室に戻ってからずっと、大喬の為のHowTo本(竹簡に書き付けていたから本と言ってはいけないかも知れないが)を仕上げていた。
冬の空気は乾燥しているが、竹簡に墨で書いているから乾くまでに時間が掛かる。
届けるのは明日になりそうだと思いつつ、茶でも淹れるかと腰を上げたところで誰かが尋ねてきたと気付く。
心臓が跳ね上がった。
誰だろう。
太史慈だろうか。
どきどきとうるさい心臓を押さえつつ、恐る恐るの態で誰何する。
「大姐、突然お邪魔して申し訳ありません」
大喬だった。
ほっとするのと同時に、がっかりしている自分も感じる。
肉欲の凄まじさを改めて痛感し、これは確かに、振り切るのには荒行の一つもせなイカンわな、と実感する。
大喬は、美味しいお菓子が手に入ったからとわざわざお裾分けに来てくれたらしい。
ちょうどいいからと招き入れ、墨が乾いていないとあらかじめ断ってから、大喬に書き上がったばかりの竹簡を披露する。
「……何ですか?」
大喬は愛らしく首を傾げる。
墨がもう少し乾いてからの方が良かろうと、は竹簡を行火近くの床へと移した。
「お牀入りの話を、物語みたいにしてみたんですよ。私、こちらの作法とかは詳しくないから、ちょっとおかしなところがあるかもしれませんけども」
茶を淹れに立つと、大喬は恐縮して肩をすぼめた。
「私の為に、わざわざ……?」
「いや、口じゃ説明し難いことですし、こっちのが分かり易いかと思って」
気にしないでくれと笑うと、大喬ははにかみながらも微笑んだ。
作法などは、それこそ侍女の皆さんにお任せするとして、は牀の中で実際に何をどう致すのかを教えてやれば良いと思っている。
やることには古今東西変わりはない筈だから、要は、大喬が変な先入観や恐怖感を抱かないように予備知識を与えておこうと言うだけだ。
それだけに気を使わねばならぬことは多かったが、書いてて楽しかったのも事実である。久し振りに同人活動に勤しんでいるような気がした。
物語は、許嫁を持つ男が、戦に赴かなければならないところから始まる。
城仕えの文官の一人として戦に参ずることのなかった男だったが、男の許嫁に目を付けた上役の陰謀で突然出征を命じられる。
もう戻って来られないかもしれないからと許嫁に別れを告げに行くと、許嫁は半狂乱で泣き出し、せめて一夜限りでも貴方の妻にしてくれとすがる。
男は迷うが、結局許嫁の強い願いに根負けし、許嫁を抱くことにした。
許嫁は涙を零す程に喜び、しかし急なことで何をどうしていいのかさっぱり分からない。
恥ずかしながらと男に打ち明けると、男は許嫁を優しく慰めながら、自分が教えながら事を進めるので、決して恥ずかしがったり嫌がったりしないよう言い含めるのだった。
とりあえず、話はここで途切れる。
大喬がお牀入りに甘い夢を持てるようなりに極甘展開を目指したもので、本来書かねばならぬお牀入りまでに至らなかった。
要約すれば短いのだが、ここまでの展開で結構な文章量になってしまったのだ。
が茶を淹れ振り返ると、席に着いている筈の大喬の姿が見当たらない。
何処に行ったかと辺りを見回すと、床の辺りにちらちらと目に鮮やかな布地が目に入る。
「大喬殿?」
覗き込めば、やはりそこには大喬が居た。
何をしているのかと思ったら、床に置いてある竹簡をわざわざ膝を着いて読んでいる。
げ。
後で持って帰ってもらうつもりだったは、動揺のあまり盆に載せた茶を零した。
イベントで、自分が作った本を目の前に立って読まれる感覚に似ている。
久し振り過ぎて、心臓が跳ね上がった。
う、わ、わ。
顔が赤くなった。
童話や物語を語って聞かせるのも、最初は抵抗があった。
しかし、これは一から十まで本当にすべての創作なのだ。いわば、の頭の中を直通で見られているようなものだった。
恥ずかしくない方が嘘だ。
まして、書いた本人を前にこんなガン見されてしまっては、恥ずかしさも究極進化を遂げる。
いやーっ、見ないでぇぇぇぇぇっ!!
