大喬に聞こうと思っていたのに、うっかりそのまま帰してしまった。
 聞き難かったということもある。
 孫策が何故練兵に行ってしまったのか、などと、尋ねる方が馬鹿げている。勝手をした罰として、もう一度討伐なりが控えているからだと理由も既に聞いてあった。
 それ以上何があると言うのか。
 また、が尋ねていい話でないだろうことは、呂蒙に凌統のことを尋ねた時に学習済みだ。軍事に携わるようなことに、蜀の文官たるが首を突っ込んではいい顔をされないだろう。
 言い訳だと感じた。
 張昭は、考えたことはないのかと言っていた。
 考えたことはない。
 ならば、考えてみることだ。
 孫策の練兵の話は、確かに急に決まった。
 それまでの穴を埋めようと(おかしな意味でなく)の傍に纏わり付いていた孫策が、突然練兵に行くと言い出した。
 あの時、孫策の様子はどうだっただろうか。
 にはだが、普通に見えた。
 いつ討伐だ出征だと命が下るか知れない、兵を鍛えておいてやらねばならない、と話していた記憶がある。
 そう、お前と離れてなきゃいけないことだって、これから何度もあるだろうしと言っていた。
 今更ながらに違和感を感じる。
 孫策は、猪突猛進な男だ。それが良くもあり、悪くもある。とにかく視界が狭い。何に付けても行き当たりばったりなのだ。
 そんな男が、『これから』の話をするものだろうか。
 孫策ならば、といつも一緒に居るのだと信じて疑わないのではないか。居て当然だから、離れることなど考えもしない。
 それが孫策らしいと思った。
 が何か仕出かして、孫策が飛び出して行ったというのも考え難い。
 孫策は、考えが表に出るのが常だ。隠そうともしない、できない不器用振りが魅力の一つだろう。
 だから自信を持って否定できる、筈だった。
 言い切れない自分に、は自分の額を軽く小突いた。
 どんなに明確なことであっても百パーセントの自信を持てないというのは、これから論客となるべく鍛錬を積まなければならない身にとっては弱点もいいところだった。
 嘘も方便ではないが、こうだと思ったら貫き通さなければならない。
 大陸の通例なのか、譲り合うということがまずないお国柄だけに、の『いいとこ取り』的な考え方は通用しないようなのだ。
 複数の意見はまとめるものではなく、論破するもの。
 最強こそが最良である。
 ナンバーワンよりオンリーワンに弱い典型的日本人のには、頭が痛い事柄の一つだった。
 切り捨てて考えられるなら、色恋沙汰ももう少し上手く事が運べるだろうに。
 誰が好きなんだろう。
 は、改めて考えた。
 自分はいったい誰が好きで、誰と一緒に居たいと願っているのだろう。
 蜀を離れ、趙雲、馬超、姜維のことを考えることはめっきり少なくなった。
 周囲に翻弄され、そんな暇がないのだと言えるのは言える。
 けれど、が見聞きしてきた恋愛と言うものは、そんなものではなかった筈だ。
 会いたい、声が聞きたいと思いが募り、涙が零れるような切ないものでなければならない筈だ。
 してみると、が彼らに寄せる思いは恋ではないのかもしれない。
 では、呉にいる男達はどうか。
 それこそコンプリートも可能かのようにちやほやされているが、が常に想う男は居ないような気がする。会いたい、と駆け出すような相手は、考えてみても思い浮かばなかった。
 ふと、凌統の顔が胸の内を過る。
 ばかだなぁ、あんたは。一体全体、何やってるんだい。
 軽口を叩きながら、口元に笑みを浮かべている。
 何やってるんだろうね。
 それに答えながら、は溜息を吐いた。
 早く帰ってこないかと思う。
 遂に太史慈にも肌を許してしまった。
 凌統が近くに居て、見張ってくれていればなかった事態かもしれない。そうでなくとも、凌統が傍に居れば、居るからという緊張感で気が緩むことはなかったかもしれない。
 公績が傍に居てくれたら、きっと落ち着いて居られて、流されたりなんかしないのに。
 うんと叱られるからなぁと想像して苦い笑みが零れたが、すぐに表情が曇る。
「……早く、帰ってこないかなぁ」
 口に出せば尚寂しくなって、は不貞寝するように卓に突っ伏した。

 気が付いたら、本当に寝こけていた。
 昨夜の疲れもあったし、文官達の集いに呼ばれた緊張も疲労として蓄積されていたのだろう。
 とは言え、勉強もしなくてはならないし、尚香も大喬も話の続きを待っている筈だ。やらなくてはならないことはそれなり積もっている。
 少し寝たお陰で体力も少しは回復した。
 せめて手を付けられるところは付けておこうと思い、アイディア捻出と眠気覚ましを兼ねて庭に足を踏み出した。

