したものか。
 呂蒙の思考があたかも絡まった糸を呈してくる。
 ばん。
 何の前触れもなく突然開いた扉の向こうに、『二度あることは三度ある』の体現者が控えていた。
 孫策は、ずんずんと奥に進み入ると、の手をがっしり掴む。
「行くぞ」
 そのまま引き摺って行こうとするので、も呂蒙も呆気に取られながらも慌てふためいた。
「わ、若殿」
 止めなければと思い立ったらしい呂蒙に先んじて、孫策がくるりと振り返り、言い放つ。
「呂蒙。お前、未だこいつとしてねーよな?」
 露骨な物言いに時が止まる。
「してねーな?」
 重ねて訊ね来る孫策に、呂蒙は気圧されたように頷いた。
 孫策はほっとしたように笑みを浮かべ、軽く頷き返す。
「……よし、じゃー、お前がこいつとすんの、禁止な」
 禁止だ、と更に重ねて付け加えると、孫策はを小脇に抱えてすたすたと室を出て行ってしまう。
 後に残された呂蒙は呆然と、ただ見送るより他なかった。
 ふと、気付く。
 の壁を攻略する方法が、もう一つある。
 それは、孫策のように手当たり次第に破壊して突き進むことだ。
 ただし、凌統の遣り口にしても孫策の遣り口にしても、呂蒙が真似るには極めて難題であるには違いない。
 呂蒙は声にもならぬ唸り声を上げ、丁寧に結き上げた癖毛を遮二無二掻き乱した。

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