見せる為に書いたものだというのに、は無意識に叫びそうになってしまった。
「だ、大喬殿」
後にして下さいとお願いしようと声を掛けるも、大喬は振り返りもしない。
「だ。大喬殿っ!!」
声を振り絞って呼び掛ければ、ようやく大喬も振り返った。
「あの」
先にお茶を飲もうと盆を掲げるが、大喬は妙に切羽詰った顔でを睨め付ける。
「後ですっ!」
「はい」
勢いに負けたは、一人で椅子に腰掛けた。
茶碗を傾け、落ち着こうと苦心するが、目の前で読まれているとあっては妙に落ち着けない。
卓が大喬の姿をほぼ隠してしまっているので気になることもなかろうと思っていたのだが、隠れていれば隠れていたで、やはり気になって自分からちょこちょこと覗き込んでしまう。
に背を向けてしゃがみ込んでいるので、大喬の表情は窺えない。
面白いかな、どこが面白いかな。あそこのシーンはちょっと悩んだんだけど、後、あそこはちょっと分かり難いかもしれないけど大丈夫だったかな。
不安と期待がないまぜになってを襲う。
そわそわしていると、突然大喬が立ち上がった。
「大姐!」
「はい!」
「続きは!?」
「は」
ない。
まだ書いてないと言うと、大喬の顔がふにゃっと歪んだ。
「こ、このお話、どうなってしまうんですか」
「いや、だから、この後お牀入りして……」
しどろもどろになりながら説明すると、大喬の顔がぽっと赤らんだ。
「そ、そうですよね……あの、この男の人、ちゃんと帰ってきますよね?」
「えと、帰る……と言うと……」
「戦に行っても、ちゃんと無事に帰ってきますよね?」
そこまでは決めてない。
の頭の中での予定では、男は許嫁と契りを交わし、戦場へと旅立つところで終わっている。
「そんな」
大喬が珍しく駄々をこねる。
「ちゃんと生きて帰ってきますよね? そうでないと、この許嫁の人が可哀想です! あ、でも、男の人が帰ってくる前に、悪い上官が何かしてきたらどうしましょう……大姐、何とかなりませんか?」
「いやあの、大喬殿」
架空の世界の架空の作り事だと説明しても、大喬はどうも納得が行かないようだ。
「でも」
と床に置かれた竹簡を見比べて、悲しそうな顔をしている。
と思ったら、本当に目に涙を浮かべているのでびっくりした。
「いやあの大喬殿。お話ですよ? ここから、お牀入りの話に入るんですよ?」
秘め事睦言の件をどう書くかを考えていたは、思わぬ大喬の反応に驚かされていた。
あんまりいやらしく書いても何だし、しかしさっぱりし過ぎていてはHowTo本として用を為さない。
ところが、大喬の関心は今やお牀入りの解説よりも物語の男女の行く末に集中してしまっている。
勧められるままに椅子に腰掛け、冷め掛けた茶を啜っている大喬の姿は、傍に居るの目からもしょんぼりとして見え哀れだった。
面白いと思ってくれたらしいのは嬉しいが、こうまで過敏に反応されると困惑する。
「大姐」
不意に大喬が顔を上げ、は空気がおかしなところに入り掛けた。
「これ、お借りしてもいいですか」
竹簡を指差す。
元より大喬に与える為だけに書いたものだ、何も構うことはない。
が頷くと、大喬は嬉しそうに笑った。
「これ、書き写してもいいですか?」
「か」
書き写すのはどうだろうと考え、しかしよく考えれば、続きを書くにも手元に前の話がなくては書きにくい。下書き清書に加えてもう一度となると、さすがにが辛くなりそうだった。
大喬がやってくれると言うなら、それはそれで大助かりだ。
「……じゃあ、お願いします」
が頭を下げると、大喬は嘘でなく歓声を上げた。
最初の用向きだった菓子を取り出し、茶菓子にする。
「そうだ、これ、小喬にも見せていいですか?」
「あー……そう、ですね。小喬殿になら」
小喬であれば構わない気がした。
「あ、でも、他の方には……」
が付け足すと、大喬は不思議そうな顔をした。
「いや、この後、そのー……お牀入りのシーン……場面を書くんで、さすがにそういう件の話を他人に見られるのは……」
恥ずかしい。
それに、中国ではこの手の本は厳しく取り締まられていたという歴史があった筈だ。
この世界ではどうか知らないが、できれば知られたくないというのが自然な感情だろう。
エロは、表街道歩いたらいかん。
裏は裏たれという、の信念だった。幾ら楽しい面白いと言って、全年齢対象にエロいものを垂れ流すのはいただけない。
あの人はエロ書きですと指差されるのも本気でいただけない。
まして今のは、蜀の文官として呉の中で孤軍奮戦しているような状態だ。引け目はなるべく作らぬ方が良い。
訴える内容はたどたどしくも、しかし身分立場がある身でこんな猥褻な話を書いているとは知られたくないというの気持ちは通じたらしい。
何となくでも納得してくれたようで、小喬にも必ずしっかり言っておくと言ってくれた。
「……あ、でも、孫策様に見せるのは……」
「駄目です」
そこは一番駄目だろう。
何せ孫策のことだ。がこんな話を書いていると知れば、欲求不満なのではないかと気を回す程度のことはしてくれるだろう。
ひょっとしたら、こういうことがして欲しいのかと勘違いするかもしれない。
最悪、がこんな話を書いた、面白いから読んでみろと駆け回る恐れすらあった。
どれもこれもいただけないが、下に行く程いただけなかった。
「でも」
折角面白いのに、という大喬の言葉は有難いが、謹んでお断りする。
「これはね、大喬殿。私と大喬殿と小喬殿、三人だけの秘密のお話なんです。ね、三人だけしか知らない、秘密のお話」
「秘密、ですか……」
の勢いに圧倒され、目を白黒させていた大喬も、限られた面子で秘密を共有する楽しさに俄然興味が湧いたようだ。
くすっと笑うと、の耳元に囁き掛ける。
「私達だけの秘密、ですね」
「そうそう」
続きはなるべく早くに書くから、と約束すると、大喬の目が輝いた。
「本当ですか、絶対ですよ!」
そんなに気に入ってくれたか。
嬉しいようなくすぐったいような思いに駆られ、は顔をほころばせた。
「本当です、何なら、指切りしましょうか」
「指切り?」
ぎょっとする大喬に、は笑いながら指切りのやり方を教えてやる。
「本当に切る訳じゃないんですよ、真似だけ。指切るくらい絶対の約束だよってことです」
指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲ーます、指切った。
ぴ、と指が離れても、大喬はしばし繋がれていた小指を見詰めていた。
「針、千本も飲むんですか……」
恐ろしげに身を震わす大喬に、ただの脅し文句で実際にそうする訳ではないと分からせるのにはまたしばらく手間取った。