 真冬の冷たい空気が、熱くなった頬をも瞬時に冷ます。
 息を吐き出すと真っ白く染まり、足元の土は気のせいかしっとりとして冷たい。
 明日の朝には一斉に霜柱が出来るのかもしれないと思うと、不思議と楽しかった。
 アスファルトで覆われた都会では、霜柱を見ることはまずない。本当はあったのかもしれないが、通勤に気が急く朝方のこと、土を持ち上げて生える霜柱を見て探す余裕などなかった。
 足の下で砕けてざくざくと鳴る霜柱を見るのは、子供の時以来かもしれない。
 人の気配を感じて振り返ると、そこに驚いた顔をして立っている孫権が居た。
「こんばんは」
 自然に挨拶の声が漏れた。
 孫権も慌てて鷹揚に頷くが、それきり口も開かなければ身動ぎもしない。
 ただ、を見ている。
 その視線の強さには苦笑するしかなかった。軽く会釈して立ち去れる空気ではない。
 この男とも、寝た。
 腹の中に、この男の種が宿っているかもしれない。
 想像しても現実味がまるでなかった。それどころか、孫権と寝た記憶さえあやふやだ。
 寝たのは、寝た。
 それは覚えている。
 けれど、どんな睦言を聞いたか、どんな愛撫を受けたかは良く思い出せない。他の男達の記憶に紛れて、入り混じってしまっていた。
 恋愛ものでは、抱かれた記憶が鮮やかに焼きついて、などとよく言っている。
 のように、複数の男を相手にしている恋愛ものはあまり記憶にない。
 だが、指先一つまで覚えているのが本当に好きな相手だと言うのなら、孫権はが好きな相手ではないのだろう。
 かと言って、では指先一つの記憶漏れもない相手には心当たりがなかった。
 やっぱり、誰も好きじゃないんじゃないかな。
 好きのボーダーラインが見出せない。
 読み漁った本の知識は、今のには何の役にも立たなかった。
「……お散歩ですか」
 限のない思考に見切りを付け、孫権に笑い掛ける。
 の問い掛けに、孫権はややぎこちなく頷いた。
「最近、お見かけしませんでした」
「正月の祝宴の時は、義姉上がお前の護衛に勤しんでおられたからな」
 確かにそうだ。
 大喬の必死な様を思い出し、不謹慎ながら笑ってしまいそうになった。
 本当は、笑い事ではないのだ。
 孫堅の命により、は知らぬ間に共用の娼婦に任命されていた。女として、大事な友人として、大喬はに気取られぬよう必死にを守っていてくれたのだ。
 笑ってしまっては、無礼にも程があろう。
 でも、笑うぐらいしか出来ない。
 溜息すら出ない。
「……仲謀様は、いらっしゃらなかったんですか」
 意地の悪い問い掛けだと思う。
 お前も知っていたのだろうという前提の下での問い掛けなのだから、意地が悪いでは済まないかもしれない。
 孫権は、だが平静に答えた。
「行かなかった」
「どうして?」
 来ればいい。
 そういう男達の一人になりたかったのだろう。
 ならば、遠慮なく来れば良かったのだ。
 孫権は年若い。有り余る性欲を持て余し、どこかに吐き出さないでは納まるものも納まらないのではないか。
「私は、あんな連中とは違う」
 張昭は、どちらかと言えばの元に押し掛ける男達に同情的だった。きっかけが何であれ、を恋しく思うからこそ押し掛けてくるのだと。
 孫権は違うのだろうか。同じ男として、彼らの心情を汲んだりはしないのだろうか。
「私は、お前が、愛おしいから抱くのだ。父上の思惑も、兄上のお考えも他の男達の方寸も知らぬ。分からぬ。だが、決して、女を抱きたいから抱くのではない。それだけは、断じて違う」
 断じてだ、と繰り返し口にする孫権の顔は強張っていた。
 寒さの為か怒りの為か判断は付かない。
「私の、」
 こんな問い掛けは無意味に過ぎる。
「私の何処が、好き、ですか」
 だが、尋ねずには居られなかった。
 例え答えを与えられても、何万回でも繰り返し尋ねてしまうだろう。
 愛される自信がない。
 愛され続けられる自信がない。
 不安になる度、何度でも尋ねてしまうだろう。
 鬱陶しい女だと思う。
 自信を持つ為に他者に依存するなど、恥ずかしい限りだと思う。
 好いてくれている人だからこそ負担を掛けたくない。
 自分を好きなのだから、これぐらいはやれ、これぐらいは許せ、そんな考えは傲慢に過ぎて許されないと思った。
 嫌われたくなかった。
 一度好かれたら、永遠に好きで居て欲しいと思う。
 けれど、そんな我がままを通してもらえる訳がない。
 少なくとも、何もせずに叶う希望ではない。慣れは相手への甘えを増長させる。我がままを当然だと勘違いして、相手を傷付けていくことは少なくない。
 好意にかまけてはいけない、溺れてはいけない、鈍くなってはいけない。
 例え一人を相手に行うにしても、大変な労力と気遣いが必要なことだ。
 だから選べないのか。
 失敗したら怖いから。
 一人になったら、取り残されたら怖いから。
 こんなややこしい女の、何処が好きなのか。好きになれるのか。
 教えて欲しかった。
 けれど、きっと納得はしないだろうとも思っていた。
「お前は」
 孫権の目がゆるりと和む。
「何も、分かって居ないのだな」
 分かっていないだろうか。
 そうかもしれないが、これで何人目だろう。皆、申し合わせたかのように、に向けて分かっていない分かっていないと言い立てる。
「……そんなに私、分かってないですか」
「分かってないな」
 逡巡した挙句の問い掛けも、孫権にあっさりと肯定された。
「お前の方寸を我が手に得たい」
 孫権は腕を伸ばし、を閉じ込める。
「それが叶わぬなら、せめてその身に触れていたい。……それだけの話だ」
 この身の内に、得たいと望む方寸が収められているのだから。
 の頬が赤く染まった。
 孫権の言葉があまりに真摯で、滅茶苦茶恥ずかしくなった。
「顔が赤いな。熱でも出たか」
 孫権は、笑っている。
 具合が悪いのかと心配している様子はない。熱ではなく、が恥ずかしがって頬を染めたと承知で言っているのがありありとしていた。
 照れからむっとするを、孫権はそっと抱き寄せた。
 優しげな、愛おしげな抱き方に、はますます頬が熱くなるのを感じる。
 寒さを忘れてしまう程の暖かな温もりに包まれ、はひっそりと目を閉じた。

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